1542年12月9日は、スコットランド女王メアリー1世が誕生した日です。
ほぼ同時代に”イングランド女王”のメアリー1世がいますので、メアリー・スチュアートといったほうがわかりやすいでしょうか。
祖母がエリザベス女王の父・ヘンリー8世のお姉さん、お母さんはフランスの大貴族、もちろん父親はスコットランド王ですから、まぁヨーロッパにはよくある話で各国王侯貴族のハイブリッドです。
その代わり面倒ごとの起こし方もハンパなかったです。
生まれながらのスコットランド女王
父王・ジェームズ5世が彼女の誕生直後に逝去。
メアリー・スチュアートは生まれながらにしてスコットランド女王として生きていくことになりました。
物心つく前から周囲のさまざまな思惑によって波乱万丈の生涯を送ることになります。
当時はまだヘンリー8世が存命中で、その息子エドワード6世と婚約するはずだったのですが、母が阻止したため実現しません。
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その代わり、母の実家同然のフランス王家と縁を結ぶことになります。
お相手はフランス王太子フランソワ、後のフランソワ2世でした。
そのため一度はフランスに渡りフランス式の教育を受けたのですが、肝心の旦那さんが夭折してしまったため、早々にスコットランドへ帰国します。
二人とも十代半ば、しかも新婚二年目でしたので子供もおらず、メアリー・スチュアートにはフランスに留まる理由がなかったのです。
もしエドワード6世と結婚していたら、この時点で問題がほとんど解決していたかもしれません。
なぜならメアリー・スチュアートの人生のほとんどは、ヘンリー8世の後を継いだエリザベス1世との確執によるドタバタだからです。
女王様同士の対決って書くと字面が何だかアレですね。わからない方はどうぞそのまま純粋でいてください。わかってしまった方も人前で口に出すのはやめましょうね。
エリザベス1世との確執
上記の通りメアリーにはイングランド王家の血も入っています。
ゆえに一応は「私は正当なイングランド王なのよ!」と主張する根拠はある。
しかもエリザベス1世のお母さんはヘンリー8世に身勝手な離婚(&処刑)をされていたため、一時期「エリザベスは庶子」とされていました。
庶子には王位や財産の継承をさせないのが当時のセオリー。
この考えでいえばエリザベス1世は正当なイングランド王ではありません。
ぶっちゃけ屁理屈ですが、メアリー・スチュアートはそこを根拠として「私が正当な(ry」と言い出すと、意外にも賛同する人がたくさんいました。
今でこそ「エリザベス1世=イギリスを代表する絶対的君主」ですが、当時はまだ王になったばかりで不安定な状態でしたから、いつ引っくり返るかもわからなかったのです。
これまたヘンリー8世が離婚をしたいがためにカトリックと大ゲンカしてしまったのが尾を引いてました。
あれ? なんだかほとんどトーチャンのせいじゃね?
すると……。
二人目の夫は殺されすぐに三人目と
メアリー・スチュアートは熱心なカトリック信者。当然ローマ教皇はエリザベス1世よりもずっと彼女のことを気に入ります。
「教会はメアリーこそ正当なイングランド女王であると認めます^^」と言ったことになり、さらに他国も同調し、メアリー・スチュアートは自信満々になるという悪循環が起きました。
そのためエリザベス1世を怒らせるようなことを度々やります。
二人の共通の親戚・ダンリー卿ヘンリー・スチュアートとの再婚もその一つ。彼もまたイングランドの王位継承権を持っていたのです。
後にヘンリーがとてつもなく傲慢な人だとわかると、メアリー・スチュアートが冷めていったため、あまり良い結婚ではありませんでした。
一応、後のジェームズ6世となる男の子が生まれはしたものの、両者の関係が改善することもなく、メアリー・スチュアートは愛人を作ったり、別の男性に惹かれたり、トラブルの種を蒔き続けます。
ヘンリーに対しては、メアリー・スチュアートだけでなく他の貴族たちも反感を持っており、彼は現在のエディンバラ大学で殺害されてしまいました。
これを機にボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンがメアリー・スチュアートにプロポーズ。
二人目の夫が殺されてからわずか数ヶ月で、彼女は三人目の夫を迎えることになります。
しかし、コトはそう上手くいきません。
「メアリー・スチュアートとジェームズが共謀してヘンリーを殺したに違いない!」
そう考える貴族たちもおり、反乱を起こされてしまうのです。
これに対しメアリー・スチュアートも兵を挙げましたが、反乱軍に敗れ、なんとイングランドに亡命します。
よくイザコザを起こした相手の下に逃げ込んだものです。頭が柔らかいってことですかね。
ちなみに子供は置き去りにされました、嗚呼(´・ω・`)
亡命先のイングランドで処刑され
メアリー・スチュアートは、命を助けられたからといって大人しくしていたわけではありません。
エリザベス1世の廃位を目論む物騒な陰謀に度々加担し、イングランド貴族達が先にプッツンしてしまいました。
物的証拠を集めた彼らは、正式に裁判をしてメアリーに死罪の判決を下します。
さすがに従姉妹でもあるエリザベス1世は死刑の執行命令を躊躇ったようですが、証拠があっては庇い続けることもできず、メアリー・スチュアートは処刑されました。
置き去りにされた男の子が後にスコットランド王になったため、スコットランドが直ちに滅亡するということがなかったのは不幸中の幸い。
ついでにいえばその頃エリザベス1世が独身のまま危篤になっていたため、その息子がイングランド王も兼ねることになります。
「カーチャンが一番欲しかったものが偶然息子の懐に転がり込んできた」
って、なんとも皮肉なオチですね。
イギリス名物・ブラックジョークとしても中々のものかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
『ラルース図説 世界史人物百科〈2〉ルネサンス‐啓蒙時代(1492‐1789)』(→amazon)
メアリー (スコットランド女王)/wikipedia