非業の死を遂げたはずの◯◯が実は海を渡った✕✕で生きていた――。
そんな伝説(という名のトンデモ説)、一度や二度は耳にしたことがおありでしょう。
古くはキリストの墓が青森にあるとか、源義経がモンゴルに渡ったとか、あるいは豊臣秀頼やルイ17世、ロシアの皇女アナスタシアなんてものもあります。
まぁ、こうした生存説は、大衆のロマンや願望が独り歩きしたものに過ぎません。
しかし、こうした伝説でも、時に歴史を動かすことがありまして。
ロシア・イヴァン雷帝(1530-1584年)の末子ドミトリーがその好例。
実に、ドミトリーを名乗る偽ドミトリーが、三名も現れたのでした。
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ヒャッハー系ツァーリ イヴァン雷帝、参上!
ロシアのツァーリ(皇帝・君主)といえば、ピョートル大帝はじめ、強烈な個性の持ち主が多いものです。
そんな中でも突出していたのがイヴァン雷帝。
幼くして両親を失ったイヴァンは(母は毒殺)、有力貴族たちに囲まれ、醜悪な権力闘争にさらされ続けながら育ちました。
当時のロシアでは、撲殺や幽閉、生きたままの皮剥ぎなど、聞くに堪えない拷問や殺害が平然と行われており、イヴァン自身も有力貴族シュースキー一族からネグレクト同然の扱いを受けていたほどです。
こんな調子でマトモな情緒を持ち合わせるハズがなく、イヴァン雷帝は残酷な性格に育ちます。
友人に暴力をふるったり、犬猫を惨殺したり。13才のときには、無礼な態度を取った有力貴族アンドレイ・シュースキーを飢えた猛犬の群れに投げ込むという凶行まで演じております。
そんなイヴァンを変えたのが、心優しき妻アナスタシアでした。
彼女のおかげでイヴァンはかなり穏やかな性格になりました。6人の子供にも恵まれ、そのまま温かい家庭が続けば、後の悲劇も起こらなかったでしょう。
しかし平穏は続きません。
残念ながらこのアナスタシアは、1560年に病死してしまうのです(生年不明)。
イヴァンは、彼女が『毒殺されたのではないか』と疑い、タガが外れてしまいました。
黒装束に身を包み、黒い馬にまたがった、恐怖の軍団
イヴァンは、犯人だと思われる貴族を拷問し、苦しませながらゆっくりと殺しました。
このとき暗躍したのがツァーリ直属親衛隊「オプリーチニキ」です。
黒装束に身を包み、黒い馬にまたがった、恐怖の軍団。
オプリーチニキの馬の鞍には獣毛で作った箒と犬の首がくくりつけられており、「ツァーリの敵を掃きだして噛みつく」という意味が込められておりました。
彼らは反乱の疑いがあるとみなした貴族や平民を虐殺して回ったのです。
こうしたイヴァンの短気は、取り返しの付かない悲劇を引き起こします。
彼は、同名の皇太子イヴァンの嫁エリナを嫌っていました。
妊娠したこの嫁が、ロシア正教会の定めた妊婦服ではなく、薄着であることに激怒し、殴る蹴るの暴行を加えて、流産させるのです。
激怒した皇太子は、当然ながら父に猛然と抗議しました。
が、その態度に逆ギレすると、鉄鉤のついた杖で息子の頭部を滅多打ちに……。
我に返ったイヴァンが目にしたのは、息絶えて血の海に横たわる我が子の姿でした(その姿を描いたwikipedia掲載の肖像画・血の苦手な方はご遠慮を)。
喉を切られて死んでしまった本物のドミトリー
イヴァン雷帝の死後、ロシアの有力貴族は大打撃を受けていました。
英邁であったイヴァン皇太子が父親に殺されてしまい、残されたのは無害で無力な皇子たちだったのです。
父の跡を継いだのは、実に無害なフョードル一世でした。
実質的に政治の実権を握っていたのは、妃イリナの兄ボリス・ゴドゥノフ。
うまく取り入ったつもりのボリスには、大いなる誤算がありました。
フョードル一世と妹イリナの間に、子が生まれなかったのです。
甥の後見人として権力の座に居続けたい彼にとって、これは困ったことでした。このままでは次のツァーリを、フョードル一世の異母弟ドミトリーに取られかねません。
幼いドミトリーは、ゴドゥノフによってウグリチに追放されてしまいます。
そして1591年、庭で遊んでいたドミトリーは、喉を切られて死亡している姿で発見されました。
焦ったのはゴドゥノフでした。彼はそこまでするつもりはありませんでした。
しかし状況からして、どう考えても彼の仕業にされることでしょう。
調査結果は、誰しもが驚くべきものでした。
「ナイフを持って遊んでいたら、てんかんの発作が起きて喉を切ってしまった」
んなアホな!
もちろん当時の人だって、誰もそんな話を信じませんでした。
現在では「ナイフ投げ遊びをしていて、刃を自らに向けた状態ならばありえる」というのが有力視されています。
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