イギリス

英国の自爆貴族ロバート・デヴァルー! エリザベス女王おきにのイケメンが痛過ぎて……ロンドン塔

 

誰かに気に入られる・好意を向けられることは、基本的にはいいことですよね。セクハラやその他ゲスい感情が混じっていなければ。
しかし、気に入られた側が下心を持つ場合もあります。それをうまく隠して行動できれば、政治や軍事の世界ではノシ上がるもできますから。
今回は君主の寵愛を受け、自らを御しきれなくなって破滅へ進んだ、とある貴族のお話をご紹介します。

1566年(日本では戦国時代・永禄九年)11月10日は、イギリスの貴族ロバート・デヴァルーが誕生した日です。
昨日から2日続けてイギリスネタであることに深い意味はありません(`・ω・´)

ロバート/wikipediaより引用

ロバート/wikipediaより引用

 


生まれながらに莫大な借金を相続させられる

この頃、イギリス(イングランド)はエリザベス1世の時代でした。
最近「歴史を横の軸で見てみよう」というテーマの本もちょくちょく見かけるので、ご存じの方も多いかと思うのですが、日本の戦国時代=イギリスではエリザベス1世の時代――って何度聞いても意外じゃありません?
出世や失脚の一因に「君主の感情」が大きく左右するという点も、時代的によくある話。ロバートが出世し、そして非業の死を遂げることになるのも、エリザベス1世との関係が大きく影響していました。

ロバートは、イングランドの由緒正しい貴族の長男として生まれました。
母方の曾祖母は、エリザベス1世の母アン・ブーリンの姉メアリーですから、女王とは親戚同士でもあります。
父親がアイルランドの反乱鎮圧で出征中に亡くなったため、10歳の幼さで爵位と領地を受け継ぐことになりました。洋の東西を問わず、なぜどこのお偉いさんも10歳前後の子供を残して都合よく病死するのでしょうか。あれれ~おかしいぞ~?
しかもロバートの場合、父親がアイルランド出征で莫大な借金をしていたため、それも相続せざるを得なくなります。「イングランドで一番貧しい伯爵」とまで呼ばれたそうです。ひでえ。

さすがに10歳の子供と借金を放置しておくわけにもいかず、ときの宰相ウィリアム・セシルが自らの屋敷に引き取り、自分の息子ロバート・セシルと共に育てることになりました。ちなみに、後々セシル親子とロバートは政敵になります。世知辛い世の中です。

 


エリザベス1世の寵愛を得るために宮廷デビュー

とはいえ若いうちはそんな力もありませんので、ロバートもしばらくは大人しく育てられていました。ケンブリッジ大学で学んだり、郊外の町で暮らしてみたり、貴族らしい生活も送っています。
一方、母は、エリザベス1世の寵臣であるロバート・ダドリーと再婚。彼の縁により、18歳でロバートは宮廷デビューすることになります。
どうでもいいですが、この時代に“ロバート”って名前がよほど流行ってたんですかね。この記事だけで同名の別人が三人いるなんて、書きづらいことこの上ないのですが(´・ω・`)

宮廷デビューは出世のためでもありましたが、エリザベス1世の寵愛を得ることが最大の目的でした。そうすれば何かと支援を受けられ、父の借金を返すことができると考えたからです。
ロバートは長身の美男だったため、それを武器にしようと思ったのでしょう。ちなみに、エリザベス1世はこの頃51歳です。若いツバメというやつですね。時代が前後しますが。

エリザベス1世は若い美男子を見て大いに若やいだそうです。一方、ロバートはそんな女王を「愚かで卑しい老女」と思っていたとか。完全にお金目当てだったんですね。
彼の立場を考えれば致し方ないともいえますが、もうちょっと真心をこめて仕えてもよかったんじゃないですかね……。自分だっていつか年を取れば老けるんですし。

