承久三年(1221年)5月14日は承久の乱が勃発した日です。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対抗する兵を挙げ、約1ヶ月で鎮圧された出来事ですね。
朝廷の軍が武家政権に負けた――そんな衝撃的な展開であり、『鎌倉殿の13人』ではドラマ最終盤のクライマックスにもなりましたが、不思議なことに世間的にはあまりインパクトがない気もします。
学校の授業だと「この年に承久の乱があって幕府が勝ちました」ぐらいのことしか説明されないですよね。
しかし、この一件は、日本史上でもかなり大きな転換点と指摘されることもあります。
本稿では、事件前の時点から、流れを追っていきましょう。
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文武両道な後鳥羽上皇
承久の乱――。
その名前に「乱」とついているせいで、何となく
「後鳥羽上皇のご乱心でドンパチが始まったんだろうなぁ」
というイメージの方もおられるかもしれません。
なんなら『戦のプロである幕府相手に勝てる見込みもないのに、上皇は何を考えていたんだ?』という印象をお持ちの方も。
それは結果だけを考慮した見方でしょう。
後鳥羽上皇は、歴代天皇の中でも相当な能力の持ち主でした。
荘園を集めることによって、主に畿内&西日本の政治経済を動かしていたばかりか、幕府と戦うための軍事力も有していたのです。
本人も武芸に通じ、武士団(北面の武士・西面の武士)を掌握。
「西面の武士は身辺警護強化のため」という見方もありますので、この辺は意見が分かれるところですけれども、鎌倉幕府の御家人も味方に引き入れるなどして、その強化を着々と進めていました。
例えば大内惟義(おおうち これよし・六カ国の守護)や、藤原秀康(八カ国の国司)などはその代表格といえますね。
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親幕派の九条兼実が失脚
大内惟義は鎌倉幕府でも重要な存在であり、北条義時にとっても非常にアタマの痛い存在でした。
この時点では義時も幕府内の統一が最優先事項。
朝廷とのトラブルはできれば避けたい。
鎌倉幕府ができてしばらくの間は、公家の最有力者といえる関白・九条兼実が親幕派だったので、歩み寄る姿勢もありました。
しかし建久七年(1196年)、兼実は源通親によって失脚。
通親は後鳥羽天皇に養女を入内させており、その女性が産んだ土御門天皇を即位させました。
これは後鳥羽天皇の意向もあったようです。
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こうした状況を見た頼朝は「マズイ……」と思い、上洛して介入しようとしましたが、前年の落馬事故が遠因となったようで正治元年(1199年)の年始に死去。
一説にはこの上洛で娘の入内を図っていたとも言われながら、実現しませんでした。
さらに、日本各地で幕府の派遣した守護・地頭と、朝廷から派遣された国司の間でトラブルが起きるようになります。
税は無限に取れるわけではありませんから、どちらかが税を取ればもう一方に収める分がなくなり、庶民も徴税しそこねたほうも困るわけです。
これも頼朝の生前に解決しないどころか、ずっと持ち越されてしまいます。
トラブルはさらに続きます。
鎌倉と京をつなぐ実朝
頼朝から将軍を継いだ長男の源頼家が周囲と協調できずに排除されると、母である北条政子と叔父の北条義時が幕府の実権を掌握。
頼朝の次男である三幡(源実朝)が慌ただしく元服して、将軍を継ぐことになりました。
「実朝」の名は後鳥羽上皇が与えたものですので、上皇が最初から新将軍と事を構えようとしていたとは考えにくいところです。
”実”の字には「根本」「重要なもの」という意味もあるため、後鳥羽上皇としては
「お前が幕府の中核となってしっかりやっていくように」
といった気持ちを込めて選んだのかもしれません。後鳥羽上皇の実名は「尊成」ですので、偏諱でもありませんし。
しかし幼い実朝の後見役となった北条氏は、ようやく勝ち取った独立性を保つことを最重視します。
北条氏の独裁か……と思われるかもしれませんが、頼朝以前の坂東を考えると、北条氏が際立って腹黒いともいえません。
都から離れれば離れるほど朝廷の目は届きにくくなり、地元勢力の影響が強まるものです。
ならば、地元民でもある武士が自ら統治機構を備え、幕府が彼らを束ね、地方の代表者として朝廷とうまくやっていくほうが戦乱は防げるでしょう。
この時代の武士は「文字が読める人のほうが珍しい」という文化レベルですので、北条氏も北条氏で苦労しています。
なんせ【御成敗式目】には「人を殺してはいけません」という項目があるぐらいです。
一方で後鳥羽上皇は、鎌倉幕府(という武士軍団)はあくまで朝廷の下に位置させるという考えであり、幕府に干渉する権利もあると捉えていました。
これも間違ってはいませんよね。そもそも幕府の代表者である征夷大将軍は、朝廷から任命される役職ですから。
しかし、当時の交通・通信事情では、朝廷と鎌倉幕府のパイプを繋ぎ続けて、スムーズな連携を図るのは至難の業。
そこで後鳥羽上皇は、まだ若く文化にも興味があり「妻には公家の姫を迎えたい」と希望していた源実朝をガッチリ抱え込もうと考えたのでした。
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