1905年(明治三十八年)12月17日は、フィンランドの超人スナイパーであるシモ・ヘイヘが誕生した日です。
一人でソ連兵500人以上の狙撃に成功し、「白い死神」と呼ばれた人ですね。
戦後のインタビューで「狙撃のコツは?」と聞かれ、「練習だ」という身も蓋もない(ただし真実ではある)返答をしたことでも有名。
いったいどのような経緯で、桁外れととしかいいようのない記録が生み出されていったのか。
ヘイヘの話をするにあたっては、まず当時のフィンランドの情勢を理解しておく必要があります。
ざっくりと確認していきましょう。
スターリンのソ連に攻めこまれた「冬戦争」
ヘイヘが活躍した戦争は【冬戦争】というものです。
1939年11月にソ連がフィンランドに侵攻して始まったもので、彼から見れば防衛戦ですね。
元々の人口や国土に大幅な差がありますから、兵力でもソ連が圧倒的に有利でした。
しかし、フィンランドはカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥の下、粘り強く抵抗を続けます。
ソ連=ロシアといえばやはり冬将軍や焦土作戦の有効活用が連想されますけれども、元々フィンランドも極寒の地ですし、焦土作戦は(基本的に)防衛する側が使ってこそ有効活用できるものですから、ソ連にとっては必殺技を二つ封じられたような戦いでした。
ついでにいうと、スターリンの疑心暗鬼その他の(比較的アホな)理由で自国の将校たちを処刑しまくっていたため、ソ連軍は人材不足に陥っていました。
ただ、だからと言ってフィンランドが圧倒的に有利だったワケでもありません。
相手は陸地を接する隣国ですから、国境線=戦線が非常に長く、寡兵で大軍を迎え撃たざるを得なかったのです。既に白兵戦主流の時代は過ぎていたとはいえ、数の差があればいずれ押し切られるのは目に見えていおりました。
32人の兵士でソ連軍4000人相手に勝ったコッラーの奇跡
そこで考えだされたのが、ヘイヘのようなスナイパーたちを最大限に活用し、できるだけ接近せずに敵を減らすという作戦でした。
焦土作戦やゲリラ戦なども併用しています。
ヘイヘは元々猟師や農業で生計を立てていましたが、兵役義務を果たした後、予備役扱いになっていました。
射撃の大会で入賞するほどの腕前だということが知られていたため、冬戦争の際は兵長として招集され、地元付近で防衛作戦に参加します。
このときの上司がまた「お前射撃の腕パねえな。狙撃よろしく」(超訳)と判断したことも、フィンランドにとっては幸運でした。
ソ連にとっては間違いなく悪夢の始まりでした。
彼が参加した戦いでは「フィンランド兵32人vsソ連軍4,000人」という、マンガ以上に劇的な展開の戦いもありました。
しかも、上記のような条件が揃っていたためフィンランド軍が勝ち、戦場付近の川の名を取って【コッラーの奇跡】とまで呼ばれています。
スコープも使わず狙撃するってマジ死神です
ヘイヘの恐ろしいところはスコープを使わずに狙撃を成功させ続けたということでしょう。
「反射で位置を悟られるから」
という理由だったそうで。
ライフル以外にサブマシンガン(マシンガンと拳銃を足して割ったような感じの銃)も用いて、数百人を撃ったといわれています。
戦時中のことなので正確な記録がないのですが、下手をすれば100日間で合計1,000人前後を殺っているわけで……どう見ても死神です。
本当にありがとうございました。
もちろん、ソ連も何もせずにいたわけではありません。
大砲やカウンタースナイパー(スナイパーを狙撃するスナイパー)でヘイヘを始末しようと躍起になります。そりゃそうだ。
そしてある日、カウンタースナイパーの一人がヘイヘを撃ち抜きました。
しかしフィンランドの妖精……もとい神様は、ヘイヘを見捨てませんでした。
同じ隊の兵いわく「彼の顔は半分なくなっていた」と証言するほどの重傷を負ってなお、ヘイヘの命は助かったのです。
顔は大きく変形してしまいましたが、その眼光は2002年に亡くなるまで衰えることはありませんでした。
この大怪我以降はさすがに戦線へ復帰することはなく、猟師と猟犬のブリーダーを兼業し、穏やかに暮らしていたようです。
あれだけの大怪我をして、なお銃を手放さないというのがスゴイですよね。
第二次世界大戦中には、ヘイヘ以外にも神業としかいいようのない戦果を挙げたスナイパーが複数いるのですけれども、やはりヘイヘの記録は別格です。
彼の存在だけでも十二分な脅威ですが、対ソ連で大活躍した軍人というのは、実は他の国にもいたりします。
そのお話は「12月18日」にでも。
長月 七紀・記
【参考】
シモ・ヘイヘ/wikipedia