犠牲なくして変革なし――。
日本史でも世界史でも、全く血の流れない革命は滅多にありません。
1689年(元禄二年)2月13日に終結したイギリスの名誉革命は、確かに”無血”ですが、その後のことも考えるとやっぱり一筋縄ではいきません。
前後の事情は結構エグいものでした。
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五行でわかる15~17世紀のイングランド
まずは大まかな流れを先に出しておきましょう。
世界史の例によって、この革命だけ見ようとすると同名の人物が出てくる時点でワケワカメになります、
現在の「イギリス」という枠組みができていなかった頃の話なので、以下ロンドンを中心とした「イングランド」表記でいきますね。
①ヘンリー8世(エリザベス女王のパパ)が離婚をしたいカトリック(本来は禁止)のために宗教を変え、国教会(プロテスタント)を作る
↓
②超過激派カトリック・メアリー1世(エリザベス女王の異母姉)がプロテスタントをブッコロしまくる
↓
③エリザベス女王、国全体をプロテスタント主義に
↓
④清教徒革命(ピューリタン=イギリス国教会の一派 vs カトリック・イングランド王家)
↓
⑤名誉革命 ←今日ここ
かなりザックリですが、まぁ、全体の流れということで。
詳細を知りたい方は、本稿を機に色々とお調べいただければ幸いです。これでも高校のテストくらいは大丈夫かなぁと。
カトリックかプロテスタントか…で内部分裂
そろそろ本題に入りましょう。
上記の通り、根幹となる原因は
【奥さんを変えまくった】
ことで有名なヘンリー8世です。
いつでもどこでも、国の宗教を変えるとなるとゴタゴタは避けられません。
しかも理由が酷い。
「カトリックだと離婚できない?なら改宗したるわ! オレ様が教会的にも一番!!」(暴訳)
こんな調子じゃ、王様が良くても国民は追いつけません。
特にスコットランドやアイルランドは元々個別の歴史や王家を持っていた上「イングランドに従うなんてイヤに決まってんだろボケナス!」というスタンスでしたので、当然宗教を変えるのも大反対。
イングランド側でも「まあまあ両方とも落ち着け。なんとかうまくやろう」という穏健派の王様はいましたが、その人が退場した後、清教徒革命の際オリバー・クロムウェルという超過激派が出てきたせいで結局力づくになってしまいました。
ちょっと前までアイルランドでテロがぽつぽつ起きてのは、クロムウェルから始まるイングランドの暴政・暴力のせいです。
もうちょっと後で起きたジャガイモ飢饉への対応とか。
王様がいた方が落ち着く でも、絶対王政はイラネ
ここまでで既にかなりゴタゴタしていますが、さらにややこしい要素が加わります。
清教徒革命は「王様廃止!共和制(だいたい民主主義)バンザイ!」という目的もありましたので、実はここで一旦イングランド王家は廃止されているのです。
当時の王様・チャールズ1世は斬首刑。
これでもうイングランドに王族が復帰することはないと思われました。
しかし……。
調子に乗ったクロムウェルが独裁を始めてしまったため、当然ながらかなりの反感を食らいました。
死後に墓を暴かれた上に首を……という死体に鞭打つどころか斬首刑になったほどです。
そして「やっぱ王政が落ち着くよね」ということで、亡命していたチャールズ2世(1世の息子)が王位に就きました。
その後は何事もなかったかのように王家が続きました……といいたいところですが、残念ながら名誉革命の話はここからやっと始まります。
というのも、一度共和制になりかけたことによって、貴族や民衆の中に
「王様はいたほうがいいけど、絶対王政っておかしくね?」
という考え方が生まれていたからです。
チャールズ2世にしてみりゃ、そんな話は到底受け入れがたい。
なんせ命からがら戻ってきてやっと王様になれたのですから、そう簡単に権力を手放そうとはしませんでした。
英と仏で宗教的に真逆のことが起きていた
両者の間にくすぶった火種は、チャールズ2世の弟・ジェームズ2世が即位してからついに爆発します。
この“2世”がつく兄弟二人。
大陸へ亡命していた間にすっかりカトリック派になっていたので、政治のやり方もまずければ、宗教的にもイングランド人には気に食わないという最悪のコンボをキメてしまいました。
ちなみにこの頃、大陸側のフランスでは太陽王・ルイ14世の時代で、ユグノー(プロテスタントのフランス人たち)を大迫害中です。
