ロバート・デヴァルー(第2代エセックス伯)/wikipediaより引用

イギリス

英国の自爆貴族ロバート・デヴァルー エリザベス女王おきにのイケメンが痛過ぎて

誰かに気に入られる・好意を向けられることは、基本的にはいいことですよね。セクハラやその他ゲスい感情が混じっていなければ。

しかし、気に入られた側が下心を持つ場合もあります。それをうまく隠して行動できれば、政治や軍事の世界ではのし上がることもできますが……調子に乗って自ら破滅へ飛び込んでいく者も珍しくありません。

今回は君主の寵愛を受けた故に、自らを御しきれなくなって破滅へ進んだ、とある貴族のお話をご紹介します。

1601年2月25日は、イングランドの貴族ロバート・デヴァルーが亡くなった日です。

 


小さい頃から苦労人

この頃、イングランドはエリザベス1世の時代でした。

出世や失脚の一因に「君主の感情」が大きく左右するという点も、時代的によくある話。

ロバートが出世し、そして非業の死を遂げることになるのも、エリザベス1世との関係が大きく影響していました。

エリザベス1世は1533年生まれですので、文字通り母子のような年齢差ですね。

詳しくは後述しますが、女王がロバートに甘すぎるように見えるのも、この年齢差が影響したのかもしれません。

母方の縁ではエリザベス1世と親戚でもあります。

こうして庶民よりは良い立場に生まれたロバートですが、彼は幼いうちから苦労を背負うことになります。

1576年、彼の父親がアイルランドの反乱鎮圧で出征中に亡くなってしまったのです。ロバートは10歳の幼さで爵位と領地を受け継ぐことになりました。

しかもロバートの場合、父親がアイルランド出征で莫大な借金をしていたため、それも相続せざるを得なくなってしまったのです。

「イングランドで一番貧しい伯爵」とまで呼ばれていたそうです。ひでえ。

さすがに10歳の子供と借金を放置しておくわけにもいかず、宰相の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルが後見人となって育てられました。

のちのちウィリアムの子で同じ名前のロバート・セシルと政争を繰り広げることになるので、因縁が始まったともいえます。

 


エリザベス1世の寵愛を得るために宮廷デビュー

とはいえ、若いうちは政治力も兵を率いる統率力もありませんので、ロバートもしばらくは大人しく育てられていました。

ケンブリッジ大学で学んだり、郊外の町で暮らしてみたり、貴族らしい生活も送っています。

一方、彼の母はエリザベス1世の寵臣であるロバート・ダドリーと再婚。

彼との縁により、18歳でロバートは宮廷デビューすることになりました。

どうでもいいですが、この時代に“ロバート”って名前がよほど流行ってたんですかね。

実際にはニックネームで呼ばれたり、爵位や役職名で呼ばれることが多かったでしょうけれども。

まあ名前のことはさておき、宮廷デビューは出世のため、そしてエリザベス1世の寵愛を得ることが目的でした。

そうすれば何かと支援を受けられ、父の借金を返すことができると考えたからです。

ロバートは長身の美男だったため、それを武器にしようと思ったのでしょう。

ちなみに、エリザベス1世はこの頃51歳です。若いツバメというやつですね。

エリザベス1世は若い美男子を見て、大いに若やいだとされています。

一方、ロバートはそんな女王を「愚かで卑しい老女」と思っていたとか。

彼の立場を考えれば致し方ないともいえますが、もうちょっと真心をこめて仕えてもよかったんじゃないですかね……。自分だっていつか年を取れば老けるんですし。

女王の立場からしても、老いさらばえている姿を晒すよりは、若々しい姿でいたほうが近臣や民衆からの評判が良くなりそうですよね。

もう少し後の話ですが、老いた後のエリザベス1世について、とあるフランス大使の日記に着飾りぶりや肌の美しさなどが記されており、外見に気を使っていたらしきことがわかります。

「歯がたくさん抜けてしまっていて、大きな声を出さないと何を言っているのかわからない」

とも書かれていますが……当時の医学では歯周病など口腔衛生については限界がありますし、それは女王だけの話ではなかったでしょう。

ともかく宮廷に入り込むことに成功したロバートは、武官として働くことになります。

エリザベス1世の治世下では、毎年11月17日に女王の即位記念日行事として馬上槍試合が行われていたそうで、ロバートは常連の演者でした。

女王もその華々しい演技に満足していたといいます。

馬上槍試合はときに死傷者が出ることもある荒っぽい競技ですから、それに何度も参加することで勇気や肝の据わりっぷりを示すこともできます。

若いロバートが自分をアピールするには絶好の機会でした。

また、ダドリーと共にネーデルラント(現在のオランダ)への遠征に参加したこともありました。

そして帰ってきてからは、この戦いで命を落とした貴族・シドニー卿の未亡人フランセスと結婚しています。

騎士道にのっとった行為として、この婚姻は賞賛されたといいます。ロバートは世間の目も味方につけようと考えていたのでしょうね。

フランセスとの間には三男二女に恵まれていますので、利益目当てだけではなさそうですが。

もしかすると、シドニー卿の生前からフランセスにあこがれていたのかもしれませんね。

騎士道物語では、「他人の妻である貴婦人」と「若い騎士」という組み合わせは鉄板ですし。

 


戦功を上げたくて頑張ったものの……

そんな感じで世間や女王へのアピールをし続けたロバートですが、軍人というのは大きな戦果を上げなければ出世できないものです。

その焦りが出始めた……と思われるのが、1589年4月からでした。

このときロバートは女王の許可を得ずにフランシス・ドレークのスペイン船・植民地襲撃に参加しました。

そうでもしないと借金を返せないほど、彼は浪費癖があったためです。

ネーデルラント遠征などでかなりの戦費を使っていた上に、借金を重ねていたというのですから、お財布の管理ができなさすぎじゃないですかね……。

しかしリスボンに着いてみると、門は固く閉ざされたまま。戦闘にすらならず、略奪で一財産築こうという目論見は見事に失敗しました。

リスボンは現代のポルトガルの首都ですが、当時はスペインに併合されていたため、スペインが攻撃される際はたびたび標的になっていました。

ロバートはこのとき、城門の前で

「一騎打ちに応じる者はいないか!」

と呼ばわったらしいのですが、本当に誰もいなかった……というか、反応がなかったとされています。つらい。

その場に居合わせた味方の兵や貴族たちも、さぞ気まずい空気になったことでしょう。

その後は別の場所で略奪を考えたものの、結果としてこの遠征は全くの不首尾に終わってしまい、女王のお叱りを受けています。

これはロバートよりもフランシスの目の付け所がマズかったからでしたが、ロバートに火の粉が降り注がなかったためか、彼との間に関する軋轢は伝わっていないようです。

この後ロバートは他の寵臣たちに粘着するようになるので、フランシスは幸運といえるかもしれません。

とはいえ、女王もロバートの収入を何とかしてやろうとは思っていました。

1590年、エリザベス1世は彼にワイン輸入税の独占権を与え、毎年の収入を増やしてやったのです。

これが結果として彼を増長させる一因になってしまうのですが……。

しかし、お金の問題は外部にはわかりにくいもの。

女王のお気に入りである彼のもとには、様々な人々が集まってくるようになります。

ロバートに気に入られれば女王へのパイプができ、役職の斡旋や税の優遇をしてもらえるかもしれない……というわけです。

ですが、ロバートはこれを「自分には人望がある」と勘違いしていたフシがあります。

もちろん、中には一個人としてのロバートを慕っていた人もいたでしょう。しかし、”女王の寵臣”という立場にある人に、個人的な感情だけで近寄ってくる人がどれほどいるでしょうか。

