「れきしクン」こと長谷川ヨシテルです。
一般的にはマイナーかもしれないけれど、ある地域ではバツグンの知名度を誇るご当地・戦国武将を紹介している当連載。
今回は、レペゼン和歌山市の太田左近(おおたさこん)さんです!
今回は戦場となった和歌山県(特に雑賀エリア)のドタバタの戦乱と、織田信長と豊臣秀吉による【紀州征伐】とリンクさせて、太田左近さんを追っていこうと思います!
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紀州征伐で秀吉に水攻めされた太田城
和歌山市の歴史スポットと言えば?
江戸時代の御三家・紀州徳川家の居城となった「和歌山城」が有名です。
私は大河ドラマ『真田丸』が始まるタイミングで、真田信繁(真田幸村)と父の昌幸の謹慎地となった九度山(くどやま・和歌山県九度山町)を訪れたときにあわせて登城してきました。
御橋廊下と水堀と石垣と天守群の組み合わせ。実に美しかったなぁ。
和歌山城だけでも大満足でしたが、私にはもう1つ行きたい場所がありました。
それが同じ和歌山市内にある「太田城」です!
嗚呼……私が【豊臣秀吉vs太田城】のことを知ったのはいつだったでしょうか……。
おそらく『信長の野望 革新』をプレイしていた20代前半だと思うのですが、その頃からいつか行こう、絶対行こう!と決めていた太田城。
ここは秀吉が“水攻め”をしたレアなお城だったのです。
秀吉が水攻めをしたお城といえば―――
天正10年(1582年)
【本能寺の変】前後の「備中高松城」(岡山県岡山市)
天正12年(1584年)
【小牧・長久手の戦い】における「竹ヶ鼻城」(岐阜県羽島市)
天正18年(1590年)
【小田原征伐】での「忍城』(埼玉県行田市)※総大将は石田三成
そして、もう1つ!
それが……。
天正13年(1585年)
【第二次紀州征伐】における「太田城」
だったんですね。
味方の被害を最小限にとどめるため、水攻めを選択したとされる秀吉。
太田城の場合は、いかなる流れでそうなったのか?
まずは同エリアの歴史を振り返りながら見て参りましょう。
和歌山県、実はめちゃくちゃアツい土地なんです!
太田左近さん ゲームでの数値は低いけど……
戦国時代の紀州(和歌山県)というと、やっぱりキャラの濃いアノ地侍集団がですよね。
そう! 雑賀衆(さいかしゅう)です!
鉄砲をいち早く戦闘に大量使用した傭兵集団だったとされ、織田信長と10年戦争(石山合戦)を繰り広げた石山本願寺(後に「大坂城」が築かれる)にも援軍として駆け付け、織田軍を大いに苦しめました。
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その頭領だったとされる「雑賀孫一」(鈴木孫一・鈴木重秀とも)は、司馬遼太郎さんの『尻啖え孫一』(→amazon)でも描かれたりして、現在は様々な戦国ゲームにも登場するなど、メジャーな戦国武将となっております。
私も『信長の野望 革新』では、非常にお世話になりました。
だって、めちゃくちゃ強いんですもん。
能力は次のような感じ。
雑賀孫一『信長の野望』データ
統率91
武勇94
知略82
政治28
政治が低いのは置いておきまして(笑)、特筆すべきはやはり戦闘能力でしょう。実に高い!
それに対する、今回の主人公・太田左近(実名は宗正)さんの能力は?
太田左近『信長の野望』データ
統率68
武勇55
知略42
政治38
よ、弱い……。
おまけに顔グラフィックも雑賀孫一に比べてチョー地味…。
しかし、しかしですよ!
アノ飛ぶ鳥を落とす勢いで天下人ロードを突っ走っていた豊臣秀吉が攻めあぐねた結果、水攻めをしているわけですから、能力値や知名度はさておき放っておけるわけがありません。
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たとえ数値は低くても太田左近さんだって雑賀衆の1人とされる人物です。彼らは非常に謎多き集団なのですが、それは土地の成り立ちから見ていくとわかりやすいかもしれません。
太田さんの出自でもある雑賀衆とは、雑賀とは?
雑賀衆vs雑賀衆!第一次紀州征伐
「雑賀」とは、現在の和歌山市全域と海南市の一部を合わせた地名のことです。
つまり雑賀衆というのは、雑賀に住む人々の集団(一揆)を指すんですね。もっと端的&現代風に言えば「和歌山市民」です(笑)。
この雑賀という地域は5つの「惣(そう)」と呼ばれるブロックで形成されていました。
【紀ノ川の河口部】
①十ヶ郷(じっかごう)
②雑賀荘(さいかのしょう)
雑賀荘には本願寺の別院である雑賀御坊(現在の鷺森別院)や雑賀孫一の平井城や雑賀城がありました。
【内陸部】
③中郷(なかごう)
④宮郷(みやごう)
⑤南郷(なんごう)
今回のクライマックスである太田城は宮郷(「社家郷」とも)にありました。
雑賀衆というと、先ほど触れたように―――
「一向宗が一枚岩で一致団結! 石山本願寺と共に信長と戦った!」
とまとめられてしまうこともありますが、実はそれは間違いです。
確かに一向宗(浄土真宗)は数が多いですが、それは河口部(十ヶ郷&雑賀荘)の方々で、内陸部(中郷&宮郷&南郷)では根来寺(和歌山県岩出市)を中心とする「新義真言宗」(真言宗の一派)を信仰する方々が主流派だったようです。
そのため、合戦においては一枚岩になるとは限らず、天正5年(1577年)の織田信長【第一次紀州征伐】では分裂しています。
河口部の雑賀孫一たちが鉄砲戦術やゲリラ戦法などを駆使して織田軍を散々に苦しめたのに対し、内陸部の太田左近さんたちはなんと織田信長に味方しているのです。
そのため、雑賀孫一ら“海の雑賀衆”は信長と和睦を結んだ後、裏切った報復として“陸の雑賀衆”でリーダー的な存在となっていた太田左近さんの太田城を攻撃。
これが天正6年(1578年)に起きた【第一次太田城の戦い】と呼ばれる合戦です。
アツいですね。
なんせ【太田左近さん vs 雑賀孫一】という鉄砲の達人たちによる身内争いですからね。
陸の太田左近さん軍には、根来衆(根来寺の辺りに住んでる僧兵たち)が援軍として駆けつけました。
そしてこの攻城戦は、城を包囲した雑賀孫一が優位に戦いを進めました。
しかし、堅城の誉れ高い太田城に籠城する太田左近さんもしぶとく、戦いは約1ヶ月にも及びます。
攻めあぐねた海の雑賀衆は鍬を使って堀を崩そうともしたそうですが、結局、こう着状態が続き、最終的には和睦が結ばれノーサイド。
和議ではあったのですが、太田左近さんは本願寺に謝罪をすることとなり、今後は海の雑賀衆と一致団結して戦う旨を伝えて許しを得ています。
まぁ、太田左近さんは事実上の敗戦と言えるかもしれません。
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