戦艦長門(ボルネオ島ブルネイ泊地に停泊中)/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲! 不器用な海軍の職人魂ここにあり

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平賀譲
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篤姫が後見した徳川宗家十六代当主・徳川家達はワシントン軍縮条約の全権の一人でした。

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御三卿の一つ・清水徳川家の末裔である好敏(よしとし)は、日本国内で初めて飛行機を飛ばした人です。

さらに、ロンドン軍縮会議での日本全権は松平容保の息子・恒雄でした。

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江戸幕府は遠くなっていましたが、まだまだ幕末の人が存命、かつ目立たないながらに国へ影響を与えていた時代だったといえますね。歴史は繋がっている……ということがよくわかります。

平賀は武定などの支えてくれる人々からパワーを貰い、密かに新艦設計を進めました。

とある会議で藤本の案に真っ向から対立するものとしてそれを提出したことで、また評判は下がってしまいましたが。

こういった設計者同士の対立に加え、ワシントン軍縮条約の更新版ともいえるロンドン軍縮条約での不首尾が重なって、海軍の中でも対立が起きます。

「もう決まったことなんだから、条約遵守しないと今すぐ戦争になるだろjk!」(超訳)な”条約派”と、「なんで欧米のポチにならないかんのじゃ! いざとなったらいくらでも殺ったるわボケナス!」(超訳)な”艦隊派”の対立が絡んで面倒なことになっていくのです。

戦争が始まる前から仲間割れしてて、なんで敵に勝てると思うんですかねぇ……(´・ω・`)

 

旧日本海軍屈指の損傷事故「友鶴事件」が起きる

そのうちに平賀は定年退職を迎えました。

予備役として軍と関わりを持ち続けましたが、その後は講師を務めていた東京帝大が主な活躍の場所となります。現代風にいえばセミリタイアですかね。

海軍を去っていた時期は、次男の修学旅行先に親ばか丸出しの手紙を乱発したり、菊いじりや映画などの趣味を楽しんだりしていたとか。

娘に初孫が生まれたと聞いて、嫁ぎ先の関西まですっ飛んで行ったこともあります。だから、その穏やかさを現役のときに少しでも出しておけと。

しかし、平賀は思わぬ機会で戻ってくることになります。

「友鶴事件」と呼ばれる、旧日本海軍屈指の損傷事故・事件です。

これは、「友鶴」という名前の水雷艇(条約に引っかからないように、駆逐艦より小さく作った軍艦の一種)が荒天の中で転覆したことにより、軍艦設計の致命的なミスが判明した事件です。

水雷艇「友鶴」/wikipediaより引用

計算上この船は90~110度傾いても大丈夫な設計になっていたはずなのですが、たった40度の傾斜で転覆してしまいました。

予期せぬ事態に、総員113名中100名が死亡・または行方不明になるという大惨事。

その上に、原因が全幅の信頼を得ていた藤本の設計ミスだったということは、彼の評判と立場をズタズタにしました。

藤本は平賀と同じような経緯で左遷され、翌年脳溢血で亡くなっています。まだ47歳でした。

亡くなるまでの間、藤本は自責の念に苛まれる元部下を慰めたこともあるので、平賀同様優しい面もあったのでしょうね。本当に惜しい話です。

ともかく、こうした流れがあって平賀は再び海軍で造船に携わることになりました。

定年退職から3年、左遷されてから11年が経っています。

「待てば海路の日和あり」とはよく言ったものですね。友鶴事件の犠牲者を考えれば、あまり喜べなかったでしょうが……。

 

「やっぱり日本ではまだ電気溶接の基礎研究ができていない」

平賀は部下たちを鼓舞し、欠陥が見つかった船の改良にかかります。

昭和天皇に友鶴事件の報告・改善案をご進講(皇族への講義)したり、三度目のイギリス留学(学会参加)を命じられたりと完全復活という様相。帰ってきたドラえもん状態ですね。