ともかく宮廷に入り込むことに成功した彼は、武官として働くことになります。
ダドリーと共にネーデルラント(現在のオランダ)に遠征し、帰ってきてからこの戦いで命を落とした貴族の未亡人フランセスと結婚。
騎士道にのっとった行為として、この婚姻は賞賛されたといいます。ロバートは世間の目も味方につけようと考えていたのでしょうね。

 


軍事的な失敗を繰り返し、さすがに女王に叱られて

エリザベス1世からの寵愛も高まり、外出には常にロバートを連れ歩き、舞踏会では他の男性と踊らなくなるほどだったそうです。よほどのお気に入りだったことが伺えます。

“多くの愛人を持った女性の君主”というと、他にはロシアのエカチェリーナ2世がいますが、彼女とエリザベス1世は愛人の扱いがかなり違っていました。
エカチェリーナ2世は愛人に振り回されるよりも振り回すタイプでしたが、エリザベス1世は真逆で、特にロバートのことはかなり甘やかしています。

宮殿に部屋を与えたり、収入を上げてやったり、意向に逆らっても許してやったり……これが子育てであれば、確実にダメ人間が出来上がること間違いなしな態度でした。
こうなるとロバートのほうが「この寵愛がなくなったら、自分はどうなるか」という懸念を抱いても良さそうなものですけれども、彼にはそういう視点がほとんどなかったようです。

そんな油断からか、軍事的な失敗も続きます。
当時スペイン領だったポルトガルや、ユグノー戦争中のフランスへの遠征で失敗し、女王の怒りを買っています。
いかにエリザベス1世が愛人に甘くても、戦争の失敗までは許せませんでした。

この時点ではまだ、ロバートに忠告してくれる人もいました。
彼らの言を容れて、ロバートは軍人から政治家への転身を図ります。ここから育ての親であるウィリアム・セシルとその息子ロバートの二人と対立していきました。

エリザベス女王1世/wikipediaより引用

エリザベス女王1世/wikipediaより引用

 

汚い手を使って政敵をハメても国民からの人気は厚く……

ロバートの周りには哲学者として有名なフランシス・ベーコンなど、セシル親子に排除された人々が集うようになり、一大派閥を作り上げます。
そしてそれに応えるため、派閥に属する人々を高い職につけることに執着しました。
しかし、そう簡単にはいきません。

まずセシル親子の力を削ぐために、侍医のロドリゴ・ロペスに女王暗殺容疑の罪を着せて有罪に追い込み、処刑させています。この経緯がまたひどいものです。
ロペスは長く女王に仕えてきていたので、セシル親子も女王も当初は冤罪と考えていました。それなのに、ロバートの説得に負けて、エリザベス1世はロペスの取り調べを許してしまったのです。

ロバートは女王の了解を取り付けたこと、ロペスがユダヤ系であったことから世論が味方したことを受け、拷問によって嘘の自白をさせ、処刑に追い込んだとか。
この時代だからしょうがないといえばしょうがないのですが、政治に私情を持ち込むとロクなことがないんですよね。そのときはよくても、何十年かしてから倍以上になって跳ね返ってくることも多いですし。

実際、ロバートの場合も、そんな感じでした。
一時は対スペイン戦争で勝ち、「女子供と教会に乱暴をしないように」と命じたことで、国民からの人気は絶大になりました。
しかし、これはヘタをするとエリザベス1世の人気を損ねることにもなります。女王にとっては、利益よりも出費のほうが大きいことや、ロバートたちが新しく64人も騎士に叙任したことなども不満でした。

 


女王「縛り首になりなさい!」→ロバート、剣に手をかける(ノ∀`)アチャー

そういった空気は臣下にも伝わり、スペインとの戦争が長引く中で、再びセシル親子とロバートの対立が深まります。

前者は和平派、後者は継戦派。
ナポレオンなどにもあてはまりますが、戦争で人気を得た者は、戦争に勝ち続けることによってその位置を保たねばなりません。ロバートもそのように考え、スペインとの戦争を続けるべきだとしました。これまた国のことや国民のことではなく、自分のことが最優先だったんですね。