1591年、ロバートはリスボンでの失敗を埋め合わせるため、フランス・ルーアンへの遠征に志願しました。

当時のフランスはカトリックvsプロテスタント(フランスでは「ユグノー」)の争いと王位継承争いで揉めに揉めており、その最中で即位したアンリ4世がエリザベス1世に援軍を求めてきていたためです。

女王としては早々に手を引きたかったようですが、イングランドにとって対岸にあたるブルターニュをスペインが確保していたため、うかつに引けませんでした。

そこでアンリ4世が

「また兵出してくれない?」

と連絡してきた上、側近に

「ブルターニュのルーアンまでカトリック側に取られると、ウチにとってもキツイです」

と言われたため、女王はしぶしぶ承諾。

指揮官の人選に迷っていたところにロバートが名乗り出た……という感じでした。

こうしてロバートはルーアンへ向かいましたが、肝心のアンリ4世が別の場所で手一杯になっていてなかなか合流できず。

仕方がないのでロバートが少人数でアンリ4世のもとへ向かい、ルーアンでの合流を約束してもらいました。

しかしルーアンに戻ると赤痢やマラリアが流行っており、ロバートも罹患。

更に弟のウォルターが戦死……という、散々な状態になってしまいました。

この報告がロンドンに届くと、当然のことながら女王は激怒。

アンリ4世には抗議、ロバートには叱責の手紙を送りました。

「アンリ4世に会うためとはいえ、指揮官が勝手に戦場を離れるとは何事か」

「フランス軍と合流する前から攻撃を開始したのは無謀すぎる」

「軍を託したことを後悔している」

などなど、ぐうの音も出ない指摘だったようです。

とはいえ、そのまま放置することはできません。女王は追加で1000人の兵をロバートに与えました。

……が、戦死・病死・脱走が相次ぎ、1592年1月には半減してしまったとか。

これには女王も呆れ果て、ロバートを呼び戻して指揮官を別の人に変えています。そりゃそうだ。

ちなみに、その後のフランスはアンリ4世がカトリックに再び改宗したことで何とか収まりました。

彼はカトリック→プロテスタント→カトリックとコロコロ信仰を変えているのですが、やる本人もそれで受け入れるほうもどうなのよ? という気がしますね。

エリザベス1世が最初から援軍派兵に乗り気でなかったのも無理のない話です。

 

他の寵臣を敵視する……場合か???

こうして騎士としてはともかく、指揮官としての才覚はないことを証明したも同然のロバートでしたが、女王への手紙では

「なぜ陛下は私にこのような仕打ちをなさるのですか」

などと書いており、全く反省していませんでした。

周囲の人間からは

「これからは政治家としてやっていくべきだ」

と勧められ、そちらの道へ踏み出します。

この時点ではまだ彼にツキがありました。

同じように女王の寵愛を受けていたウォルター・ローリーが失脚したのです。

ウォルターのほうがロバートに比べると実績があり、外見だけでなく才覚も女王に愛されていたと思われます。

しかし女王の侍女と秘密結婚して子供を産ませていたことが発覚し、この時期は遠ざけられていました。

エリザベス1世は宮中の風紀を厳しく取り締まっていたため、親衛隊長を務めていたウォルターがこのようなことをやらかしたのが許せなかったのでしょう。

他にも老齢の高官が亡くなったり、国務長官の席が空いたりしていたため、ロバートはどうにかして政治の中枢に食い込もうと考えました。

そのために莫大な金を投じて私的な諜報機関を作っています。前述の通り、プライベートでも金遣いが荒いのに困ったものです。

デヴァルー家には止めてくれる人はいなかったんですかね……。

同時期に、後見者としてアントニー・ベーコンとフランシス・ベーコン兄弟も加わりました。

弟のフランシスは「知は力なり」で知られた哲学者でもあります。

ロバートも感謝していたのか、後々彼を重職につけようとするのですが……。

諜報機関のメンバーや後援者たちの薫陶もあってか、ロバートは少し落ち着きを見せていきました。

1593年には枢密院委員の一人になり、会議にも積極的に参加したそうです。

女王の寵愛も戻り、ロバートに役職の斡旋などをしてもらおうと考えた人々から人気を集めていきました。

日本には「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますが、このあたりからのロバートは真逆。

かつての育ての親ともいえるウィリアム・セシルや、その息子ロバート・セシルとは激しく対立し、一方で身分の低い者には優しく接したといいます。

この「上を敵視し下に人気がある」という点も、彼の末路に大きな影響を及ぼしていくことになります。

1593年4月、ロバートはフランシス・ベーコンを司法長官に推薦するが、女王に反対されて実現しませんでした。

司法次官のエドワード・コークという人のほうが年齢も経験も上であり、自然な人事であることから他の枢密院メンバーにも受け入れられたためです。

女王がその意志を示してもロバートはゴネ続け、司法長官が正式に決まるまでまる一年もかかってしまいました。

彼の末路を知っていると、この時点で「コイツがいると仕事が進まない」と判断しても良かったような気がします。

自分の推薦を女王が受け入れてくれなかったことに対し、ロバートは拗ねていましたが、この頃から次期イングランド王と目されていた人物にコンタクトを取り始めるなど、抜け目ないところもありました。

相手は、ときのスコットランド王ジェームズ6世。

イングランド王になったときにジェームズ”1世”となるのでややこしいのですが、イングランドには「ジェームズ」という名の王がそれまでいなかったことによります。

ちなみに、このとき繋がれたパイプは後々ロバートの政敵であるセシルにそっくりそのまま使われることになります。

ジェームズはロバート個人との繋がりというより、「イングランドとの繋がり」と認識していたのでしょうね。

ぶっちゃけた話、ロバートよりもセシルのほうが政治家として有能というか、比べるのが失礼という感じですし。

その後も「スペインと内通し、女王暗殺を企んだ」として女王の侍医ロデリゴ・ロペスを死に追いやったりしました。

当の女王はロペスを信頼しており、

「老人に罪を被せるとは!」

と激怒したこともあったのですが、最終的には女王が折れ、ロペスはロンドン塔へ行く羽目になってしまいました。

刑が決まったのは1594年2月でしたが、女王は執行のサインを三ヶ月も先延ばしにしていましたので、本当に気が進まなかったのでしょう。

とはいえ、裁判で決まったものを女王の一存で覆すことはできません。せめてもの温情として、未亡人となったロペスの妻が立ちゆくように、ロペスの財産は取り上げずそのままにしています。

