しかし、霊的なもの、目に見えないものが必ずしも恐怖を煽るとは限りません。
真偽の程はさておき、「何だかよくわからないものに助けられたような気がする」という体験談は、ネット上でもよく見かけます。
今回は我々に見えないところで助けてくれているかもしれない、とある神仏のお話。
7月24日は「地蔵盆」です。
お好きな項目に飛べる目次
ご先祖様とお地蔵様と大日如来が一堂に会する!?
地蔵盆とは主に近畿圏で行われている行事です。
れ以外の地域の方は「お地蔵様とお盆をくっつけるの???」と疑問に思われるかもしれません。
元々【お地蔵様=地蔵菩薩】の縁日が毎月24日で、旧盆と近いことから合わせて呼ばれるようになったのだそうです。
近年では新盆・旧盆それぞれに合わせたり、人が集まりやすいように、7月24日に近い土日に行われることもあるとか。
さらに、場所によっては大日如来の縁日である旧暦7月28日、あるいはそれに近い土日に合わせるんだそうです。
ご先祖様とお地蔵様と大日如来(仏教界でTOP的な存在)が一堂に会する……と考えるとスゴイ行事ですね。
地蔵盆では、お寺に祀られているお地蔵様ではなく、「辻地蔵」と呼ばれ、道に祀られているお地蔵様のお手入れを行います。
前掛けの新調や飾り付けをし、提灯を照らし、町の人や子供が集まれるような席を設置。地蔵菩薩は子供の守り神ですので、地蔵盆の主役も子供たちです。
お地蔵様の前でお菓子や料理を振る舞われたり、僧侶による子供向けの法話が行われるのだとか。
長野県や宮城県などでも
最近では仏教に関係ないこともやるようになってきて、宗教色よりも地域の子供会のような面が強くなっている地域もあるようです。
確かに賛否両論はおありでしょうが、地域の結びつきが薄れつつある現代ですから、伝統行事をきっかけにするのもそれはそれで良いと思いますけどね。
近畿圏の他には、
・長野県長野市の善光寺
・長崎県対馬市厳原町
・宮城県気仙沼市
など、近畿地方から離れた地方でも地蔵盆を行っている町はあるようです。
気仙沼市については、奥州藤原氏の本拠・平泉から近いために伝わったのですかね。
その他の東北・関東では、地蔵盆はほとんど行われていないようです。
六道すべてを救う地蔵菩薩が道祖神と習合し
「賽の河原」というお話をご存知でしょうか?
親より先に亡くなった子供は、まだ親孝行ができていないので不孝者である。
しかし、賽の河原(三途の川の河原)で石を積み続けて石塔を作れば、親の供養ができる。
だが地獄から鬼がやってきて石塔を崩してしまうので、幼子は延々と石を積み続けることになる。
というもので、地蔵菩薩は元々仏教における六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を旅して、あらゆる人を救うとされる仏様です。
その旅の中で賽の河原にも立ち寄り、鬼を追い払って子供たちを助けてくれる……と言われているんですね。
古来より人口が多かった=出産数も多かった=亡くなる乳幼児の割合も高かったであろう近畿周辺で、地蔵信仰が広まったのも道理かもしれません。
六道を巡る過程で多くの分かれ道も歩むだろうということから、地蔵菩薩はやがて岐の神=道祖神とも習合し、道端に石像が作られることも多くなります。
これらのことから考え合わせると、地蔵盆や地蔵信仰の発祥は「乳幼児の死亡率が高かった時代に、最も身近な場所にある仏様に親子でお参りをしに行った」というところでしょうか。
藤原氏の氏神として有名な天児屋根命でも
時代が下り、全国的に神仏習合が進むと、地蔵菩薩も他の神様と結び付けられるようになっていきます。
天児屋根命と、愛宕神社です。
天児屋根命は、藤原氏の氏神として有名な神様です。
日本最初の引きこもり事件こと天照大神の「岩戸隠れ」の際、岩戸の前で祝詞(のりと)を唱えたり、鏡を差し出したりしていました。
その後ニニギノミコトのお供をして地上に降臨し、藤原氏の祖先になった……とされています。
こうした来歴から祝詞の神、出世の神とも考えられました。
親が子供の出世を祈って天児屋根命に詣で、「子供の味方といえばお地蔵様だよね!」みたいな感じで紐付けられたんですかね。
“児”という字があてられたのも、早くから子供と結び付けられていたからなのかもしれません。
摂関家系統をはじめ、今も日本各地に藤原氏の血を引く子孫が多々いることを考えると、「藤原氏の氏神が子供の守り神でもある」というのは何だかデキすぎのような気もしますが……。
だからこそ栄えた、と好意的にみておきましょうか。
元は防火の神だった愛宕神社では……
もう一方の愛宕神社は、京都の愛宕山を発祥とする一連の神社のことです。
など、戦国武将の話でも度々出てくる神様ですね。
元々は防火の神として信仰されており、「3歳までに参拝すれば、一生火事に遭わない」という言い伝えがありました。
となると、当初から親子で愛宕神社へお参りに行くことは珍しくなかったのでしょう。
そして、地蔵菩薩が道祖神と結び付けられた後、道祖神の異名「シャグジ」から「勝軍(将軍)地蔵」という呼び名が増えました。
さらに勝軍地蔵が愛宕神社に祀られるようになったことから、愛宕神社=武神とみなされていきます。
地蔵菩薩が賽の河原で鬼から子供を守るところが、武神を連想させたのかもしれません。西遊記の孫悟空みたいに、念仏でいう事を聞かせられる鬼ばかりでもないでしょうし。
武闘派なお地蔵様とか何それカッコイイ。
京都も源平の戦いや応仁の乱、幕末のアレコレなどで戦乱に揉まれてきた地域ですから、「我が子が戦や火災に巻き込まれず、天寿を全うできますように」と祈った親も多かったことでしょう。
愛宕が多い東北地方では地蔵信仰も広まらず?
また、地蔵盆が根付いていない東北地方に「愛宕」の名がつく神社が多いところも着目に値するように思えます。
似たような役割の神仏が既に信仰されていたからこそ、後から入ってきた(?)地蔵信仰が広まらなかったのかもしれません。
そもそも愛宕信仰に勝軍地蔵が含まれていったわけですし。
こうなると長野県周辺で信仰されてきた「ミシャグジ」という神様もお地蔵様と関連がありそうですね。
ミシャグジは子供がかかりやすい百日ぜきなどの病気治癒・安産・子育てを司るといわれており、やはり子供と縁が深い神様とされています。
一方で、「一年ごとに8歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官は代替わりの際に人身御供として殺される」という「一年神主」の伝承もあるそうですが。
ここは地蔵菩薩とは対照的ですけれども。
しかし、日本の神仏は次々に仕事が増えていって実に難儀なことですね。
もしかして神様の世界も仕事量が多すぎて帰宅できないほどのブラックだった……なんて(´;ω;`)ブワッ
どの神様を信じるか、あるいは神仏の類を全く信じないかはもちろん個々人の自由です。
が、たまにはちょっとしたお供えやお賽銭でもして、神様を労うのもいいかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
地蔵盆/wikipedia
愛宕信仰/wikipedia