日本人にとっては宗教は縁遠いものです。
たまに本格的な書籍を読んでいると『大丈夫か、コイツ』みたいな目で見られることがあります……(経験者)。
般若心経の本だったんですけどね(´・ω・`)
そんな哀しい経験はさておき、2月15日は涅槃会(ねはんえ)の日です。
「涅槃」とは釈迦入滅のことを指します。
つまり、お釈迦様が亡くなった日に営む法要のことです。
「西行は釈迦入滅の日に自分も死にたいと考えており、その通りになった(ただし日付は1日ズレてた)」
という記事もありますが、お釈迦様そのものお話をしていませんでした。
今回は、釈迦が悟りを開き仏教を広めるまでの道筋をわかりやすくダイジェスト版でマトメてみました。
平安時代の名僧・西行法師「ブッダと同日に死ぬ」と詠み一日ズレる?
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一人の聖職者に会って「そうだ、出家しよう」
釈迦は元の名を「ガウタマ・シッダールタ」といいます。
古代インドの王族で、一時は妻子もありました。
王族なので何不自由ない暮らしをしていたのですが、あるとき人間には生老病死の苦しみがあることに気づき、悩んでいたところに一人の聖職者に会って「そうだ、出家しよう」(超訳)と思い立った……といわれています。
しかし、当時の宗教では、釈迦の求める答えは得られませんでした。
断食で命が危うくなるような状態にまで陥っても、悟りを開くことができなかったのです。
釈迦は失望し、別の方法で救いを求めようと考えます。
この頃、釈迦に乳粥を施した女の子が「スジャータ」という名前だったといわれています。今ではコーヒーのお供などで有名なアレを作っている会社の旧称・商品名で有名ですね。
少女から元気づけてもらった釈迦は、とある菩提樹の木の下で立ち止まり、決意を新たにしました。
「悟りを開けるまで、この木の根元から決して立たないぞ」(意訳)と意を決し、瞑想を始めたのです。
途中で釈迦の気を惑わす悪魔が現れましたが、釈迦は負けずに瞑想を続け、ついに悟りを開きます。
伝えるべきか否か……背中を押したのが梵天だった
釈迦はそのままさらに数日間瞑想を続け、次は世の人々にこの内容を伝えるべきかを考え始めました。
これだけ苦しい思いをしてやっと得たものですから、口で伝えたところで、理解できる人はいないだろうと思ったのです。
そりゃそうだ。
しかし、梵天という仏様に諭され、釈迦は悟りの内容を他の人々にも伝えようと考えます。
まずはかつて修行を指導してくれた聖職者たちに話し、その後一般の人々や他の国の王様にも教えを広めていきました。
実家の人々も釈迦の教えを信じ、その中には釈迦の息子もいたとか。
そこからしばらくの間、釈迦がどのような足跡をたどったのかということは、はっきりしていません。
最も詳しい記録があるのは、亡くなる直前のことです。
その日、釈迦は弟子たちとともにとある鍛冶屋の家に招かれ、教えを授けていました。
かねてから釈迦の評判を聞いていたその鍛冶屋は、念願の聖者一行をもてなせることを喜び、翌朝の食事に招待します。
既に高齢に入っていた釈迦は、「スーカラ・マッダヴァ」という料理だけをもらい、「他のものは弟子たちにやってください」といいました。
この料理は一体どんなものなのかよくわかっていないのですが、キノコもしくは豚肉を使っていたようです。
また、高齢の釈迦が選んだということは、消化が良さそうなものか、やわらかい料理でしょうね。具材を煮溶かしたスープのような感じでしょうか。
料理の正体はともかく、釈迦はこの食事をしてから、にわかに腹痛を訴えました。
そして横たわり、そのまま亡くなったといわれています。
乳粥と同じく、とても尊いもの 彼を恨んではいけない
亡くなる間際、釈迦はこんな言葉を言い残します。
「お前たちはあの鍛冶屋のせいで私が死ぬのだと思うかもしれないが、それは違う。あの料理は、かつて少女にもらった乳粥と同じく、とても尊いものだった。だから、彼を恨んではいけない。もしそう言い出す者が現れたら、そう伝えてほしい」
かくして釈迦は悟りを開き、世を去ったわけですが、一般の人はそう簡単にそこまでいけませんよね。
お経を聞いたとしてもちんぷんかんぷんですし、法事の際に眠くなってしまう人も多いでしょう。某電脳歌姫のポップス版とかはともかく。
ワタクシも正式に仏様の教えを学んだわけではないので、あまりエラそうなことはいえないのですが……今回は仏教に由来する言葉の中から、いくつか意味を掴みやすそうなものを選んでみました。
まずは「自灯明」と「法灯明」から行きましょうか。
ものすごく簡単に言うと、自灯明は「自分の考えをしっかり持つこと」、法灯明は「それでも迷うなら、仏様の教えにしたがって行動せよ」という感じです。
裏を返せば、「他人の口さがない言葉は聞かなくておk」ということにもなるでしょうか。確かに、悪口しか言わないような人と付き合っててもMPが減るだけですからね。
四苦とは生・老・病・死の四つの苦しみのこと。そして……
もうちょっと馴染み深いものは、やはりことわざや四字熟語の類でしょうか。
例えば、「四苦八苦」は仏教に由来する熟語です。
四苦とは生・老・病・死の四つの苦しみのこと。そして、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つが加わって「八苦」になります。
順に
「愛しく思う人と離れる苦しみ」
「憎いと思う人と会ってしまう苦しみ」
「求めるものを得られない苦しみ」
「自分の心身が思うようにならない苦しみ」
を指します。
ここでキリスト教と比べてみるとなかなか面白いことがわかります。
キリスト教の場合、最初から「○○をしてはならない」と禁じる言い方なのですが、仏教だと「○○という苦しみがあるから、精進しなくてはならない」という流れになるのです。
イスラム教の場合は「○○をしてはならない。が、次に述べる場合は例外である」という書き方が多い気がします。
有名なラマダーンも、子どもや病人、月一のイベント中もしくは妊娠中の女性などは、断食しなくて良いのだそうで。場合によっては後日やり直すそうですが。
この辺は一神教・多神教というだけでは分類しきれない、宗教の奥深さを感じますね。
「心頭を滅却すれば火もまた涼し」
歴史に関係あるところでいくと、仏教というかお寺に関係するのが「心頭を滅却すれば火もまた涼し」です。
織田信長が武田攻略の最中で攻めたお寺の住職・快川紹喜(かいせんしょうき)が、寺ごと焼かれた際に言い残したといわれています。
ぶっちゃけた話、例えが極端すぎて一般人にはあまり役に立ちませんが、心構えとして参考にするのは良いかと。
ちなみに、現代の猛暑日にこのことわざを引き合いに出して我慢しつづけると、熱中症で救急車のお世話になる可能性が大ですので、やめましょうね。
まあ、どんな言葉であっても「物は言いよう」ですけれども。
長月 七紀・記
【参考】
釈迦/wikipedia
純陀/wikipedia