これほどメチャクチャなことをしていたロバートが人気を保てたのは、当時のイングランドの社会情勢も影響しているようです。

不作→飢饉、病気の蔓延→病死者の続発、それらに伴う餓死者や自殺者の増加など、問題が山積みでした。

これにより税金も増え続けており、民衆はロバートを始めとした若い世代への期待が高まっていたのです。

現代でも似たようなことがありますね……。

また、アルマダの海戦の英雄フランシス・ドレークが1596年に亡くなり、私掠船を駆使してスペインの財産を奪う作戦が頓挫しかけたことも影響していたと思われます。

フランシスにも失敗はあったものの、成功時には数万ポンドの利益をもたらしていましたので、それがなくなったとなればかなりの痛手だったでしょう。

女王は同じくアルマダの海戦を指揮したチャールズ・ハワードとロバートに、来るべきスペインとの海戦に備えるよう命じました。

大きな戦争になればさらに戦費と人命がかかりますから、その前に叩いて出費と被害を減らそうというわけです。

しかしそうこうしている間に、フランス・カレーをスペイン海軍に占拠されてしまい、のんびりしているわけにはいかなくなりました。

また「スペインがアイルランドを占拠した後、イングランド攻略に乗り出そうとしている。今はカディスでその準備中である」という噂も。

これを受けて、女王はカディスを攻めて先手を打とうと考え、ロバートとチャールズに出航を命じました。

カディスではアルマダの海戦時のスペイン側指揮官メディナ・シドーニャがおり、

「町を攻めなければ対価として金を払う」

と交渉を持ちかけてきましたが、イングランド軍はこれをはねつけて攻撃。カディスを二週間に渡って略奪しました。

この際、ロバートは女子供に害を加えないようきつく命じたそうです。なぜそういった気遣いを政治や軍事上でもできないのでしょうかね……。

こうしてカディス攻めは成功したものの、帰国してみるとセシルが国務長官になっており、ロバートは歯噛みしました。

彼はこれを「自分のいない間に人事が進められた」と受け取り、憤慨したといいます。

女王からすれば、ロバートの意向を汲むより国のためになる人物を重用するのは当然のことなのですけれども。

いつの頃からか、彼の脳内では

「女王は自分に惚れ込んでいるので、自分の意見は必ず最後には容れられるし、そうであるべきだ」

ということになっていたようです。

思い上がりって怖いですね。

何十人も勝手に騎士を叙任して、女王の支出を増やしたこともジリジリと国庫を圧迫し、女王の不興を買いました。

もちろんたびたび叱責されていましたが、その度にロバートが拗ねて別荘に引きこもったりしたので、最終的に女王が折れる……というパターンを繰り返しています。

さらに、1597年のスペイン艦隊の港とアゾレス諸島への攻撃では、味方同士での仲違いも起こしました。

このときは前回に引き続きチャールズ、そしてウォルターがそれぞれ別の船に乗って参加しています。

しかし嵐ではぐれてしまい、一足早く島に着いたウォルターが戦果を上げたことでロバートは「抜け駆けしたのか!」と大激怒。

チャールズが間に入り、ウォルターも一歩引いたことでこの場は収まりました。

この後、女王の信頼を取り戻しつつあったウォルターのことを、ロバートは目の敵にし続けます。

 


ついに女王にキレられる

彼の過信は、1598年7月に爆発することになります。

この頃アイルランド総督だった人が亡くなっており、その後任を決めなければならなくなりました。

女王はロバートの母方の伯父であるウィリアム・ノリスを推したのですが、ロバートは

(伯父がアイルランドに行ってしまうと、自分の味方が減る)

