偉大な人物の跡を継いだ”二代目”というのは、初代より大変ではないでしょうか。
あらゆる人から先代と比べられ、少しでも劣った点があるとすぐあーだこーだ言われます。二代に渡って仕えている家臣が多ければ多いほどその傾向は強いでしょう。
日本でいえば
・源頼家
・足利義詮
・徳川秀忠
など、三つの幕府における二代目将軍が典型的な例ですかね。
頼家は北条家と仲違いして暗殺され、秀忠は何とか務めきったものの息子にガン無視され、義詮に至っては現代で「誰それ」扱いです(´;ω;`)
が、そういう目にあったのはもちろん日本人だけでなく、他の国でも同じでした。
1832年(日本では江戸時代の天保三年)7月22日はナポレオン2世ことナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルトが21歳で亡くなりました。
かのナポレオン1世の息子です。
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2人目の妻の息子
ナポレオンというとお父さんのほうが有名ですし、ややこしいので以下セカンドネームの”フランソワ”で統一しますね。
父ナポレオンが一気に登りつめて捕まって脱獄してまた負けてセントヘレナ島で亡くなった(超略)ため、フランソワの存在はほとんど知られていません。
一応帝位を継いで”2世”になってはいるのですが、それには母の実家が絡んだ複雑な経緯がありました。
彼はナポレオンの二人目の妻、マリー・ルイーズとの子供です。
既にロシアへの遠征で大失敗し、他の国から「今までの分を返してやんよ!」ということで対フランス同盟が組まれ、包囲網を敷かれてしまっていた頃のことでした。
ナポレオンの権威がギリギリ残っていた頃ですね。
フランソワは生まれてすぐにフランスの支配下になっていたローマの王様に任じられました。
しかし、ナポレオンが同盟軍側に敗れてフランス皇帝から退位すると、フランソワもそのままでは済まされません。
まずはマリー・ルイーズの実家であるハプスブルク家(オーストリア)へ行くことになりました。
ここでの暮らしは、あまり快適とはいえません。
ナポレオン一派によって担ぎ出されることを防ぐらめ、オーストリアのお偉いさんがフランソワを監禁状態にしたのです。
ハプスブルク家からしてみますと、マリー・ルイーズは身内でもナポレオンとフランソワは「成り上がり」に過ぎません。
最初から丁寧に扱うつもりはなかったのでしょう。
ときにフランソワ4歳、心身ともに子供には辛い環境でした。
たった2週間の帝位
後にナポレオンが一時権力を取り戻した際、フランソワは”2世”になりました。
が、その地位はたった2週間程度で終わってしまいます。
翌春には、再び母に連れられて、今度はパルマ公国(イタリア)へ。
マリー・ルイーズがハプスブルク家からここの統治を任されたのです。
当時のイタリアは小さな国が乱立していて、パルマ公国はハプスブルク家のものだったので、マリー・ルイーズがここに来たのでした。
つまり場所的にはイタリアでありながら、少なくとも上流階級はドイツ語を話していたわけです。
そのためフランソワもフランス語ではなくドイツ語を学ぶよう強制され、少しずつハプスブルク家へ取り込まれようとしていました。
フランソワにとっては不幸なことに、母マリー・ルイーズは彼にあまり関心がありませんでした。
パルマに移って間もなく彼女は再婚相手を見つけており、新しい夫との子供を産んでいたからです。
フランソワとの面会の約束を破るわ。
急かされても2年も待たせるわ。
とても実の親子とは思えない冷遇振りでした。
父と母の愛を知らず…
しかもフランソワ10歳のときにはナポレオンがはるか大西洋で亡くなってしまい、ほとんど肉親の情に触れることのないまま過ごします。
この頃フランソワを褒めてくれたのは、皮肉なことにナポレオンを打ち破ったロシアの皇帝・アレクサンドル1世だけでした。
彼もイケメンかつ頭が良いことで有名だったのですが、フランソワに対し「顔も頭もいいし、性格も素晴らしい少年だ」と言っていたとか。
敵の息子を褒めるあたりデキた人ですね。
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ナポレオン軍を殲滅したロシア皇帝・アレクサンドル1世は不思議王だ
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数年してフランソワが善悪の区別がつくような年頃になると、寂しさを埋めるためなのか、フランスの歴史や言葉を熱心に学ぶようになります。
オーストリアその他各国からボロクソに言われていた父親について、本当のことを知りたいと思ったのです。
運よくナポレオンの部下や周囲の人が書いた本を読むことができ、本人そのものではなくても言動を詳しく知ることができました。
これにより、ずっと精神的にも物理的にも遠かった父がどれほど偉大な人物だったかを理解したフランソワは、心身ともに父に近付きたい!と願って訓練を始めます。
3世はナポレオンの甥だった
しかし、運の悪いことにほぼ同じタイミングで結核を患ってしまい、かえって命を縮めてしまいました。
程なくして彼は床に伏せるようになります。
不幸な境遇を知っていた側近がマリー・ルイーズへ再三に渡って「どうかフランソワ様にお会いください!」と嘆願したため、亡くなる前に親子の再会は叶ったものの、もはやどうにもならない状態。
そして”ナポレオン2世”は不運な境遇のまま、21歳という若さで亡くなってしまいます。
彼に妻子がなかったため、”3世”はナポレオン→フランソワの血筋ではなく、ナポレオンの甥が名乗っています。
もしフランソワが長生きしていたら当然”3世”はフランソワの息子になり、その後のフランスの歴史は大きく変わっていたのでしょう。
ハプスブルク家はナポレオンに対しては直接被害を受けているので(#^ω^)ビキビキでしたが、フランソワに対しては親しく付き合っており、埋葬先もフランスではなくオーストリアでした。
後に父と同じフランス廃兵院(オテル・ザ・アンヴァリッド)に改葬してもらえたのですが、それをやったのがヒトラーというのがまた何とも……。
一応出身はオーストリアですけども。
そんなわけで今では父子で仲良く眠っていると思われます。
廃兵院を訪れたときにはぜひ父親だけでなく”2世”のことも思い出してあげてくださいね。
なお、ナポレオン1〜4世までの生涯を一気に確認したい方は以下の記事マトメも併せてご覧いただければ幸いです。
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ナポレオン1世2世3世4世の生涯をスッキリ整理!歴史に翻弄された皇帝たち
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長月 七紀・記
【参考】
ナポレオン2世/wikipedia