2017年は宗教改革から五百年目の節目でした。
「免罪符ってさ、なんかこう、違うよね」
と、1517年にマルティン・ルターが改革を始めてから五百年目なんですね。
宗教改革を行ったといっても、欧州それぞれの国に事情がありまして。
中でも国王が替わるたびにプロテスタントとカトリックをうろうろしたイングランドは、かなりグダグダ。
しかも、そもそもの発端が国王ヘンリー8世の離婚再婚問題なのですからいい加減にせい!という感じで。
1547年1月28日は、そんなヘンリー8世の命日――イングランドの宗教改革をおさらいしてみましょう。
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ヘンリー8世、兄嫁と結婚するってよ
1509年。
若くして即位したヘンリー8世はキャサリン・オブ・アラゴンと結婚します。
たくましい肉体を持つヘンリー8世は、肖像画はさておきイケメンとされ、やはり長身であった母型の祖父エドワード4世に似たと言われています。
この結婚、実のところ大きな問題がありました。
キャサリンはヘンリー8世の夭折した兄・アーサーの妻であったのです。

キャサリン/wikipediaより引用
政略結婚の一環で、莫大な持参とともに大国スペインから嫁いだキャサリンですが、僅か半年で病弱なアーサーは死去。
子供もいないし、このままスペインに戻すのが筋ですが、キャサリンの舅ヘンリー7世はドケチでした。
「持参金ごと嫁を帰すなんて嫌に決まっているだろ!」
ヘンリー7世はキャサリンの生活費をギリギリまで削り、半ば幽閉するようにイングランドへ留めたのです。
そんな兄嫁を気の毒に思ったのが、ロマンチストのヘンリー8世でした。
彼にとって兄嫁は、とらわれの乙女です。
「僕が即位したらキャサリンを救い出すのさ!」
そう心に誓っていたヘンリー8世。
しかし問題がありました。
血のつながりはないとはいえ、カトリックにとって兄嫁との結婚は、近親結婚として認められません。
ただ、教皇庁側にも思惑がありました。
「ここ結婚を認めて貸しひとつ、ということにしておこう」
教皇庁と対立するフランス王にとって、イングランド王は宿敵。「敵の敵は味方」というわけです。
当初、国王夫妻は仲むつまじいものでした。
しかしだんだんとヘンリー8世は不機嫌になってきます。夫妻の間に生まれた子供が、次から次へと亡くなってゆくのです。
成長したのは、聡明なメアリー王女一人でした。
『王妃は呪われているのかなあ』
そう疑うようになるヘンリー8世。
しかしヘンリー8世がフランス遠征で娼婦と性交渉をしたため梅毒に感染し、そのため子供がこんなにもすぐ亡くなったのでは、という説もあるようで……これが本当ならキャサリン可哀相すぎるやろ。
ヘンリー8世、カトリックやめるってよ
そこへ登場したのが、妻の侍女であるアン・ブーリンです。
美人ではないけれども、センスにあふれ知的な彼女に王はメロメロ。
しかも相手は焦らしてきます。
「私を抱きたいなら結婚して……」
今までの女は自分の身分をチラつかせば、すぐものになりました。
しかしアンは難攻不落。ヘンリー8世はすっかり乗り気になります。
そのためには、まず邪魔な古女房キャサリンをなんとかしなくてはいけません。
「そもそもアイツ兄嫁で近親結婚だし、チェンジでいいよね!」
「駄目です」
国王の結婚とは、本当に難しいもので。当時はいちいち教皇庁が口を挟んできます。
例えば、かつて教皇庁から散々離婚を止められたフィリップ2世は「離婚がこんなに面倒臭いとか、イスラム教徒マジうらやましい……」とボヤきました。
しかし時代は変わっています。
宗教改革が起こっています。
離婚するにはこのビッグウェーブに乗るしかない! と、ヘンリー8世は考えました。
「カトリックやめてプロテスタントになればいいじゃん! よーし俺、今日から英国国教会始めちゃうぞ! ボスはもちろん国王である俺様だ」
ヘンリー8世は反対するウルジーを投獄、トマス・モアらを容赦なく死刑にし、離婚再婚宗教改革に全力疾走します。
「離婚♪再婚♪宗教♪改革♪」とラップにデキそうなほどノリノリですね。
しかし、そもそもこんな身勝手な理由での改革ですので、教義面が追いつきません。
ヘンリー8世は厳しいプロテスタント批判をし、教皇から「信仰の守護者」という称号をもらっているほどです。
普通は教義がまずあり、改革が行われます。
しかしイングランドは逆でした。
そのため一進一退をしながら、グダグダと続くことになります。
メアリー、プロテスタント処刑するってよ
ヘンリー8世はアン・ブーリンとの結婚後、念願の男児が生まれずに王妃を処刑してしまいます。
ガチャを引くような感覚で王妃と結婚、離婚あるいは処刑を繰り返すヘンリー8世に、周囲も流石に呆れ果てました。
ヘンリー8世としては「女なんかが王様になったら、内戦が起こってまた薔薇戦争みたいなことになる」と警戒していたのです。
チューダー朝はただでさえ正統性が薄いのですから、この懸念は当然のものでした。皮肉にも、彼の王女たちはしっかり者で王権強化に成功することになるのですが。
そうしてやっと得た王子のエドワード6世ですが、若くして崩御。
跡を継いだのは、キャサリン・オブ・アラゴンの娘であるメアリー1世でした。

メアリー1世/wikipediaより引用
メアリー1世からすれば、自分の母を離婚するために生まれた英国国教会なんて、許せるわけもありません。
しかも彼女は母の祖国スペインに愛着があり、結婚相手もスペイン国王フェリペ2世です。
メアリー1世は上品で優しい人柄でしたが、反逆者に対しては容赦なく、スペインに関すると熱狂的に、宗教のこととなると見境がなくなる性格でした。ヤンデレ?
