1773年(日本では江戸時代・安永ニ年)12月16日は、ボストン茶会事件が起きた日です。
教科書でもおなじみですし、アメリカの歴史を語る上で欠かせない事件でもありますね。
本日は少し時を遡って、なぜこの事件が起きたのか、もうちょっと詳しくみていきましょう。
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あっちこっちで戦争広げて借金莫大こさえたよ
当時、アメリカは今のような合衆国ではなく、東海岸(大西洋側)の「十三植民地」だけでした。
そして、植民地の親分はイギリスです。
イギリスは当時、あっちこっちで戦争をやっていました。
北米大陸ではフランスと植民地の取り合いをし、ヨーロッパでは大陸の覇権をめぐる(いつものような)大戦をしていたのです。
戦争の名前としては、前者は「フレンチ・インディアン戦争」、後者は「七年戦争」です。
テストに出るかどうかはビミョーなところですが、覚えておいて損はないかと。
現代でも戦争といえばお金のかかるものですが、当時もそれは同じでした。
しかもほぼ同時進行でこの二つの戦争をやってしまったために、イギリスは戦費によって1億3千万ポンドもの借金ができてしまいます。
例によってお金の価値を換算するのは難しいのですけれども、この頃は「イギリス貴族の平均年収がだいたい1万ポンド」という時代です。
つまり1万人以上もの貴族が年収を全て国庫に入れたとしても、借金を返しきれない……なんて状態だったということになります。
※貴族の年収がいかほどのものか、これまた計算できませんが、仮に平均が1億円だとして計算してみますと×1万人で1兆円。あるいは更に10倍ぐらい? ともかく膨大。
アメリカも税金を払うこと自体に反対ではなかった!?
そんな状態なので、イギリスはなんとかして国庫への収入を増やさなければなりません。
手っ取り早い手段として、あっちこっちで増税をしまくり。
それまで比較的税金が安かった十三植民地も、このときばかりは例外とはいきませんでした。
新聞や証書、トランプなど、ありとあらゆる紙製品に印紙=税金をかける「印紙法」や、茶・塗料・ガラスなど日常でよく使われるものに税金をかけた「タウンゼンド諸法」など、増税のための法律を乱発。
しかし、十三植民地の住人たちにとっては、本国の負債など知ったことではありません。
なんせ本国の議会には十三植民地の代表がいないのです。
意見を言うことすらできない状態で、「明日からこれとこれとこれに税金かけるからヨロシク^^」とだけ言われても、「ハァ?」としか思わないですよね。
そのため、十三植民地の人々は「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて反対しました。
ポイントとなるのは、彼らは「自分たちの代表を送ること」を目的としているのであって、税金を払う事自体に反対したわけではない、ということです。
つまり、イギリス本国の議会が十三植民地の代表を受け入れ、それなりに折衝をしていれば、ボストン茶会事件もアメリカ独立戦争も起きなかった可能性があるわけです。
まあ、後世から見ているからこそ、そう思うのかもしれませんが。
1770年 ボストン虐殺事件が勃発!