一方、政治家であるセシル親子は、そうは思いません。得られるものが少ない戦争など金と人の無駄遣い、と考え「フランスがスペインと講和したから、我が国も同調すべきです」と主張したのです。

最終的にはロバートら継戦派の意見が通ったものの、この一件と同じ年に、ロバートは女王の機嫌を徹底的に損ねてしまいます。
エリザベス1世は、反乱の続くアイルランド総督にロバートの叔父であるウィリアム・ノリスを任じようとしました。しかしロバートは「叔父がアイルランドに行ってしまったら、宮廷で自分に味方してくれる人が減る」ことを嫌がり、別の人を推します。
女王はあくまでノリスを任じるつもりでしたので、ロバートの意見を笑って流そうとしました。
しかし、それに対しロバートはあろうことか、主君に対して侮るような目つきを向けた上、後ろを向いてしまったのです。

礼儀がだいぶ緩んできた現代だって、こんなことをしたらその後のことは保証できないですよね。
まして儀礼にうるさい16世紀のことです。エリザベス1世が激怒するのも当然のことでした。女王はロバートに平手打ちを浴びせ、「縛り首になりなさい!」とまで言ったそうです。
日頃、陰で女王を侮っていたロバートは、これに対してついに本音が行動に出ます。エリザベス1世に対して、剣に手をかけてしまったのです。

 

「馬鹿な大将、敵より怖い」

そのときは他の貴族が間に入って事なきを得ましたが、この一件によって、ロバートはエリザベス1世の寵愛を急速に失っていきます。彼は自分の立場が「女王の寵愛だけ」で成り立っていることが理解できていなかったのです。
剣に手をかけたときも、「たとえ陛下の父君(ヘンリー8世)からだったとしても、このような侮辱と無礼は許せません!」とまで言っていたとか。先に無礼を働いたのはどちらかと。

でも、こういうことを言うからには、“エリザベス1世が女性だから侮っていた”という面が強いのでしょうね。例え女王が自分と同世代で完璧な人であっても、女性だからというだけで同じような態度を取ったでしょう。
ついでにいえば、そういう人ほど同性の目上には決定的に弱かったりしますよね。あーやだやだ。

宮廷での居心地が悪くなったロバートは、単純に「また戦で手柄を立てれば、元の立場に戻れるだろう」と考えました。そこで、アイルランドの反乱を鎮圧するため、同地の総特色に任じてもらおうとします。

エリザベス1世は別の人を就けようと考えていましたが、ロバートのゴリ押しによって渋々意見を変え、ロバートをアイルランド総督に任命。
しかし、ロバートは予定を変更して無駄な戦闘を繰り返し、兵と金を浪費してしまいます。当然、女王からはお叱りの手紙が届き、「即刻アルスター(アイルランド北部のこと)に向かい、反乱を鎮圧しなさい!」と厳命されました。

出立したときには2万弱いた兵が、このとき4000人にまで減っていました。アイルランドにやってきてから、まだわずか4ヶ月。逃亡兵もいたでしょうが、それでも1万人程度は戦死したことになりますよね。
「馬鹿な大将、敵より怖い」とはよくいったものです。

 


女王の身支度中に押し入るほど追い詰められて

こんな調子では反乱軍に勝てる見込みはなく、考えあぐねているところにたまたま反乱軍から「和議を結びませんか」と言ってきました。
本来は女王にお伺いをたてなければならない場面です。しかし切羽詰まっていたロバートは、独断でこれに応じてしまいます。さらに、部下の機嫌を取るためか、何もうまくいっていないにも関わらず、またしても騎士叙任を大量に行っていました。
なんで一度怒られたことをまたやろうと思うのかなぁ。

かくしてエリザベス1世から再びお叱りの手紙が届きます。ロバートは直接弁明するしかないと考え、ごく僅かな側近とともに、兵を置いてロンドンへ帰りました。
誰も諌めてくれないあたりが、日頃彼にどんな目が向けられていたかを如実に表していますね。

