歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

千早城合戦図(江戸時代に描かれたイメージ)/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

千早城の戦いは1,000対20万だと!?寡兵の楠木軍はどうして幕府の大軍に勝てた?

投稿日:

古今東西、著名な武将には、何かしら知られた合戦が連想されがちです。

源義経であれば一ノ谷(奇襲)や壇ノ浦(八艘飛び)。

織田信長なら桶狭間の戦い長篠の戦い

徳川家康だったら三方ヶ原の戦いと関ヶ原の戦いあたりでしょう。

では楠木正成の場合は?

元弘三年(1333年)の閏2月5日に始まった「千早城の戦い」ではないでしょうか。

残念ながら歴史ファン以外での知名度は低いですが、この戦いは前後を含めて見ると大変興味深いものです。
早速、確認して参りましょう。

 

赤坂城と千早城

千早城は、山城です。
場所は大阪(現在の南河内郡)。城の麓から同城に至るまでの間には、赤坂城という別の城がありました。

赤坂城はさらに上と下の二つに分かれており、山全体で捉えると、正成の城が三つあったことになります。
この時代まだ天守閣はありませんので、イメージ的には砦のほうが近いですけどね。

河内千破城図(湊川神社蔵)/wikipediaより引用

最初は下赤坂城で戦が始まりました。
正成一同はここでも約一月ほど戦いましたが、兵糧攻めにあったため持ちこたえることはできないと判断します。

しかしノコノコ出て行ったのでは首を刎ねられておしまいです。

そこで「楠木家は一家揃って自害した」と見せかけるために一計を案じました。

 

スポンサーリンク

敵兵の遺体20~30と共に城を焼き

その方法は何か?

「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」とばかりに、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を20~30ほど集め、赤坂城ごと火にかけたのです。

当然、遺体は真っ黒焦げ。
後で城の中を検分した幕府軍は
「正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」
と一人合点して引き上げます。

が、翌年、正成は見事に復活(?)し、幕府軍の度肝を抜きます。
そして下赤坂城を奪い返しました。

以前の戦いでここでは持ちこたえられないということはわかっていましたから、背後の千早城に移って再度幕府軍と戦う事にしたのです。

 

「今度こそ正成の息の根を止めてくれる!」

一度死んだはずの相手が出てきたとなると混乱しますよね。

ところが血の気の多い幕府軍は違いました。
「今度こそ正成の息の根を止めてくれる!」と逸って、一斉に千早城へ攻めかかります。

それこそ正成の思うツボ。

堀をよじ登ろうとされれば大石や丸太を落とし、幕府軍がはしごで堀を渡ろうとすれば油を撒いて火をつけるといったように、臨機応変な対応で敵を城内へ入れませんでした。

ついに直接乗り込むことを断念した幕府軍は、
「なーに、ここは山奥なんだから、水源を押さえればそのうち勝てるさ、HAHAHAHAHA!」
と下赤坂城のときと同じ手を使おうとします。

楠木正成/wikipediaより引用

 

スポンサーリンク

城内には水の蓄えが十分なのよ♪

さすがの楠木正成も、これには手が出ない。
と思いきや、「同じ手を何回もくらってたまるかい」とばかりに対策を整えていました。

千早城内には大きな木をくりぬいて作った水槽がたくさんあり、たっぷり水を汲んでおいたのです。
下赤坂城が落ちてから再び姿を現すまでの間に準備していたのでしょうね。

当然水で困るような事はなく、攻め手の狙いは大ハズレ。

そうこうしている間に幕府軍の中に厭戦ムードが漂いはじめ、さらには幕府方から裏切った足利尊氏が六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府の出張所みたいなもの)が攻め落としたことで、もはや千早城や正成に構っている場合ではなくなりました。

そして5月10日、幕府軍は千早城の包囲を解いて撤退したのです。

 

楠木側が500~1,000に対し幕府軍は数十万だと!?

この戦の記録には信憑性のあるものがなく、ハッキリした戦力差はわかりません。

『太平記』では楠木側が500~1,000に対し、幕府軍は20万~100万というトンデモナイ数字が出ているくらいです。

おそらく楠木側はこのくらいだったでしょうが、幕府軍のほうはどう考えても盛りすぎ。
多くても5,000規模ぐらいだったのではないでしょうか。

東京大学・本郷和人教授の『軍事の日本史』を参考にしますと、鎌倉期の有力御家人が動員できた兵数が300人とか500人などの数百単位です。

守備サイドの楠木軍500とか1,000という考察と合致しますね。

戦国時代の合戦と比べると『少なっ!』と思われるかもしれませんが、鎌倉幕府の滅亡~南北朝時代は、戦場に足軽が導入される過渡期だったようで、兵数がさほど大きくないんですね。

純粋に武士vs武士の戦い。
つまりプロ同士が殺りあうのですから、数百でも相応の迫力だったとは思いますが。

いずれにせよ「多勢に無勢」をひっくり返した千早城の戦い。
後世の我々から見るとスカッとする合戦には違いありませんね。

長月 七紀・記




スポンサーリンク


【参考】
国史大辞典
軍事の日本史
千早城/wikipedia

 



-鎌倉・室町時代, その日、歴史が動いた
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.