と懸念し、セシル派のジョージ・カーリューを推薦しています。

女王がこれを却下すると、ロバートは子供のように拗ねて女王をにらみ、背を向けたといいます。

現代でも「子供か!」とツッコミたくなってしまう態度に、当然エリザベス1世も激怒。

「縛り首になりなさい!」

とまで言ったそうです。

しかもロバートはこれを聞いて反省するどころか

「陛下の父上からだとしても、このような侮辱は許せません!」

と言い返す始末。先に無礼を働いたのはどちらかと。

しかもこの言い方では、エリザベス1世からすると父を侮辱されたも同じです。

なんやかんやで複雑な感情を持っていたとは思いますが、臣下にこんなことを言われて気分が良い訳はありません。

ついでにいうと、ヘンリー8世だったら平手打ちの前にロバートをロンドン塔へ送るか、自ら拳を振るうかしていたでしょうね。

ヘンリー8世は体格に恵まれたことでも知られていますから、後者の場合はこの時点でロバートの命や健康が危ぶまれたことでしょう。

このときもロバートは自分の屋敷に引きこもって言い分を通そうとしましたが、そうは問屋が卸しません。

ここでロバートへ「女王に従うべきだ」と諌めてくれる人もいたのですが、ロバートはその人にも反抗的な態度を取り、さらに女王に対しての手紙でも

「ご自身の女性としての名誉をご自分で傷つけた」

というふざけた文言を大真面目に書いています。

本人に自覚があったのかどうかわかりませんが、彼の根底には

「例え君主であっても、女性は男性に従うべき」

という固定観念があったのでしょう。

男女の差を超えて君主として振る舞い続けてきたエリザベス1世にとって、これほどの侮辱はありません。

ロバートは、自らの立場が女王の寛容さと聡明さの上で成り立っていることを全く理解していなかったのです。

この件があった翌月の1598年8月、女王の忠臣であり、ロバートの若い頃の後見者でもあったウィリアム・セシルが老齢によって亡くなりました。

これによって重職の後見人庁長官の座が空いたため、ロバートはウィリアムの葬儀に出席し、存在をアピールして後釜に座ろうとします。

しかし反省の色が見えないので、女王はこれを許しませんでした。

ロバートも棺の中で悲しんだり怒ったりしたことでしょう。

それから間もなく「アイルランドの反乱軍が鎮圧に来ていたイングランド軍を破った」という知らせが届きました。

イングランド軍は指揮官のヘンリー・ベーグナル以下2000人もの死者が出たほどの大負けっぷり。

これを聞いたロバートは、同年9月にアイルランド総督に名乗りを上げて反乱を収め、返り咲こうと考えました。

このときも女王はチャールズ・ブローントという別の人を任命しようと考えていたので、ロバートが横槍を入れてきた形になります。

ブローントはロバートの副官として戦場に立ったこともあり、ロバートほど身勝手なところはなく、女王に信頼されていました。

しかしロバートからすると、部下に追い抜かれたような形にもなるわけで、異論を唱えたくなる気持ちもわからなくはありません。

結局これについても女王が折れ、ロバートをアイルランド総督に任じました。

しかしそうなると彼は

「自分がアイルランドを離れることで、ロンドンに居る政敵が自分を陥れようとするのでは」

と不安に駆られました。勝手すぎやしませんかね……。

女王はもしかすると、ロバートがそう思うであろうことを見越して、

「旧知の仲であるブローントならば、ロバートも納得するだろう」

と考えていたのかもしれません。

誰かがこの点についてフォローしてくれればよかったのですが、結果としてこのアイルランド行きがロバートを末路を決めることになります。

 

命令を聞かないのに保身には必死って……

ロバートは美々しい行列でロンドンを出発しました。

アイルランドでは1599年5月には城を一つ落とし、反乱軍を捕えて処刑するなど功績を上げたものの、点在する湿地や森によって騎馬隊の進軍が遅れ、思ったようには行きませんでした。

また「セシルが後見人庁長官の座についた」という知らせが届き、不満を覚えたロバートは女王に対し長々と愚痴を書き連ねた手紙を送りつけました。

主に女王への忠誠を訴える内容だが、ウォルター・ローリーなどの名前を上げて

「あのような者たちが陛下の信頼と寵愛を受けていることについて、真の忠臣は嘆いていないでしょうか」

と、自分のことを棚に上げて他の人々を罵る始末。

この手紙について女王は取り合いませんでしたが、そうこうしているうちに同年7月には再度アイルランドで反乱が発生。

それを知った女王はロバートへ

「なぜもっと早く行動を起こさなかったのか?そなたを遠征させるために莫大な税金がかかっているのだ。そなたの美辞麗句にはつきあっていられない」

と、厳しい手紙を送っています。

更に後日の手紙では、

「反乱の首謀者であるティローン伯爵ヒュー・オニールを成敗するまで、アイルランドを離れてはならない」

と厳命しました。

ロバートはこの命令には従おうとしたものの、ヒュー・オニールはこれまでにも”休戦協定を交わし、ほとぼりが冷めた頃にまた反乱を起こす”というやり方を繰り返していた古狸です。