命からがら逃げ延びたユグノーたちは、海を渡ってイングランドへ亡命しています。
つまり、イングランドとフランスで宗教的には真逆の現象が起きていたのです。
こんなとこまで仲悪いんか~い。
決定打は、ジェームズ2世でした。
国教会側からの「ここはイングランドなんですから、陛下もプロテスタントになってくださいよ」というお願いに対し「やーなこった! お前ら全員逮捕!!」という暴挙に出たのです。
これにより「アイツ、イングランドに馴染む気なんかないぜ! きっとフランスを呼び込んで俺たちを迫害する気だ!!」と怒りを燃やした貴族たちは、ついに行動を起こします。
目的は二つです。
ジェームズ2世を追い出すことと、新たにイングランド王にふさわしい=プロテスタントの高貴な人物を連れてくること。
新しい王様候補を予め決めておかないと、またクロムウェルのように調子に乗るヤツが出てきかねませんからね。
ウィレム3世なら血筋も信仰も問題ナッシング
白羽の矢が立ったのは、ウィレム3世という人物でした。
この人はジェームズ2世のお姉さんがオランダに嫁いで産んだ子供です。
もっとも、名誉革命の時には30代後半の立派な大人で、奥さんはジェームズ2世の娘(いとこ同士での結婚)というなかなかに複雑な家庭事情でもありました。
当時はオランダ総督(王様っぽい軍人みたいなもの)をやっていて、あっちこっちの国と外交戦略をしつつ、フランスとはドンパチをこなしていた器用な人でした。
血筋と配偶者的にも申し分なく、信仰もプロテスタントということでまさにうってつけの人物だったのです。
この人に王様をやってもらうため、イングランドの貴族達は連絡を取ります。
海を越えてまで即位してくれるかどうかは賭けだったと思いますが、ウィレム3世は地元オランダの安全を確かめると、(腹に一物隠しつつ)快くこれに応じてくれました。
そしてウィレム3世はジェームズ2世を追い出し、英語風の発音であるウィリアム3世としてイングランド王になります。
ウィリアム3世はオランダでの権力を持ち続けたままの即位でしたので、ヘタをすればまた反感を食らう可能性がありました。
しかし、彼は見事な機転でこれをかわします。
やり手のウィレム3世
機転とは他でもありません。
奥さんを共同統治者・メアリー2世として同時に即位させたのです。
彼女はジェームズ2世の娘ですから、父親の王位を継ぐ形になり、何の問題もありません。
たとえ名ばかりだったとしても、その旦那であるウィリアム3世が権力を持つことはおかしくないということになります。
正確に言えば丸め込んだんですけどゲフンゲフン。
もともと「こういう条件でウチの王様をやってください」という話になっていたのか、この王様夫婦は貴族たち=議会ともうまくやっていきます。
当時(も今も?)最先端の考えである立憲君主制を受け入れたのです。
教科書的な言い方をすると「権利の章典へサインした」となります。
死人がでないだけで「名誉」とかハードル低すぎ?
こうして直接的な死者を出さずに終わったので”名誉”革命と呼ばれているのです。
ただし、この一件で新たな騒乱の種もまかれてしまっていました。
権利の章典の中に
【王位継承者はカトリック、ダメ絶対】
と書かれたのです。
そりゃあここまでカトリックvsプロテスタントでゴタゴタしたのですから、当たり前といえば当たり前ではあるものの、王家でダメなものが民衆にはおkというわけにはいかないですよね。
というわけで、名誉革命の終結は
「イングランドはこれからずっとカトリック反対!スコットランドとアイルランドも例外じゃないからね!」
という方針を確定してしまったという面もあるのです。
この後の話も少しだけ触れておきましょう。
命拾いしたジェームズ2世はフランスに亡命し、その後、ルイ14世の支援を受けてアイルランドへ上陸。
往生際の悪いことに、そこで「カトリックこそ至高!お前らついてこい!」と一旗挙げてしまったためもう一度ドンパチが起きています。
ですので、名誉革命をどこで終わりととらえるかで【流血の有無】が分かれてしまうんですね。
ほとんどの場合、
「ウィリアム3世及びメアリー2世の即位をもって名誉革命終結」
としているので、一応無血といっていいことにはなっています。
にしても外から見ると実にややこしく後味の悪い話です。
同時代の日本がいかに平和だったか。よくわかりますね。
長月 七紀・記
【参考】
名誉革命/wikipedia
ヘンリー8世/wikipedia
ジェームズ2世/wikipedia
ウィリアム3世/wikipedia