光武帝(劉秀)/Wikipediaより引用

中国

どうして漢王朝は前漢と後漢に分かれている? 光武帝(劉秀)が後漢を樹立

建武元年(西暦25年)6月22日は、光武帝(劉秀)が漢王朝(後漢)を再興した日です。

世界史を専攻されていない方は疑問に思ったことはないでしょうか?
なぜ漢王朝は前漢と後漢に分かれているの?と。

「一度滅んだ王朝が同じ血筋の人物によって復活する」というのは、中国だけでなく世界史でも珍しいこと。
一体どのようにして、そんな至難の業を成功させたのでしょうか。

漢王朝(前漢)のはじまりから流れを見ていきましょう。

 


秦あっけなく滅び、項羽と劉邦から漢王朝の時代へ

中国を初めて統一したのは、教科書でもおなじみの始皇帝です。

始皇帝の王朝は「秦」といいますが、跡継ぎをハッキリさせないまま急死してしまい、二代目で滅亡という呆気ない終わりを迎えてしまいます。
そして項羽と劉邦をはじめとした戦乱の時代を経て、最終的に劉邦が漢王朝を作りました。

時は流れ、漢の十五代目の皇帝になるはずだった劉嬰りゅうえいのとき、外戚である王莽(おうもう)によって一度滅びてしまうのです。

王莽は若い頃は苦労しており、一見まともな働きをしていました。

しかし伯父である大将軍・王鳳が亡くなる前に「王莽のことをよろしくお願いします」と当時の皇帝である成帝に託すと、王莽もヒイキされて出世していきます。
成帝の母が王莽の伯母・王政君だったからです。

成帝の次に即位した哀帝は外戚を排除しようとし、王莽も一時地方へ追いやられましたが、王莽復帰の嘆願が多く集まったために、復帰させざるを得ませんでした。
民意に従った形ですが、これがかえって漢に悪影響を与えることになります。

王莽は儒学や占いに基づいた政治を行う一方で、人気取りのため自分の息子達を自殺に追いやるなど、冷酷な面も表し始めました。
さらに、哀帝の次に皇帝となった平帝は幼い頃から病弱で、14歳で亡くなってしまいます。

これを好機と見た王莽は、自らを「仮皇帝」「摂皇帝」として帝位簒奪に動き始めました。
現代でいえば書類偽造にあたる行為を行って、自らを正式な皇帝とし「新」という新しい国を作ることを宣言するのです。

 


300年も前の周王朝をマネして大顰蹙

出世の糸口となった王政君は当然大激怒。
王莽自身も、貨幣の改鋳など悪政の見本市みたいな失策を乱発し、新の財政はみるみるうちにズタボロに。高句麗や自国内の民衆による反乱が相次ぐようになります。

一応、王莽としては「周王朝をマネすれば良い政治ができるに違いない!」と考えて前例にならっていたのですが、いかんせんこの時点で周の時代から300年ぐらい経っています。
乱暴に置き換えると、徳川吉宗の政策をそのまま現代の日本でやるようなものです。
もっと具体的にいえば、サラリーマンに対して「所得税を米で納めろ!」というような感じでしょうか。

さすがに喩えにムリが出てきましたが、ともかく彼の無茶振りには程がありました。

こうした中で、新王朝に反旗を翻した人々をまとめたのが、光武帝こと劉秀です。

劉秀は前漢の六代皇帝・景帝の末裔にあたり、血筋的にも人格的にも優れていました。最初は兄に従う形で挙兵し、本家筋にあたる劉玄(更始帝)にも臣下の礼をとりました。

しかし、その二人よりも劉秀のほうがリーダーシップを発揮し、王莽を討ち果たすのです。

 


あくまで謙虚な劉秀に人気が集まり、周囲も推挙

見事に王莽を討ち取り、天狗になってもおかしくない場面。
それでも劉秀は、あくまで更始帝を立てた行動に徹します。と、これがまた人望を集めることになりました。

他者からしても、劉秀のほうが器がデカくて優秀だと思われていたようです。

更始帝は劉秀の実力を恐れ、都に縛り付けたりいろいろやりますが、他に地方の反乱を平定できる人物がおらず、結局劉秀を頼ることになります。

劉秀もそれに気づき、数十万の兵を味方につけた時点で更始帝を見限りました。
部下にも「貴方が皇帝になったほうがいい」と言われ、自ら即位することを決めます。

即位については二回は断り、三度目でようやく承知したとか。劉備と諸葛亮の「三顧の礼」の元ネタ?かもしれませんね。頼むほうと頼まれるほうの身分が逆ですが。

更始帝はかつて王莽を倒した際の協力者だった赤眉軍によって殺されています。

赤眉軍はその後、劉秀の部下に敗れ、劉秀に降伏しました。
そして劉秀は即位から11年で中国各地を平定し、漢王朝の復活を成し遂げます。

 

光武帝となっても善政を行った……ことが裏目に出てしまう

王莽がめちゃくちゃをやったおかげで民衆はすっかり疲弊していたため、光武帝となった劉秀はまず、国力を蓄えることを優先しました。

中でも大きく影響を与えたのが、地方への駐在軍を廃止し、徴兵をやめて傭兵で軍事を賄ったことです。
こうすることで軍にかかる費用を減らし、さらに兵を養うためにかかる税を減らしました。

しかし、光武帝が亡くなると、この仕組みがかえって仇となります。

後漢では30代で亡くなる皇帝が多く、世代交代が非常に早く行われました。ほとんどの皇帝が10代前半で即位しています。

こんなに若い皇帝が親政を行えるはずもなく、自然と宦官や皇帝の外戚が実権を握るようになっていきました。となると身内びいきが状態化するわけで、それに不満をいだいた地方豪族や民衆の反乱が相次ぎます。

正規軍を減らしたことで、反乱を鎮圧できなくなってしまったことも一因でした。
光武帝の思いやりが仇になってしまったのです。

また、反乱を起こさない豪族や官僚も、中央に賄賂を送るために民衆から搾取しまくります。

後漢では、絵に描いたような腐敗政治と戦乱の時代が長く続いたのです。
光武帝は草葉の陰で泣くどころか悶絶してたでしょうね。

そんなこんなで184年に黄巾党という新興宗教の首領・張角が反乱を起こし、それを討伐しようと名乗りを上げたのが曹操や劉備、孫堅などでした。

彼らがまた相争い、三国時代へ流れていきます。

しばらくの間、三国の一つである魏(曹操)とそれを簒奪した晋によって漢王朝の血筋は保たれましたが、その後殺されたため、結局絶えてしまいました。

世界史上ではよくある話ですが、どうにもやるせないというか無情というか。

長月 七紀・記

【参考】
光武帝/Wikipedia
新末後漢初/Wikipedia
王莽/Wikipedia


 



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