大化五年(649年)3月25日は、蘇我倉山田石川麻呂が亡くなった日です。
その名前、実に漢字が九文字もあり――どこをどう読めばいいのか、一瞬わからなくなってしまいますよね。
「そがの・くらやまだの・いしかわまろ」と読みます。
つまり蘇我氏の一員です。
蘇我氏といえば「むじこの世づくり」こと、大化元年(645年)の乙巳の変~大化の改新で排斥されたはず。
縁者である石川麻呂は一体どうしたのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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蝦夷の甥っ子=つまり入鹿とはイトコ
石川麻呂は蘇我蝦夷の甥で、入鹿とは従兄弟同士です。
つまり、蘇我氏全盛時代には、それなりの高い地位にいたことになります。
実際、乙巳の変の際、皇極天皇の御前で朝鮮使者の手紙を読み上げていたのは石川麻呂でした。
むろん石川麻呂は暗殺計画にも関わっており「この手紙を読み上げたら、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺する」ということを知っています。
しかしなかなか刺客が入ってこないので、石川麻呂は緊張が増すばかり。
ついに震え始めたところを、入鹿に見咎められるほどだったといいます。
中大兄皇子が躍り出て入鹿の首をはねた
古代のことですので、どこまで本当かは分からないにしても、リアルですよね。
石川麻呂は「帝の御前ですので」と取り繕いましたが、それだけで入鹿が安心するわけもありません。
そこに思い切った中大兄皇子が、自ら躍り出て入鹿の首をはねた――というわけです。
残念ながら、この「入鹿の首が刎ねられた」場面(TOP画像)を描いた『多武峰縁起絵巻・乙巳の変』に石川麻呂は描かれていません。
まぁ、この絵自体が江戸時代のものですが、こういうものに描かれているかどうかで、知名度はだいぶ変わってきますよね。
では、乙巳の変後の石川麻呂はどうなったか?
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