戦艦長門(ボルネオ島ブルネイ泊地に停泊中)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲とは?海軍の職人魂、ここにあり

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明治十一年(1878年)3月8日は、旧海軍の造船設計を担当した平賀譲の誕生日です。

良くも悪くも逸話に事欠かない人ですので、ミリタリーファンの方には「あの人ね……」と思われることが多いでしょうか。
ぶっちゃけワタクシも、某これくしょんの嫁艦設計者でなければ気づきもしませんでしたでしょう。

まあその辺はいいとして、彼の生涯を見ていきましょう。

例によって技術用語等は最低限に省略しておりますので、ミリタリーファンの方々には物足りないかと思われますが、あしからずご了承ください。

平賀譲/wikipediaより引用

 

兵役試験で落とされるも東京帝大を主席で卒業し……

平賀の家は海軍と縁が深く、幼い頃から猛勉強して海軍に入ろうとしました。

が、勉強のしすぎで極度の近眼になっており、兵役試験で落とされてしまいます。
消沈しながらも工学系の勉強に励んでいたところ、お兄さんに「兵としては無理でも、造船で海軍に関わるテがあるぞ」と言われ、気を取り直して船の設計者を目指すことになります。

よほどやる気が出たものか、なんと東京帝大を主席で卒業。念願叶って造船官として海軍に入ります。

そこでまずは横須賀工廠で船の修理などに携わりました。

その経験は早くから認められ、根室湾で座礁した通報艦「八重山」、初代戦艦「武蔵」の救助担当の一員に。海軍ファンの方にはよく知られていますが、どこの国でも同じ名前の艦がたくさんあるのでややこしいですよね。
大体の場合使われていた年で区別がつくのですが、中には初代のほうが二代目より長持ちしているケースもあったりして……。

ときは日露戦争の真っ最中。
兵も船も戦術も劣る明治の日本が、最初に直面したデカすぎる壁でした。

旅順港閉塞作戦では多くの船が失われ、急遽それを穴埋めする船の建造が決まります。外国から輸入してる暇と金がなかったからです。
平賀も代替船の一隻、装甲巡洋艦・筑波の建造に関わることになりました。

 

イギリス留学中に日本海海戦が勃発! 勝利が話題となる

筑波の起工を見届けた頃、平賀にイギリス留学の命が下ります。
その直前に帝大の同級生・原正幹の妹・カズと見合い結婚しました。カズがそろそろ行かず後家になりそうな年齢であり、原の父が病身だったため結婚を急いだのだとか。
とはいえ、カズは美人だったので平賀もまんざらでもなかったようですが。リア充(ry

慌ただしく式を済ませた後、平賀はアメリカ経由でイギリスへ留学しました。
この頃には日本海海戦で日本が勝利を収めており、その話はイギリスでも広く語られていました。
その理由の一つが「砲戦で戦艦が沈むことがある」という点です。これによってイギリスで建造中だった戦艦・ドレッドノートは、従来に比べて高速かつ重武装化され、世界の戦艦の標準となります。
日本でも「ドレッドノートと同等を目指す」という意味で「弩級」という言葉が生まれました。後に「超弩級」という言葉も使われるようになります。

留学先の大学では基礎的な事が多く、思うようには勉強できませんでしたが、ここでも平賀は持ち前の切り替えの早さを発揮します。「学校で学べないなら、他で勉強すればいいんだ!」と思い直し、造船所見学等で補ったのです。
完成間際のドレッドノートや、巡洋戦艦インヴィンシブルも見学しました。

「巡洋戦艦」とは、簡単にいえば高速化した戦艦のことです。ドレッドノートは21ノット、インヴィンシブルは25.5ノットを出すことができました。
1ノット=1時間に1海里(約1.9km)進む速度なので、ドレッドノートが約40km/h、インヴィンシブルは時速約48.5km/hとなります。

短距離走の世界記録保持者であるウサイン・ボルトの100m走最大速度を時速に換算すると、約44km/hになるそうなので、あの勢いで戦艦が迫ってくることになりますね。怖すぎ。
最大瞬速とはいえ、戦艦とほぼ同じスピードを出せるボルトもヤバイ(小並感)ですが。
もうちょっと身近な生き物でいくと、猫の最大瞬速が約48km/hだそうです。うわっ、猫速い。

 

そして巡洋戦艦「金剛」が生まれた

平賀は多くを学んで無事大学を卒業し、ついでにイギリスやフランスの造船所も見学して帰国の途に就きます。
弩級戦艦という概念が生まれたことで、日本も新しい戦艦・巡洋艦を作らねばならないという空気になってきていました。
それぞれ8隻ずつ必要だと考えられたので、この計画を「八八艦隊計画」といいます。九九だったらもうちょっと覚えやすかったですかね……。

しかしこの頃の日本には、まだまだお金も技術もなかったので、そのうちの一隻は同盟相手のイギリスに作ってもらうことになります。
同盟中とはいえ、軍事機密である新しいサイズの主砲開発を頼んだりしたので、少々折衝が要りましたが……最終的にイギリスは「ちょっと資料をやって、さらにイイ主砲を日本に作らせれば、結果的にウチが節約できる」(超訳)と考え、了承しました。
こうして巡洋戦艦「金剛」が生まれます。

金剛を国産化したのが姉妹艦の「比叡」「榛名」「霧島」であり、金剛型と同じサイズの主砲を載せた別バージョンが戦艦「扶桑」です。扶桑は日本の古い美称の一つであり、軍部の意気込みがうかがえますね。
帰国後、平賀はこれらの戦艦を造る部署(艦政本部第三部)に配属されました。
ついでに、イギリス帰りの知識を下の世代に伝えるべく、東京帝国大学工科大学の講師も兼務することになります。過労死の予感がしますね。

が、プライベートで子供に恵まれたことなどが幸いしてか、無事乗り切れたようです。
平賀は若いうちに両親を亡くしたためか、家では子煩悩な父親だったそうですよ。旧軍の関係者ってそういう話が意外と多いんですよね。

妻の母や平賀自身の姉、明治天皇崩御などを挟んで、時代は大正時代へ。
大正デモクラシー(大正時代の民主主義化運動)によって軍拡への反対意見が起き、新しい軍艦の建造は一時中止されるというトラブルが起きましたが、最終的に国会で承認されました。

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平賀はイギリスから送られた金剛の図面を日本式に書き直して姉妹艦「比叡」の造船にあたります。
そして、比叡を無事完成させたことで、日本の技術がイギリスと遜色ないものであることを証明することになりました。
そしてその改良&完全国産の船として、いよいよ戦艦「扶桑」とその姉妹艦「山城」の建造が開始されます。

平賀は工廠に頻繁に出向いて、机上の計算と現実との乖離を埋める方法を模索していきました。
この頃シーメンス事件(海軍の汚職事件)で首相・山本権兵衛の信頼がガタ落ちし、海軍の予算削減=新艦建造の危機に陥りかけます。
山本は身を引きましたが、八八艦隊計画はまだ折り返し地点であり、「計画があるのに予算がつかない」という非常事態。
しかし、時折しも第一次世界大戦が勃発して、イギリスへの協力&植民地獲得が世論でもあっさり受け入れられ、八八艦隊計画は再開されました。世論なんてコロコロ変わるもんですね。
そんな流れで、さらに改良した戦艦を造るための計画も立てられました。

平賀は引き続き八八艦隊計画に携わります。モットーは「船体のバランス」でした。
船を重武装にすればするほど、上の方に重心が偏りやすくなります。砲や機銃などは、上の方にないと発射できないから当然ですね。
輪切り状にするとわかるのですが、船というのは基本的に下のほうが狭くなっています。そのため、上側が重くなるとバランスを崩しやすくなってしまうのです。
平賀はその調整に心を砕きました。

ここで、世界の造船に影響を与える一戦が起きます。

 

「平賀不譲(ゆずらず)」という不名誉なあだ名をつけられて

大正五年(1916年)にデンマークのユトランド半島沖でドイツvsイギリスの海戦が起き、海軍大国であるはずのイギリスの戦艦が三隻も沈んだのです。
これは上側の防御を軽視した結果でした。

対して、ドイツ側の船は損傷しながらも、無事に帰港しています。
海軍大国であるイギリスが、造船では後進国であるはずのドイツに負けた、ということも大きな衝撃でした。

平賀はこの結果から、戦艦の防御面改善を主張します。これは上層部にも受け入れられ、設計中だった戦艦「長門」の改良案作成を命じられました。

そしてその結果、管制部や弾薬庫などの「砲撃や魚雷が直撃したらヤバイ場所」を船の中央にまとめ、その周りの装甲だけを厚くする(船の前後は装甲を薄めにする)というスタイルが取られました。この部分を「バイタルパート」といいます。
既にアメリカが戦艦・ネヴァダで取り入れていた手法ですが、日本では初めてのことでした。

長門_(戦艦)/wikipediaより引用

設計の見直しにより、最大速度上昇というメリットも得られました。長門の最大速度は26.5ノットで、ドレッドノートやインヴィンシブルを超えています。
公式発表では23ノットということになっていたのですが、関東大震災のとき、長門は被災地の救助に向かう中でうっかり最大速度を出してしまい、イギリスの船に見つかるというオチがついています。
幸い(?)第二次世界大戦時、長門がイギリスの船と戦うことはありませんでしたが。