ここでロバートは焦りすぎたのでしょうか。エリザベス1世の身支度中に押し入るという無礼を披露しています。女王は「暗殺者かと思った」そうです。そりゃあな。
そして勢いで膝をつき、弁明を始めたといいますから、相当、混乱していたのでしょう。ようやく危険はないと判断できたエリザベス1世は、まずは優しく話しかけて落ち着かせ、「お互い身支度をしてから話しましょう」と告げたそうです。この辺はさすが君主という感じですね。

同じ日に二人は再び顔を合わせ、女王は落ち着いて報告を聞きました。
しかし、無断でアイルランドを離れたこと、兵を置き去りにしてきたことがやはり怒りを買います。ロバートは自宅謹慎と取り調べを受けることを命じられました。

翌日、枢密院(国王の諮問機関)に呼ばれ、ロバートは5時間もの審問を受けます。ここでもやはり無断で戦地を離れたことを始めとして、これまで勝手にやってきたことの多くが問題視されました。
約一ヶ月後には裁判まで起こされています。そのショックなのでしょう、直後に寝込んでしまい、しばらくは処罰を免れました。

むろん、だからと言ってお咎めなしとはなりません。体調の回復後は官職の剥奪と自宅謹慎が言いつけられ、このときまで許されていたワイン輸入税独占権も取り上げられてしまいます。
この頃ロバートは40歳を超えていましたが、未だに借金だらけで、ワイン輸入税独占権をロンドンの商人組合に又貸しすることで破産を免れていました。女王はそれを承知で、ロバートの経済的困窮を防ぐために黙認していたのです。

そしてそれを取り上げるということは、エリザベス1世が完全にロバートを見捨てたも同然でした。

 

「死んだ後地獄の業火にさらされるでしょう」

一定以上の人間が追い詰められた場合、取る手段はだいたい三つに絞られます。
俗世を捨てて聖職者になるか、自ら命を絶つか、イチかバチかで反乱を起こすかです。

ロバートは、最後の手段を取りました。というのも、ロバートの国民からの人気は未だ高く、「エセックス伯(ロバートの爵位)はセシルのワナに賭けられたんだ!」とする世論が高まっていました。
そのため、ロバートは「クーデターを起こせば市民は味方になってくれるし、それを見たら貴族たちだってこっちにつくだろう」と考えます。そして自分の派閥に属する貴族たちを集め、“エリザベス1世を拘束した上で政敵を追放し、自分たちが要職に就く”という計画を立てました。

が、これは即座にバレ、逆にロバートが謀反人として兵を差し向けられます。
市民も貴族も味方につかないことを悟ったロバートは、自分の屋敷に引きこもり、証拠になりそうな書類を焼いてから投降しました。
やることがこすっからいというか、何というか……。

こうして自ら罪を犯したロバートは、裁判にかけられて大逆罪による死刑が決まります。
そして「入ったら行きて出てくることはできない」ことで有名なロンドン塔にしばらく囚われました。収監中に元家庭教師のジョン・オーバーオールが面会に訪れ、「告解をしなければ、死んだ後地獄の業火にさらされるでしょう」と告げたのをきっかけに、泣き叫びながら後悔の念を口にしたそうです。

斬首の直前にも自らの罪を反省する言を多く残し、女王と側近に神の加護があることを祈っていたといいます。
もっと早く気付いていれば、大逆罪にまで行くことはなかったでしょうにね。

自業自得といえばそれまでですけれども、ロバートの行動には少々年齢に見合わないような幼稚さが目立つようにも思えます。
父を早くに亡くして、「貴族とはこうあるべし」と教わることができなかったからなのか、彼自身の持って生まれた性質によるものなのか、それとも女王が甘やかしすぎたからなのか……。

政敵が積極的に彼をハメたわけでもないので、何とも残念な話です。

長月 七紀・記

参考:ロバート・デヴァルー_(第2代エセックス伯)/wikipedia


 



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