ロンドンでの論文発表では質問に窮する場面などもありましたが、またしても恩師や学友に助けられています。

イギリス人の国民性として「気を許すまで時間が掛かるが、一旦信用したらとことん味方する」という評価をどこかで見た覚えがあるのですが、平賀と恩師・学友の関係はまさにそんな感じがしますね。

二十年以上、しかも会っていない期間のほうが長い間柄と考えると胸熱な話です。

平賀は学会の報告書末尾に「この結果が造船学界のみならず、国際的親善に繋がると思います」(意訳)と書いているほどです。本当に、そうなればよかったのですが……。

学会発表の後、平賀はフランス留学中だった元部下の案内で、ヨーロッパ各地を旅行しました。

もちろん造船所なども訪れ、ヨーロッパの電気溶接技術を特に見聞しています。その結果「やっぱり日本ではまだ電気溶接の基礎研究ができていない」と感じました。

イギリスであまり電気溶接が使われていないことも、平賀の自説を裏付けるものでした。

また、ロンドンでは最新の客船クイーン・メリー号の進水を見学しています。

これは排水量8万トン(戦艦・長門の二倍)を超える超巨大船で、上からも特によく見てくるようにと命じられていたものです。

帰国後、平賀は「昔『このままでは戦艦はとてつもなく巨大化してしまう』と危惧したことがあったが、クイーン・メリー号を見て杞憂だったと感じた」といった内容のコラムを書いています。

つまり、そのくらいの大きさの軍艦を造ることもできる、というわけです。

この間、日本は国際連盟脱退・軍縮条約破棄といった国際的孤立へまっしぐらに進んでいきました。日本史の中で一番気が滅入る時代の始まりです。

平賀たち造船分野の人々もその空気を感じ取り、新たな巨大戦艦の計画を始めました。

あの戦艦「大和」です。

米戦闘機の攻撃を受ける戦艦大和/wikipediaより引用

 

戦艦大和&武蔵の建造に平賀はどれだけ関わっていたのか?

この超有名な戦艦も、設計には一悶着ありました。

当時はまだ飛行機が登場したばかりで、主力になるとは考えられていなかった頃です。

しかし、中には「戦艦に空母を護衛させて、飛行機からの爆撃で敵艦を沈めよう」という戦略を推す人もいました。

そのためには、空母の速度に戦艦を合わせなければなりません。しかし、それはどうしても不可能でした。それでも大和は27ノットを記録しています。

つまり長門より速い上にデカイ戦艦だったわけです。

飛行機軽視の風潮や平賀の得意とした保守的な設計は、太平洋戦争が始まってから問題が表面化することになりますが、それはまた別の話です。

大和や姉妹艦「武蔵」も、「重要な施設を中央に集め、その部分の装甲を厚くする」という構造になっていました。つまり、船の前後は装甲が薄いのです。

武蔵が沈んだ理由も、バイタルパートより前の部分に魚雷を何発も食らったことでした。

このため、「平賀式の設計がマズかったせいで武蔵が沈んだ」とする人もいますが、それまでの間に武蔵は魚雷・爆弾・砲弾をそれぞれ20発前後ずつ食らっているので、一概に平賀が悪いとはいえないのではないかと。

平賀自身は晩年、帝大で教育者としての活動に専念し、大和建造についても後任者に任せていたので、武蔵の建造にもほとんど関わっていないと思われますしね。

その帝大でもまた大きな事件に関わることになるのですが……だいぶ長くなったので、その話はまた別の機会にて。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『超ワイド&精密図解 日本海軍艦艇図鑑 (学研ムック)』(→amazon
『戦艦大和&武蔵と日本海軍305隻の最期』(→amazon
平賀譲/wikipedia
藤本喜久雄/wikipedia
友鶴事件/wikipedia
夕張_(軽巡洋艦)/wikipedia
ワシントン海軍軍縮条約/wikipedia
ロンドン海軍軍縮会議/wikipedia

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