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【ナポレオン2世】
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父、ナポレオンの死
フランソワは成長につれて父のことを意識するようになりました。
身近な人々に父についての質問を浴びせるようになったのです。
その中には当のフランツ1世もいたそうですから、周囲の人々はさぞ肝が冷えたことでしょう。
こっそり真相を話した人もいたらしく、いつしかフランソワは自分の父がどういう人間だったのか、どんな功績があったのかを知ることになります。
母と一緒にいられなかったこともあって、謎に包まれた父のことがいっそう気にかかったのかもしれません。
1821年5月5日にナポレオンが二度目の流刑先であるセントヘレナ島で亡くなると、その知らせは2ヶ月後にフランソワの元へ届けられました。
ついに対面が叶わなかったフランソワは、大粒の涙をこぼして悲しんだといいます。
「お祖父様や先生の言う事をよく聞いて頑張っていれば、いつか父に会えるかもしれない。せめて手紙だけでも許してもらえれば……」なんて思っていたのかもしれません。
以降の彼は「ナポレオン2世としてどうあるべきか」ということを主軸として、心身を鍛えようと考えるようになります。
一方その頃、フランスでは前述の通り王政復古してブルボン家の王様を迎えていたものの、その王様達が時計の針を戻すかのような政策を取り続け、民衆の反感を買っていました。
そしてナポレオン時代のことが神格化され、「ナポレオン2世を迎えよう!」と言い出す人も現れていたといいます。
こうなると、オーストリアはフランソワの扱いをより厳重にせざるを得ません。
母マリーのいるパルマ公国では独立運動が起き、民衆によって彼女が幽閉されたという知らせが届くと、フランソワは「母を助けにパルマへ行きたいのです!」と訴えます。
しかし、許可はされません。
マリーとしてはパルマ公の座をフランソワに譲ってもいいと考えていたようですが、ここで当時のイタリアの事情が絡んできます。
従兄弟にあたる後のナポレオン3世と……
ナポレオンの登場以前、パルマ公国を含めたイタリアの北部はオーストリアの支配下にありました。
しかし時代の趨勢によって、イタリアの人々が独立運動を開始。
その中核となっていたカルボナリ党の中に、フランソワにとってはいとこにあたるルイ=ナポレオン(のちのナポレオン3世)がいました。
顔を合わせたこともない。されど血族同士の結束は団体行動を起こすには格好の絆となる。
ナポレオン1世への憧憬でフランソワとルイ=ナポレオンが共通の目標を持ち、固く手を結び、その上でさらにイタリアの民衆に担ぎ上げられたら……オーストリアは自らの手で次の敵を育てていたことになってしまいます。
とはいえ、フランソワはまだルイ=ナポレオンのことを知らない状態です。
自分の立場も理解できていた彼は、しばらくの間は真面目に勉強し、ヨーロッパ宮廷の共通語だったフランス語を身に着けるに留めました。
それ自体はフランツ1世の意向でもあったため、周囲から怪しまれてはいません。
しかし1826年の末頃から肺を病み、徐々に体調が悪化していきます。
1831年には目に見えて衰弱していたそうですが、フランソワは祖父に頼み込んで軍に入隊し、軍務に励みました。
「体を鍛えれば、病気なんて治るはず」と思っていたのか、父に恥じない姿になりたかったのか……。
それでもしばらくは持ちこたえたフランソワでしたが、1832年1月には軍務に就けない状態にまで悪化し、同年6月には、ついに危篤状態になってしまいました。
知らせを受けた母マリーが駆けつけるも、既にどうにもならない状態。
そして1832年7月22日、フランソワは不帰の客となったのでした。
フランソワがまだ若かったことと、政治的な経緯から「メッテルニヒが暗殺したのでは?」という説もありますが、それなら最初から育てなければいい話ですよね。
乳幼児の生存率がまだまだ高かった時代ですから、自然死に見せかけて子供を殺すなんて朝飯前だったはずです。
ですので、フランソワの死はおそらく陰謀によるものではなく病死かと思われます。
父と同じフランス廃兵院に改葬
フランソワには妻子がいなかったため、”3世”はナポレオン→フランソワの血筋ではなく、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオンが名乗りました。
もしもフランソワが長生きしていたら”3世”はフランソワの息子になり、その後のフランスの歴史も大きく変わっていたのでしょう。
また、フランソワが亡くなる直前にルイ=ナポレオンが手紙を送ったことがわかっています。
死の床にあることを知らずに連絡しようとしたらしいのですが、メッテルニヒによって握りつぶされ、フランソワには届きませんでした。
ルイ=ナポレオンはフランソワと手を組んでフランスに戻りたいと考えていたらしく、そういった内容だったので検閲に引っかかったようです。
ほんの少し流れが違っていれば、フランソワがオーストリアを脱出して”ナポレオン2世”としてフランスへ帰還し、ルイ=ナポレオンはその側近になっていたのかもしれませんね。
フランソワの棺はハプスブルク家の一員として、代々のオーストリア皇族が眠るカプツィーナー納骨堂に埋葬されました。
後に父と同じフランス廃兵院(オテル・ザ・アンヴァリッド)に改葬してもらえたのですが、それをやったのが……何はともあれ、今では父子で仲良く眠っていると思われます。
廃兵院を訪れたときには、父親だけでなく”2世”のことも思い出してあげると良さそうです。
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不遇で短い一生であったことから、フランソワに関する文物などは少ないのですが……ブランデーの等級のひとつ「ナポレオン」は、彼の誕生した1811年にぶどうが豊作だったためにつけられた、という説があります。
フランソワがその逸話を聞いていたら、ブランデーを飲みながら父の人柄や功績に思いを馳せたかもしれませんね。
ほかにもエルバ島時代のナポレオンに届けられたブランデーを盗み飲みしたイギリス兵士が「さすがナポレオンのブランデーだ」と称賛したからだとか、いろいろ説があるのですけれども。
ネルソンのラムといい、イギリス兵は酒を盗み飲みしすぎじゃないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
『ナポレオン四代 二人のフランス皇帝と悲運の後継者たち (中公新書)』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか