1897年(明治三十年)7月24日は、アメリカ初の女性パイロットとなったアメリア・イアハートの誕生日です。
パイロットといえば、カッコ良さとは裏腹に、心身への負担が非常に高い仕事。
女性の立場がまだまだ低かったこの時代にアメリアは、いかにしてこの偉業を成し遂げたのでしょうか。
35才で大西洋単独横断飛行に成功!
アメリアは、米国本土のほぼど真ん中にあるカンザス州アチソンという町で生まれました。
当初は医師を目指して大学で学んでいたのですが、何を思ったのか一年でやめてしまっています。
第一次世界大戦中は陸軍病院の看護助手として働いていたそうですので、愛国心からですかね。
彼女がパイロットを志した理由がはっきりわからないのですけれども、この後に飛行訓練を受けているので、そう考えれば話がつながります。
31歳の頃から海外飛行も始め、35歳のときには、初めて大西洋単独横断飛行を成功させました。
アメリカだけでなく、フランスからも勲章をもらうほどの偉業であり、復路も無事成功させると、その三年後にはハワイ~カリフォルニア間の単独飛行も成功させています。
40才で世界一周飛行に試みて行方不明に……
こうして「女性がパイロットになることには支障がない」ということを身を持って証明した彼女は、女性の地位向上に関する活動も始めます。
順当に行けば、その分野でも世界的に名を知られることになっていたでしょう。
しかし、40歳のときに試みた赤道上世界一周飛行の最中、南太平洋で行方不明になってしまったのです。
当時は日米関係がきな臭くなっていた時期でもあり、「日本軍に捕まったのでは?」という説も出るほど、状況が全くわかりませんでした。
他にも、「太平洋に墜落した」説、「西洋人女性らしき遺骨が見つかったが紛失した」説など出ていたのですが、ニクマロロ島(6km×2km程度の小さな環礁島)で発見された人骨が彼女のものである可能性が高いという報道が出ております(AFP)。
この島では、頭蓋骨などの人骨だけでなく、
・女性の靴のソール
・六分儀を入れる箱
・ベネディクティン酒の瓶
などが発見されております。
だとすれば海面に不時着し、同島で助けを待っていた……というわけで、想像するだけで辛い……。
ソビエトではドイツ軍と空中戦を行った猛者もいた
さて、アメリカに女性パイロットがいたとなると、他の国にもいたのかどうか気になりますよね? なってください。
実は、第二次世界大戦あたりの時代でも、女性パイロットはそれなりの数がいました。
ほとんどの場合は輸送などの後方支援任務でしたが、戦闘機に乗って前線に出ていた人もたくさんいます。
といっても、ソ連だけの話ですが。
ソ連は女性兵士を多く用いていました。そのため、戦闘機のパイロットも例外ではなかったのです。
有名な人を二人ご紹介しましょう。
◆エカテリーナ・ブダノワ(1916年~1943年)
航空機工場で働いているうちに、操縦するほうに興味を持ってパイロットになったそうです。すげえ。
21歳あたりからパイロットの育成に関わっていたとのことなので、エカテリーナは相当飲み込みが早い人だったのでしょう。
きちんと理解していないと、人に教えることはできませんから。
1942年から戦闘に参加し、後述のリディア・リトヴァクと同じ部隊にいたこともあります。
最後の戦いは1943年。
ドイツ機3機と交戦すると、被弾しつつ2機を撃墜し、胴体着陸をしようとしたものの、残った1機が突っ込んできて双方爆発した……という、壮絶な最期でした。
エカテリーナの上司は「ソ連邦英雄」の称号を贈ってくれるよう上に頼んだそうなのですが、ソ連の間は実現せず、同国崩壊後の1993年に「ロシア連邦英雄」が追贈されています。
◆リディア・リトヴァク(1921年~1943年)
15歳の時には飛行機を操縦していたといわれている女性です。
おそらくは、エカテリーナも同じくらいの歳でパイロットに興味を持ったのでしょうね。
リディアが20歳のときに独ソ戦が始まり、飛行時間をごまかして参戦するという、愛国心の強い人物。
とはいえ女性らしい面もあったようで、上官に密かな恋をしていたものの、相手が訓練中に殉職し、「彼が亡くなってから、彼を愛していたことに気付いた」と母親への手紙に書いていたことがあるそうです。
戦争で実際に戦うのはごく普通の人だということが身につまされますね……。
とはいえ戦時中ですから、リディアは気を取り直して任務に励みました。
ドイツ軍の観測気球を破壊するなど活躍していましたが、1943年8月1日に出撃した後、帰ってこなかったといわれています。
近くにいた他のパイロットが次のような証言を残しております。
「リディアはドイツ機を迎え撃とうとしていた。雲でよく見えなかったが、リディア機は8機の敵に追われ、被弾しているのが見えた。周りを探してみたが見つからなかった」
一時は捕虜になったかと思われていたリディアは、1979年にとある村で身元不明の女性パイロットが埋葬されていることがわかり、彼女であることが判明したのです。
これによって1990年にリディアの国葬が営まれ、「ソ連邦英雄」の称号が追贈されました(行方不明のままでは叙勲できなかった)。
「ロシア連邦英雄」と「ソ連邦英雄」の違いは当時どちらの国だったかという点のようです。
勲章のデザインも、国旗の部分が違うだけでほぼ同じですしね。
日本にもいました 1912年に米国で初飛行
さて、日本ではどうでしょうか。
戦前~戦中というと男尊女卑ド真ん中の時代ですから、そもそも女性が職を持つことも難しそうなイメージがありますね。
が、実は日本人女性でも空を駆けた人が数名います。
偉業を成し遂げた順にご紹介しましょう。
「南地 よね」……日本人女性で初めて飛行(練習)
1912年にアメリカで飛行に成功し、翌年に万国飛行免状を取りました。
ロサンゼルスに飛行学校も作っていたそうなので、後進の育成も考えていたのでしょう。
飛行学校時代の先生と結婚し、妊娠をきっかけに引退しているので、長く活躍したわけではありませんが、それでも偉業であることには変わりありません。
夫婦で帰国した後は、下関で洋裁学校を営んでいたとか。
「兵頭 精」……日本人女性で最初に航空操縦士免許を取得
小さい頃から英才の誉れ高く、男性にも負けないような闊達な人だったそうです。
一度は周囲の勧めもあって薬剤師の道に進みましたが、津田沼の飛行学校で学び1922年に免許を取得。
その後、実績も積んでいったのですが、日本初の女性パイロットということで世間にボロクソ言われた上、同郷の弁護士とのスキャンダル記事や関東大震災などの困難があり、航空界から引退しています。
この寄ってたかって引きずり下ろす悪習、何とかできないものですかね。
「西崎 キク」……日本人女性初の海外飛行をした人
当初は小学校の教師でした。
が、社会科見学で行った群馬の飛行場で飛行機を見てパイロットを志したといわれています。
ダイナミック転職ですね。
免許取得の翌年=1934年に海外飛行を成功させ、ハーモン・トロフィー(その年の最優秀パイロットに贈られる賞)を受賞しました。
同賞はアメリア・イアハートも1932年に受けていたので、西崎もどこからかアメリアのことを聞いて、この賞を目指したのかもしれませんね。
彼女も愛国心が強い女性だったようで、1937年に陸軍へ「後方支援任務に参加したい」と志願したことがあります。
が、末期ならともかく太平洋戦争が始まる前ですから、女性が軍に入ることなど前代未聞。
却下されるばかりか、パイロットとしての道が閉ざされてしまいました。
その後は満州に渡り、再び小学校教師をしていたようです。
結婚・出産といった喜びの後に引き揚げや夫との死別など、不幸にもたくさん見舞われました。
戦後は、地元に戻って中学校教師や小学校の教頭などをしていたそうです。
長月 七紀・記
【参考】
アメリア・イアハート/Wikipedia
エカテリーナ・ブダノワ/Wikipedia
リディア・リトヴァク/Wikipedia
兵頭精/Wikipedia
南地よね/Wikipedia
西崎キク/Wikipedia