徳恵翁主

徳恵翁主(右の写真は1925年・13~14才の頃に撮影したもの)/wikipediaより引用

アジア・中東

朝鮮王朝のラストプリンセス・徳恵翁主~心を闇に閉ざされた悲しき後半生

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ホームシックと母の死

東京駅に着いた徳恵。

彼女を迎えたのは、兄・李垠の妻・李方子でした。

李方子/wikipediaより引用

方子は、美しく成長した義妹を見て驚きました。

その目に潜んでいたのは絶望。

以前出会ったときは、キラキラとした瞳の少女だったのに……一体なにがあったのだろうか。方子は内気な徳恵を見て心配になりました。

徳恵は女子学習院に入学します。

クラスメートたちは、朝鮮から来たお姫様はどんな方かしら、とワクワクしながら待ち受けてました。教師も仲良くするように伝えております。

彼女らは徳恵に話しかけ、遊びに誘いました。

が、徳恵は、暗い顔をして口数も少なめ。重度のホームシックにかかり、家でも学校でも、暗い顔になってしまいます。

思春期の徳恵は、口を閉ざし、やがて心も閉ざすようになりました。

1925年撮影・洋服姿の徳恵翁主/wikipediaより引用

徳恵が祖国に帰ることができるのは、兄・純宗の危篤、死、一周忌、二周忌の時のみでした。

そして1929年(昭和4年)。母・梁氏が永眠。

17歳の徳恵はうちのめされました。

しかも、翁主となった徳恵が弔うには、母の身分が低すぎるとして、十分な服喪すら許されなかったのです。

1929年、母の葬儀で/wikipediaより引用

葬儀の二日後には足早に日本に戻ることとなった徳恵。

17歳の少女にとって、あまりにつらい試練でした。

この悲しみが、さらなる不幸の引き金を引くことになります。

 

深い憂うつのまま結婚 そして戦争へ

母の葬儀から戻ったあと、徳恵の精神は変調をきたします。

話しかけられても答えることがなくなり、学校にも行きたくないと言い出したのです。

年齢的にも傷つきやすい年頃であり、現在ならばうつ病と登校拒否としてしかるべき処置を受けるところでしょう。

しかし、このときくだされた診断は「早発性痴呆症(統合失調症)」であり、彼女にとって極めて不幸なことでした。

1931年(昭和6年)、徳恵は学業を修了します。

といっても、ほとんど登校できない状態が続き、そのあとに待ち受けていたのは、宗武志との結婚です。

3月に卒業すると、4月には納采の儀(皇族にとっての結納/当時朝鮮王族は皇室に準じた扱いでした)があり、5月に挙式。

あわただしい日程で、結婚へのスケジュールが埋まっていたのです。

こうした儀式は、朝鮮式ではなく和式で行われました。

相手の宗武志は、旧津島藩主・宗家の当主で伯爵にあたります。

朝鮮通信使時代以来の縁とはいえ、李家からすれば格下という気持ちは否めません。

いざ新婚生活が始まってしまえば、徳恵の心も華やぐという意図もあったのでしょうか。

かなり急ぎ足の結婚です。

1931年撮影の夫妻(夫・宗武志と徳恵翁主)/wikipediaより引用

結婚の翌年、夫妻の間に長女・正恵が誕生し、武志は愛娘の誕生を喜びました。

幼い正恵のもとに、朝鮮からも可愛らしいチマチョゴリやおもちゃが届きます。

娘を育てるうちに、不安定な徳恵の気持ちもおさまるのではないか。そんな期待もあったかもしれません。

しかし、事態は期待とは正反対の方向に進むのでした。

従来の不安定さに、マタニティブルーも重なったのか。徳恵は、さらに深刻なうつ状態に陥ってしまうのです。

戦時色が強まる中、徳恵は宗家の奥深くで療養する日々を送りました。

宗家のような華族たちも贅沢を禁じられ、空襲の中で怯える生活。

夫・武志も出征してゆきます。

王族であろうと、戦火は容赦なく襲いかかります。

1945年(昭和20年)の広島では、李氏王家の一員である李グウが被曝死しています。

李グウの訃報を伝える新聞記事/wikipediaより引用

1945年(昭和20年)8月15日。

日本にとっては敗戦の日であり、朝鮮にとっては解放の日。

それは精神を闇に閉ざされた徳恵にとって、関係の無いことでした。

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