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【千早城の戦い】
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「今度こそ正成の息の根を止めてくれる!」
一度死んだはずの相手が出てきたとなると普通は混乱しますよね。
ところが血の気の多い幕府軍は違いました。
「今度こそ正成の息の根を止めてくれる!」とはやって、一斉に千早城へ攻めかかったのです。
それこそ正成の思うツボでした。
敵兵が堀をよじ登ろうとすれば大石や丸太を落とし、幕府軍がはしごで堀を渡ろうとすれば油を撒いて火をつけるといったように、臨機応変な対応で敵の侵入を防いだのです。
幕府が用いた楯板(たていた)は木っ端微塵に砕かれ、鎧武者が石で潰され――といった調子で数多の武士たちが傷ついた様子が記録されています。
さらに正成は、
「城外の木陰に藁人形を並べ、そこで一斉に大声を上げて敵を引き寄せ、大量の石をぶっ放す」
という三国志やゲームみたいな作戦までやっています。
もう、戦い方の根本が従来の鎌倉武士スタイルとは変わっていたんですね。
ついに直接乗り込むことを断念した幕府軍は、
「なーに、ここは山奥なんだから、水源を押さえればそのうち勝てるさ、HAHAHAHAHA!」
と、下赤坂城のときと同じ手を使おうとします。
城内には水の蓄えが十分よ
さすがの楠木正成も、これには手が出ない。
と思いきや、「同じ手を何回もくらってたまるかい」とばかりに対策を整えていました。
千早城内には大きな木をくりぬいて作った水槽がたくさんあり、たっぷり水を汲んでおいたのです。
下赤坂城が落ちてから再び姿を現すまでの間に準備していたのでしょうね。
当然、水で困るような事はなく、攻め手の狙いは大ハズレ。
そうこうしている間に幕府軍の中に厭戦ムードが漂いはじめ、さらには幕府方から裏切った足利尊氏が六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府の出張所みたいなもの)が攻め落としたことで、もはや千早城や正成に構っている場合ではなくなりました。
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そして5月10日、幕府軍は千早城の包囲を解いて撤退したのです。
楠木側が500~1,000に対し幕府軍は数十万だと!?
この戦の記録には信憑性のあるものがなく、ハッキリした戦力差はわかりません。
『太平記』では楠木側が500~1,000に対し、幕府軍は20万~100万というトンデモナイ数字が出ているくらいです。
おそらく楠木側はこのくらいだったでしょうが、幕府軍のほうはどう考えても盛りすぎ。多くても5,000規模ぐらいだったのではないでしょうか。
東京大学・本郷和人教授の『軍事の日本史(→amazon)』を参考にしますと、鎌倉期の有力御家人が動員できた兵数は300人とか500人などの数百単位です。
守備サイドの楠木軍500とか1,000という考察と合致しますね。
戦国時代の合戦と比べると『少なっ!』と思われるかもしれませんが、鎌倉幕府の滅亡~南北朝時代は、戦場に足軽がようやく導入される過渡期だったようで、兵数がさほど大きくないんですね。
純粋に武士vs武士の戦い。
つまりプロ同士が殺りあうのですから、数百でも相応の迫力だったとは思いますが。
いずれにせよ「多勢に無勢」をひっくり返した楠木正成と千早城の戦い。
後世の我々から見るとスカッとする合戦には違いなく、もっと世に知られて欲しいです。
今年の大河は鎌倉で、来年が戦国ですから、その次に室町(南北)が来てもよさそうなんですけどね。
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【参考】
国史大辞典
本郷和人『軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル』(→amazon)
千早城/wikipedia