ロバートはすっかり化かされて、女王の許可なしで休戦を約束してしまいました。

さらに、部下の機嫌を取るためか、何もうまくいっていないにもかかわらず、またしても騎士叙任を大量に行っていました。

なんで一度怒られたことをまたやろうと思うんですかね……。

これまた当然のことながら女王は激怒。

「そなたのやったことは時間と金と人命を浪費しただけではないか!ティローン伯爵の息の根を止めるのが何よりも先決だったのに」

と叱責の手紙が届きました。

何もかも正論過ぎてぐうの音も出ません。

ロバートはこれに対し、女王の望みとは真逆の行動で挽回しようとしました。

わずかな側近を連れてロンドンに帰り、女王に直接言明しようとしたのです。

勝手なことをし続けているからここまで怒られているというのに、なぜさらに責任を放棄しようとするんですかね……。

誰か止めてやれよ。

9月24日にダブリンを出発し、夜を日に継いで急いだロバートは、28日の朝に女王の滞在していたサリー州ノンサッチ宮殿に到着。

午前10時頃に泥まみれの旅装のまま、まだ身支度もしていない女王の寝室に突撃して弁明を始めたといいます。

女王は当然ながら驚きましたが、平静を装って応対しました。

おそらく「興奮させたままだと何をしでかすかわからない」と考えたのでしょう。

ロバートにひとしきり話をさせ、落ち着いたところで「お互いに身支度をしてからまた話しましょう」と言って下がらせたといいます。女王マジ女王。

もちろん、改めて報告を聞いた後の女王は激怒しました。

このときエリザベス1世は御年65歳なのですが、この歳でこんなに怒らされていて、よく血管がプッツンしなかったな……と思ってしまいますね。

無断でアイルランドを離れ、兵を置き去りにしてきたロバートを厳しく叱責し、

「枢密院委員たちに申し開きをするように」

と命じました。

そちらでもやはり無断で戦地を離れたことを始めとして、これまで勝手にやってきたことの多くが問題視されました。

そして同じく28日の夜、女王はロバートに蟄居を命じました。

枢密院委員たちはロバートの行状を報告し、女王は処遇をどうすべきかしばらく考えることにします。

おそらくこれが最後の温情だったでしょう。

1599年10月、ロバートはたった二人の従者だけを連れて監禁され、翌11月には枢密院委員たちから正式に告訴されました。

心痛のためかロバートは病になっていたといいます。自業自得なんですけどね……。

しかし、詳しい事情を知らない民衆はロバートの味方でした。

「セシルが女王にロバートの悪口を吹き込んでいるんだ!」

と思い込んで、この件に関与していないセシルの悪口を宮殿の壁に書くなど、激しいバッシングが起きたといいます。

嫌なことですが、何百年経っても変わらないですね。

年が明けて1600年1月にロバートは回復したものの、状況は良くなっていませんでした。

6月にロバートは全ての役職を解かれ、自宅で謹慎するよう命じられます。

この間、ロバートは女王に切々と心情を訴える手紙を書いたが、

既に女王は彼を見放していました。遅すぎる気もしますが、女王としてもいろいろと葛藤したことでしょう。

なぜかというと、以前ロバートに与えていたワインの輸入税独占権の期限が迫っているタイミングだったからです。

つまりはお金欲しさにおべっかを使っているも同然なわけで、それを見抜けない女王ではありませんでした。

同年7月、女王は「今後、ワインの利得権は王室に属するものとする」と宣言し、ロバートの権益を取り上げると表明。

ロバートは大きな衝撃を受けました。

 