十三植民地の人々は粘り強くイギリス製品の不買運動などを行い、抵抗を続けました。
結果、印紙法やタウンゼンド諸法は廃止されましたが、イギリス軍による警戒態勢が続きます。
そして1770年。
ついにボストン虐殺事件と呼ばれる事件が起きてしまうのです。
元々は、ちょっとしたケンカが発端となり、イギリス軍が民間人に向けて発砲、5人が犠牲となったものです。
犠牲者にはアイルランドからの移民もいました。少しでも良い暮らしをするためにわざわざ海を渡ってきたのに、全く関係ない理由でケンカに巻き込まれてしまったなんて、悲惨どころではありません。
そんなわけで、特にボストンではイギリスへの反感が強まっていきます。
また、いろいろな税金が廃止される中で、一つだけずっと課税対象になったものがありました。
お茶です。
タウンゼンド諸法が廃止された後、イギリスはわざわざ茶法という別の法律を作ってまで、お茶を課税対象にし続けました。
当時のお茶(紅茶)は飲料水の殺菌に使われていたので、生活必需品の中でもかなり重要なもの……つまり、誰もが買うものでした。
税金をかければ、相当の税収が得られるわけです。
しかし、これまたやり方がよくありませんでした。
下々の者たちが切羽詰まって起きたボストン茶会事件
当時、十三植民地の人々は、イギリスよりも安く売ってくれるオランダ商人からこっそりお茶を買っていました。
それが茶法によって「オランダより値段下げたし、今度からはイギリス東インド会社のお茶だけ買うよね?^^」と強制され、不安を抱く人が多かったのです。
『今後すべての貿易が、本国の監視下に置かれるのではないか』
と思ったワケですね。
そりゃ、こんだけ強引な方法を立て続けにやっていたら、懸念を抱かれるのも当たり前の話でしょう。
ですが、当時は「下々の者が何を思おうと、上の命令に従うのが当たり前」という時代。
十三植民地の声はイギリス議会で取り上げられることはなく、進むのは悪い感情ばかりでした。
そうした中で起きたのが、ボストン茶会事件というわけです。
元々ボストンの人々は、上記の虐殺事件によって、イギリス東インド会社やイギリス軍に良い印象を抱いていません。
そのため茶法にや茶の貿易にも積極的ではなく、「ここらではアンタの持ってきたお茶は買わないから、船から陸揚げせずに出ていってくれ」と求めます。
しかし、船からすれば「いきなりそんなこと言われても、俺らも仕事で来てるから『ハイそうですか』なんていかないっつーの」となるわけで……。
結論が出ないままボストン港への停泊を続ける船に対し、ついにボストンの住民の一部がキレます。
インディアンを模した衣装やフェイスペイントを施した50名ほどが、東インド会社の船に忍び込み、342箱もの茶を海に投げ捨てました。
金額にして100万ドルほどだったそうです。
ただ、当時十三植民地ではあっちこっちで違う通貨を使っていたのに加え、この数字が現代のアメリカドルに換算しているものなのかどうかが不明でした。何となくとんでもない金額というのはわかるのですけれども。
当時からしてもあまりの金額のため、十三植民地の住人からも「それちょっとやりすぎじゃない?」という意見が出ていたそうです。
後にアメリカ独立宣言を起草することになるベンジャミン・フランクリンも、どちらかといえばそういう考えで、私財で東インド会社へ賠償しようとしたとか。
その後戦争になったこともあってか、最終的には支払われなかったそうですけどね。
米国でコーヒー派が多いのはイギリスへの反骨心から?
東インド会社が怒るとなれば、当然イギリス政府も怒髪天を衝く勢いで対処します。
ボストン港の閉鎖や自治権の剥奪、駐屯するイギリス軍の増強などを行い、ボストンを軍政下に起きました。
ここまで来ると、ボストン以外の町でも「もうイギリスなんて嫌だ! 独立して俺達は俺達らしくやっていこう!」という動きが強まっていきます。
そして翌年の4月に武力衝突が起き、独立戦争が始まるわけです。
両国の関係を一つの家庭に例えるとすれば、「上京して独り立ちした長男に、ある日突然地元の両親がタカりはじめ、長男がキレた後に両親も逆ギレ。絶縁状を叩きつけた後、血で血を洗う大ゲンカに発展」という感じでしょうか。
こう書くとホントにひでえ……。
ちなみに、現在でもアメリカでコーヒー派が多いのは、この一連の流れによって、「イギリスに押し付けられる紅茶は勘弁。もっと別のものを飲もう」という人が増えたからだそうで。
独立前から十三植民地にはコーヒーショップが数多く存在していましたので、切り替えるのもさほどの手間ではなかったのでしょう。
最近ではイギリス人でも紅茶よりコーヒーを好む層がいるそうですが、こうした歴史を知っていると「それでいいんかい?(´・ω・`)」と聞いてみたいような……。
まぁ、イギリス人の場合は
「出先でまずい紅茶を飲むより、コーヒーのほうがマシ」
という人も多いみたいですけれども。
さすが皮肉の国は違いますわ。
長月 七紀・記
【参考】
ボストン茶会事件/wikipedia
印紙法/wikipedia
タウンゼンド諸法/wikipedia