山城の国一揆

応仁の乱(『真如堂縁起絵巻』)後に山城の国一揆へ/wikipediaより引用

合戦・軍事

戦国時代に三十六人衆を中心に独立~山城の国一揆ってどんな一揆?

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「三十六人衆」を中心に「惣国」を組織

年が明けて文明十八年(1486年)、国人たちは自治のために動き始めました。

当然でしょう。

管領家の一つ(畠山)が自分たちの地元で仲間割れするわ、幕府はアテにならないわ。

ボケっとしてると、また他所から戦を持ち込まれかねない状況です。自分たちで何とかしようと思うのも当然のことでした。

残念ながら、国人たちがどのような掟を定めたのかは記録に残っていません。

しかしこのときから南山城の支配は「三十六人衆」と言われる国衆を中心に行われるようになりました。

この組織を「惣国」と呼び、【検断(けんだん・警察や裁判など)】を中心に地域支配などを担うのです。

惣国における重要事項は集会で決めることになっていました。

が、日常的な政務については、月行事(がちぎょうじ・月替りで交代するお偉いさん)が行っていたようです。

身近なものに例えるとすれば、学級委員を一ヶ月ごとの持ち回りでやっていたみたいな感じですかね。

しかし、自治のための費用がどこから出てきていたのかはよくわかっていません。

八年間も自治をしていたのですから、それなりに安定した収入があったはずなのですが……。

由緒正しい家の武士ですら記録をきちんとつけないのが珍しくない時代なので、国人たちに「記録する」という意識が薄かったのでしょうか。

 


「幕府がなくてもやっていける」

さて、ここで幕府からの視点に移りましょう。

前述の通り、山城の国一揆は宇治周辺で起きたものです。

室町幕府からすると目と鼻の先で、

「幕府がなくてもやっていける」

ことを証明した勢力ができてしまったわけですから、鬱陶しいことこの上ありません。そもそも幕府のお偉いさんのせいでこうなったんですけどね。

国人衆としても、既に幕府に対して信頼ゼロですから、何か言われても抵抗します。

実際、幕府が新たに伊勢貞陸(いせ さだみち)を山城国の守護職に任じたものの、彼は現地に入れずじまい。

しばらく経った明応二年(1493年)3月、足利義稙の河内出陣準備中にも、再び伊勢貞陸が守護に任じられましたが、やはり国人衆の自治地域には入れませんでした。

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ところが同年8月、事態はにわかに動き始めます。

幕府が山城八郡の武士に「守護・伊勢貞陸の下知に応ずること」を命じると、これを受けて山城の国人は伊勢氏の守護支配を受け入れたのです。

国人衆も一枚岩ではないので、その後も反対する動きは多少ありましたが、大勢にはなっていません。

大きな衝突にならなかったのは、【明応の政変】で相対的に伊勢貞陸の力が増して反抗しにくかったことや、足利義稙や畠山政長を攻めた兵力がそのまま南山城に来る可能性があったことが影響したと思われます。

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また、貞陸も細川政元も南山城の国人衆を味方に引き入れようとしていたので、これによって国人衆の結束が乱れてしまい、自治が不可能なレベルになってしまった……ともとれます。

要は、いよいよヤベェ相手がきて、国人も身内で揉め始め、反抗するにも限度がある――と判断したのですね。他に選択の余地はなさそうです。

 


最後に流れをマトメておこう!

では最後に、山城の国一揆をものすごくザックリまとめておきましょう。

①畠山氏の内紛で南山城の人々が迷惑する

②南山城の国人衆が畠山氏を追い出す

③国人衆による自治が始まる

④室町幕府「今度はマトモな人を守護として送るからいい加減言うこと聞け」と切り崩し工作

⑤国人衆「まっ、いいか」

⑥自治終了

みたいな感じですかね。

本当はもっとゴタゴタしていて、この後も一波乱あるのですが、仮に受験生の方がお読みでしたら十分ではないでしょうか。

とにかくまずは流れを理解でき……ていれば嬉しいのですが。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「山城国一揆」
山城の国一揆/wikipedia

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