和井内貞行/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 その日、歴史が動いた

和井内貞行と十和田湖とカバチェッポ~ヒメマス養殖に人生を捧げた男

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「努力と根性」というとふた昔くらい前のスポ根マンガかよ! という感がありますが、誰しも一生に一度くらいはそういうときがありますよね。

受験勉強だったり、婚活だったり、日々の仕事であったり……。

本日はそんな感じで一つのことを20年以上かけてやり遂げた、とある実業家のお話です。

大正十一年(1922年)5月16日は、和井内貞行が亡くなった日です。

「わいないさだゆき」と読みます。
と言っても「誰それ?」というツッコミが来そうなので、さっそく彼の生涯を追いかけて行きましょう。

 

盛岡藩陪臣の家系に生まれた

和井内は安政五年(1858年)、盛岡藩の城代を務める桜庭家の家老の家に生まれました。
ややこしいですが、盛岡藩主からすれば陪臣ということになります。

この時代の青年ですから10歳前後で幕末の動乱を肌に感じながら育ったことでしょう。
儒学などの学問に励み、17歳で小学校の教員になりました。

後に、影に日向に支えてくれる妻・カツとは21歳のときに結婚し、24歳で工部省(鉄道や鉱山をはじめとしたインフラを担当する官庁)の役人となり、順風満帆な人生に見えました。

が、勤めていた官営の鉱山が民間企業に払い下げられ、役人から会社員になったことで、彼の運命は大きく変わります。

当時この近辺にはいくつかの鉱山があり、そこで働く鉱夫たちの栄養状況を改善すべく、和井内はたんぱく源になる食べ物を供給できるようにしようと考えたのです。

そこで目をつけたのが、広さが十分あり、水質も良い十和田湖でした。
ここで魚を養殖して、すぐに魚を食べられるようにしよう!と考えたのです。

 

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女神に嫌われて魚が住めない湖!?

県からの許可を得るところまでは比較的スムーズに行きました。

業績不振で鉱山が閉じられると、大義名分がなくなってしまい、一度手を引かなければならなくなりますが、和井内は即座に養殖を諦める気になれません。

40歳のときに会社を辞め、再び十和田湖にやってきて旅館を経営しながら、魚を定住させるための活動を再開します。

元がお偉いさんの家とはいえ。
既に江戸幕府も藩という概念もなくなり、和井内家に金銭的な余裕はありません。

養魚を効率良く行うための技術・知識習得にもお金がかかりますし、魚の卵や稚魚を手に入れるにも、まとまったお金が必要です。

さらに、当時の十和田湖自体も厳しい環境でした。

十和田湖は奥入瀬川(おいらせがわ)しか海と通じていないためか、人間が手を加える前は、イモリとサワガニくらいしかいなかったというスゴイところ。
地元では「十和田湖に祀られている清瀧権現(せいりゅうごんげん)という女神が魚が嫌うため、魚が住まない」といわれていました。

実際には和井内より前にイワナや鯉を放流した人がいたらしいのですが、食卓に登るほどの量になっていなかったか、もしくは成長・繁殖できなかったのでしょう。

 

青森の漁業組合で偶然出会った「カバチェッポ」

それを裏付けるかのように、和井内が放ったさまざまな魚の卵や稚魚は、なかなか定着しませんでした。

一度、鯉の繁殖に成功したのですが、需要と供給のバランスが釣り合っていなかったのか、すぐに獲れなくなってしまっています。

すっかり気落ちした和井内でしたが、彼は諦めずに「十和田湖に住めて、順調に繁殖していけるような種類の魚はいないものだろうか」と探し続けます。

そして、青森の漁業組合で偶然に「カバチェッポ」という魚の存在を知るに至りました。

後に「ヒメマス」と呼ばれるようになる魚のアイヌ語名です。

アイヌ語では「チップ」という呼び名もあるそうで。
現在ではヒメマスの名で広まっているようなので、以下「ヒメマス」で統一しますね。

ヒメマス

ヒメマスは、北米大陸やロシアの東の果てにあるカムチャッカ半島を原産とする魚です。
日本でも北海道の阿寒湖やチミケップ湖に生息していました。実はベニザケと同じ魚で、海に行かず川や湖などの淡水で暮らすもののことをいいます。

よく食肉で「○○だけを与えて育てました」というように餌によって質や味が変わるものがありますが、魚も環境で味が変わるんですね。

和井内は「北海道に住める魚なら、十和田湖でも住めるに違いない!」と一縷の望みを託し、卵を買って十和田湖へ帰りました。

妻・カツも自分の着物や櫛、懐中時計などを質に入れて資金調達に協力したそうです。
糟糠の妻という感じですね。(´;ω;`)ブワッ

 

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卵を孵化させ稚魚を十和田湖へ……

二年経ち、卵を孵すことに成功した和井内は、いよいよ稚魚を十和田湖へ放ちました。

しかし、これで全てがうまくいくというわけではありません。
魚の養殖で難しいのは、卵の孵化や稚魚の放流がうまく行ったとしても、そこから成長し、食べられる大きさに育って戻ってくるまで、何年もかかることです。
当然その間は出費>収入になりますから、和井内家のお財布は非常に厳しい状態が続きました。

生活を切り詰め、和井内はヒメマスの帰りを待つ間、新しい孵化場を作っています。
明治三十八年(1905年)の日露戦争を祝して……ということだったようですが、もし失敗した時すぐ動けるように、次の一手を打っておきたかったのでしょう。

そして、同じ年の秋のこと。
十和田湖に、久しく見られなかった魚影が浮かびました。

和井内が放ったヒメマスが、大きくなって戻ってきたのです。

以降、ヒメマスは十和田湖に定住し、徐々に数を増やしていきました。

おそらく、周辺地域の食卓にも上るようになったでしょう。
今では十和田湖名物として、生食でも調理でも親しまれています。

また、他の湖へも卵や稚魚を出荷するようになり、日本各所でヒメマスの養殖が行われるようになっていきました。

 

十和田湖の国立公園認定にも尽力す

その後、見事この難事業を成功させた和井内には「緑綬褒章」が与えられました。

緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)とは、「長年にわたり社会に奉仕する活動(ボランティア活動)に従事し、顕著な実績を挙げた方」(内閣府ホームページより原文ママ)に与えられるものです。
まさに和井内にぴったりですね。

似たようなものに、科学を始めとした学問やスポーツ・芸術分野の方に与えられる「紫綬褒章」などがあります。
こちらはよくニュースになるので、ご存じの方も多いでしょうか。

また、観光客を増やして周辺の経済を潤すためか、和井内は内務省へ「十和田湖を国立公園に認定してください」という嘆願もしています。
こういうものの認定には非常に時間がかかるので、和井内の存命中にはかないませんでしたが、1936年に周辺の奥入瀬渓流や八甲田火山群とまとめて「十和田八幡平国立公園」に認定されています。
和井内は、2つの目標を達成したことになりますね。

忍耐と努力の末にこの大事業を成し遂げた和井内夫妻は、亡くなった後、十和田湖湖畔に夫婦神として祀られました。
今も「和井内神社」として存在しています。

この辺の時代における「神様」というと広瀬武夫のような「軍神」のイメージが強いですが、和井内夫妻のように民間事業によって祀られた人もいたんですね。

最近は老若男女問わず「失敗したくない」が行動の基準になっていることが多いですけれども、和井内のように粘り強く挑戦し続けることも大切ですよね。

長月 七紀・記




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【参考】
和井内貞行/wikipedia
十和田湖国立公園協会
ヒメマス/ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑
うまいもんドットコム

 



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