その代わりに、日本には別の危機が迫ります。
日本同様、第一次世界大戦で本土に全く損害を受けなかったアメリカが、急激に軍備を拡張していたのです。また、中国方面での利権を巡って、外交的にも日本と対立し始めていました。
「アメリカとの戦争が見えてきた」と判断した軍部は、「量より質」で戦力の差を補おうとします。

しかしその矢先に、かつて平賀が携わった装甲巡洋艦「筑波」が謎の爆発事故を起こしてしまいました。原因は「乗務員の中で行跡の怪しい者による放火」まで推測されましたが、完全な解明はできていません。
この調査を受けて、平賀は長門の姉妹艦・陸奥の船体設計変更を計画したものの、工期の遅れなどからボツにされてしまいます。
また、平賀は船体のバランスには心を砕きましたが、乗務員にとってはやっかまれる存在だったということが、この辺から問題になってきます。
というのも、上記の「船の心臓部だけ重装甲」を実現するために、他の部分の重量=設備や武器を削ったためです。

しかも平賀の主張は理に適ったものだったため、上役が平賀を擁護し、下っ端の不満は募るばかり。
そこで「平賀不譲(ゆずらず)」という不名誉なあだ名をつけられてしまいました。子供かよ。

 

部下・藤本との対立がやがて膨らみ関係が亀裂

上からは「次々と移り変わる情勢に対応できる、頼もしい設計者」と見られ、引き続き最新型戦艦の設計を任されていましたが、この頃になると平賀の一本気なところが支障をきたしはじめました。
その最たる例が、部下との関係です。

当時、平賀の主だった部下に藤本喜久雄と田路坦(たじ やすし)という人がいました。
成績では藤本のほうが上だったのですが、平賀は馬が合う田路を重用し、先にイギリスへ留学させています。
が、田路はイギリスでデキ婚するなど、当時の常識的にマズイ行動を取ってしまいました。これも藤本にはビキビキ(#^ω^)ものです。そりゃそうだ。
まだまだ外国人、特に西洋人に対する感情が良くなかった時代です。平賀は世間の冷たい目から田路一家を守ってやろうと、夕食に招待したりいろいろと気遣いました。

そんなこんなで、田路をかわいがるのと反比例して平賀と藤本は仕事上でも対立するようになっていき、いつしか藤本は反平賀派の旗頭のようになってしまいました。
平賀も各地の工廠への視察ついでに、料亭で一杯やりながら歌うという陽気な面や、兄の未亡人を気遣う優しい面もあったのだから、それを仕事が終わった後にでも見せてやれば、もう少し丸く収まったかもしれませんね……。
まあ、当時の社会常識的に「職場で甘くしてはいかん」という概念があったのは仕方ないことです。軍ですし。

実は、平賀と藤本が和解できなくもない雰囲気になったことが一度だけあります。
八八艦隊計画を進めるうちに、造船費用があまりにも膨大になってしまい、さすがに政府からもツッコまれました。
求められたのは「費用を減らしつつ、戦力を落とさない」船の設計。そこで平賀が基本設計、藤本が詳細設計を担当して作られたのが軽巡洋艦「夕張」です。

夕張 (軽巡洋艦)/wikipediaより引用

が、平賀が藤本の設計図を無断で書き換えるなど、またしても火種を作っています。
夕張自体は無事完成し、世界の海軍関係者を驚かせる小型&重武装の船として海軍史に記録されたのですが……その一方で平賀と藤本の決定的な亀裂も生んでしまったことになります。
何だこの「子供が生まれた途端、育児への不理解が元で離婚した夫婦」みたいな流れは。
そして、このタイミングで世界は軍縮の動きへ突入するのでした。

 

ワシントン軍縮条約で突きつけられた厳しい条件とは

ワシントン軍縮条約の交渉で、日本は「艦隊規模を米英の6割にしろ」という条件を突きつけられます。
これは、日本がこれまで進めてきた「米英の7割の規模を保っていれば、もし両国と戦争になったときも応戦するに充分」という基本路線を完全に台無しにされるものでした。

日本代表は当然ながら「7割じゃないとイヤです」と主張します。
が、イギリス側から「何かオマケしてあげるから、6割を飲んでよ」と言われ、うなずかざるを得なくなります。

そのオマケが、98%竣工済み=「現在建造中の船を破棄する」としたこの条約によって廃棄対象とされた戦艦・陸奥を保持できるようにしたことでした。引き換えに、アメリカとイギリスに新しい戦艦二隻ずつの保持を許すことになったのですが……。