こうなったらクーデターだ!→大失敗

一定以上の地位を持つ人間が追い詰められた場合、取る手段はだいたい四つに絞られます。

難易度が低そうな順に挙げると

・子供に家を譲って隠居する

・俗世を捨てて聖職者になる

・自ら命を絶つ

・イチかバチかで反乱を起こす

こんな感じでしょうか。

上2つをセットでやることもままありますね。

ロバートは、最後の手段を取りました。

密かにクーデター計画を練り始め、

女王を拘束し、

セシルやウォルター・ローリーなど(ロバートにとっての)君側の奸を弾劾・追放し、

ロバートの支持者を重職につけ、ロバートも復権する

という作戦を立てます。

傍から見ると「そんなうまくいくわけないやろ」とツッコミたくなってしまいますが、ロバートのそばにはそういう人はいなかったようです。

1601年の1月末にこの計画が決まり、2月始めになると、ロバート派の貴族たちがシェイクスピアの「リチャード2世」を全編演じさせるという不穏な動きを見せました。

リチャード2世は14世紀のイングランド王で、失政によってクーデターを起こされ、廃位された人物です。

その人を題材にした劇ですから……まあ、そういうことです。劇団側が嫌がったのを無理やりやらせたそうで、やらされたほうが実に気の毒ですね。

罪に問われているロバートに近い人物がこのような物騒な劇を演じさせたことで、当然枢密院委員たちは警戒し、ロバートを出頭させようとしました。

しかしロバートは病気を言い訳にして出てきません。これでは自白しているも同然ですよね。

さらに「ウォルターたちが自分を暗殺しようとしている」と言って、武装した支持者たちを自分の屋敷に集めました。

これについて2月8日に女王から枢密院委員を派遣されて問い詰められましたが、ロバートは彼らを拘束しクーデターを決行。

貴族たちからはいくらかの支持を集めており、ロンドン市長からは援軍も約束してもらっていたため、自信があったのでしょう。

この人、根拠がないときほど何故か確信して動くんですよね。

しかしロバートたちがロンドン市内へ行進を始め、市民たちへ加勢を呼びかけても、全く反応がありませんでした。

市民たちからすると

「病気で臥せっているはずのロバートが何故か突然、物騒な集団を率いて喚きながら行進している」

といったように見えたでしょうから、困惑するのも無理はありません。

ロバートには

「自分の言動が他人にどう見えるのか?」

という疑問が全く浮かばず、

「自分は人気があるから、皆は協力するに違いない」

といった自信だけがあったのでしょう。

ロバートは動揺し、それが協力者たちにも伝わって、逃げ出す者も現れました。

ロンドン市長も援軍を取りやめ、姿をくらましてしまいました。

失敗を悟ったロバートたちは屋敷に帰ったものの、夕方には軍によって包囲され、降伏せざるを得なくなります。

こうしてクーデター未遂騒動はたった12時間で終わりました。

ロバートは2月19日に裁判にかけられ、大逆罪との判決が下り、ロンドン塔行に収監されました。

収監中に元家庭教師のジョン・オーバーオールが面会に訪れ、

「告解をしなければ、死んだ後地獄の業火にさらされるでしょう」

と告げたのをきっかけに、泣き叫びながら後悔の念を口にしたそうです。

女王も事ここに至ってはかばう気にもならず、即座に執行命令へサインしたといいます。

そして1601年2月25日、ロバートは処刑されました。享年34。

斬首の直前にも自らの罪を反省する言を多く残し、女王と側近に神の加護があることを祈っていたそうです。

もっと早く気付いていれば、大逆罪にまで行くことはなかったでしょうにね。

自業自得といえばそれまでですけれども、ロバートの行動には少々年齢に見合わないような幼稚さが目立つようにも思えます。

父を早くに亡くして、「貴族とはこうあるべし」と教わることができなかったからなのか、彼自身の持って生まれた性質によるものなのか、それとも女王が甘やかしすぎたからなのか……。

経済的な地盤が弱かったことや、周囲に諫言してくれる家臣がいなかったことなど、不運の類も絡んではいますけれども。

その後エリザベス1世が崩御し、1604年になるとロバートの同名の息子に爵位や財産が与え直され、家の名誉は回復されました。

息子のほうのロバートは、のちの清教徒革命で議会軍総司令官になっています。

しかし、処刑された時点での年齢を考えると、1604年時点でもロバートは生きていられたはずです。

前述の通り、既にジェームズ1世ともパイプを作っていたのですから、ロバートが目の敵にしていたウォルター・ローリーのように、無茶苦茶な理由で処刑されることも(おそらく)なかったでしょう。

寵愛を出世の緒(いとぐち)にするところまではよかったものの、自分の足で歩けていなかったことが彼の最大の欠点だったのでしょうね。

長月 七紀・記

【参考】
石井 美樹子『エリザベス: 華麗なる孤独』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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