「他の国では対立した教徒を焼き殺すっていうけど、イングランドではどうかと思うな」
愛する夫のフェリペ2世が止めても、メアリー1世はじゃんじゃんとプロテスタントを火刑にした結果、「血に飢えたメアリー」というありがたくない異名をとってしまうのでした。
エリザベス、エドワード6世の体制を戻すってよ
崩御の間際、メアリー1世は無念の思いを噛みしめながら、異母妹エリザベスを後継者に指名しました。
生まれてすぐさま母が処刑され、姉からは投獄され、辛酸をなめてきたエリザベス1世。
彼女は宗教政策においても、石橋を叩いて渡る性格でした。
「女王陛下は、立派なプロテスタントでもなければ、熱烈な教皇主義者というわけでもない」
メアリー1世のあとを継いだエリザベス1世が即位すると、世間の人々はそう評しました。
どちらか一方に肩入れして、姉メアリー1世のような轍を踏むのはごめんなのです。
姉が宗教政策にかまけている間に政治がおろそかになったこともあり、彼女は政治重視の姿勢を打ち出しました。
とはいえ、まったく宗教政策に手を付けなかったわけではなく、エドワード6世の体制に戻しました。
かくしてイングランドは基本的に英国国教会の国となったのです。
1570年、エリザベス1世は教皇から破門されました。
とはいえ、この時代では破門にさほど大きな意味はありません。
1077年の「カノッサの屈辱」では、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇に赦しを乞いましたが、そんな時代ではないのです。
そもそもエリザベス1世は、両親の結婚すらカトリックからは認められていません。
カトリックの考え方では、彼女はイングランド女王ではなく「ヘンリー8世の愛人が産んだ庶子」に過ぎないのです。
今さら破門されても、さして落胆もなかったことでしょうし、想定内でしょう。
しかし、想定内イコール安全というわけでもなく……。
エリザベス、メアリーを処刑するってよ
イングランド国内にはまだカトリックが潜伏していました。
さらにイングランド国内には、母国を追われたスコットランド女王メアリー・スチュアートがとらわれています。カトリックはエリザベス1世をイングランド女王としては認めておらず、メアリーこそがふさわしいと考えていました。
メアリーを生かしておけば、担ぎ上げられかねない。彼女自身も謀叛を企んでいる。
けれども処刑したらしたで、カトリックを刺激してしまう。
エリザベス1世は迷った挙げ句、メアリーを処刑しました。
が、このことが大国スペインを刺激してしまいました。
フェリペ2世は1588年無敵艦隊を派遣してきたのです。
このときスペイン側は、イングランド国内のカトリックに呼応した蜂起を支持していました。
もしも無敵艦隊を打ち破れなかったら、イングランドは相当な危機にさらされたことでしょう。
エリザベス1世はこうなると寛大な政策を続けるわけにもいかず、カトリックすなわち反逆者として厳しく取り締まることになりました。
問題はカトリックだけではありません。
従来のプロテスタントでは生ぬるい、徹底した改革を求めた「ピューリタン」も、女王と対立します。
エリザベス1世はピューリタンとの闘争にも勝利をおさめ、英国国教会の体制を打ち立てたのでした。
ヘンリー8世の離婚再婚問題に端を発したイングランドの宗教改革。
グダグダとした経過をたどりながらも、改革のきっかけとなった結婚で誕生したエリザベス1世の代でやっと決着を見ました。
教義より前に改革があったイングランド。かなり特殊な経過をたどったといえるでしょう。
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文:小檜山青
【参考文献】
『図説 宗教改革 (ふくろうの本/世界の歴史)』(→amazon)