さらに、このころ満期を迎えていた日英同盟の更新が否決され、代わりとは名ばかりの四カ国条約(参加国は日・英・米・仏)を押し付けられています。
どちらかというと、日英間の協力関係を解消させるための条約であって、何かを協力するためのものではありませんでした。
つまり、オマケの割にはハズレ感が強い感じになってしまったのです。

当然、日本ではこの結果に官民揃って大反発。
日露戦争でも大したうまみがなかった上に、第一次世界大戦が終わった途端に大恐慌、ついでにこの後起きる関東大震災と東北の不作などによって、社会全体が暗く鬱屈した雰囲気になっていくのもやむないことでした。
そしてその中で、怒りを滾らせていた一団がいずれ五・一五事件や二・二五事件を起こすことになります。その話はここでは触れませんが。

お偉いさんの中でも「なんでアメリカなんかにウチの行動を制限されなきゃいけないんだ! いつかブッコロス!」と思っている人たちはいました。そのくらいワシントン軍縮条約は衝撃的なものだったのです。
この頃ドイツが第一次世界大戦の賠償で喘ぎ、後に最悪の悲劇に繋がっていくことといい、日本含めた当時の戦勝国のやり方は、「窮鼠猫を噛む」事態を自ら生むものだったといっても過言ではありません。まあ、後世から見た話ですけれども。

 

軍縮によって技術者の腕が衰えることも恐れた

設計者である平賀にとって、新しい発想を詰め込んで船を造ることは愛児を世に送り出すも同じであり、破棄や建造中止は我が子を失うも同然のことでした。
新しい戦艦のうち二隻だけは空母に路線変更して残すことができましたが、最新式戦艦になる予定だった船は数隻が破棄。平賀は気を取り直し、保持を認められた十隻の船から成る「六四艦隊」の防御面を改装して、外国と渡り合えるよう備えるべきと提言しました。

また、ワシントン軍縮条約によって新しい船を作れない=工廠の技術者の腕が衰えることを案じていたのも理由の一つです。六四艦隊の改装は、彼らの技術を保つためでもありました。
意気消沈しすぎて引退してもおかしくないところで、こういうとこに頭が回るのはスゴイですよね。その気遣いがもうちょっと温かい形で表に出てきていたら、平賀の敵はずっと少なくなったかもしれません。

それでも軍縮によって兵や技術者らを大量にリストラしなければならなくなり、これもまた不況に拍車をかけました。
企業(この場合は国)が自分の存続だけを考えれば、いずれ社会が立ち行かなくなるのは昔も今も当たり前の話ですよね。そうした理不尽な解雇を受けた人々は、当然元凶であるワシントン軍縮条約とアメリカを恨み、欧米諸国への嫌悪を募らせていきました。
幕末のあたりには外国人を化け物と思っていた人も多かったが、半世紀ほどでその頃と同じくらいの認識になってしまったわけです。

平賀が目をかけていた部下・田路も、この風潮の中で「イギリス人である妻が白眼視されるのは耐えられない」と、退官を決意しました。

平賀は田路の才能と家族愛とを評価し、三菱造船にかけあって再就職先を案内しています。天下りといえばそうですが、この場合は平賀の優しさを評価すべきでしょうね。
三菱造船でも「英語ができて知識もある人なんですか! ならロンドン駐在員の椅子を用意しますよ!」と受けあってくれています。

平賀が田路を送り出した後くらいの時期に、世界は「条約に引っかからない範疇で最高の軍艦を造る」ことに腐心するようになりました。条約あってもなくても変わらんやん(´・ω・`)

平賀もそういった命令を受け、夕張を大きく&その他改良を加えて古鷹型重巡洋艦を設計します。重巡洋艦というのは、簡単に言うと「戦艦よりは一回り小さく、ギリギリまで武装を詰め込んだ軍艦」とったイメージの船です。言葉の定義が決まったのはまた別のタイミングなんですが、こまけえこたあいいんだよ。

しかし、重巡洋艦計画を軍議に出した際、平賀は自らの首を絞める発言をしてしまいました。
「魚雷を減らして砲に主眼を置く」という方針を明らかにしたことで、魚雷を扱う技術者たち(俗に言う”水雷屋”)の怒りを買ってしまったのです。

それは日頃からくすぶっていた反平賀派を勢いづかせ、平賀はメイン設計者の座を追われることになりました。技術者としての失敗ではなく、人間としての失態が災いを招いた形です。

ちなみに、魚雷を減らしたのは「もし魚雷の保管場所に敵の砲撃が当たった場合、一気に誘爆して船が沈む可能性が非常に高い」というきちんとした理由がありました。実際、第二次世界大戦中にそうした理由で沈んだ船は複数あります。
が、水雷屋の人々にとっては自分の仕事を取り上げられるも同然ですから、彼らが反発するのもまた自然なことでした。

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