マリー・テレーズ・ドートリッシュ/wikipediaより引用

フランス

マリー・テレーズ・ドートリッシュ(ルイ14世の正妃)が残した血筋とチョコ

1683年(日本では江戸時代・天和三年)7月30日は、マリー・テレーズ・ドートリッシュが亡くなった日です。

「太陽王」ことルイ14世の正妃になりますが、これほど有名な王様の正式な奥さんでありながら、全くといっていいほど逸話が知られていませんよね。

しかし、フランスのとある業界に大きな影響を及ぼした……と見ることもできる人です。
彼女の生い立ちから見ていきましょう。

 


父方はスペイン王家、母方はフランス王家の血筋

マリーは1638年、スペイン王家に生まれました。

父はスペイン王フェリペ4世で、母はイサベル・デ・ボルボン。
「ボルボン」はスペイン語で「ブルボン」ですから、つまりはフランス王家を指します。

より正確にいうのであれば、
「父方はスペイン王家、母方はフランス王家」
というスゴイ血を引くお姫様ということになりますね。

夫であるルイ14世の父(ルイ13世)はマリーにとって母方の伯父、同じく夫の母は父方の伯母、という一見わけわからん親戚でもあります。
実は、二重にイトコというだけなんですが、まぁ、ヨーロッパ王室あるあるですね。

彼女は21歳のとき、ルイ14世の宰相であるジュール・マザランによって王妃に選ばれ、翌年フランスで結婚しました。

「宰相が選んだ」というあたりでイヤな予感がしますが、この結婚も後々物議を醸すことになります。
「マリーの持参金として、フランス王家がスペイン王家から多額の金をもらう。その代わり、マリーとルイ14世の間に子供ができても、スペイン王にはなれない(スペインの王位にはフランスは干渉しない)」という約束をしていたのです。

しかし、スペインが持参金を払えなかったために、後々デカイ戦争の火種になりました(ノ∀`)アチャー

まあ、この時点ではマリーもルイ14世も、そんなことは知る由もありませんね。

 


愛人だらけのルイ14世 我慢強さはマリーの長所だった!?

こうして鳴り物入り(?)で異国へ嫁いできたマリーでしたが、フランス語をマスターしないまま来てしまったため、周りの人々とスムーズに意思疎通ができませんでした。

元々政治や文学に興味がなかったそうなので、語学にも積極的になれなかったのでしょう。

数少ない長所は、信心深かったことと、姑との関係が良かったこと。
姑であるルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュには気に入られ、一緒にお祈りをしたり、トランプ遊びで盛り上がったり、スペイン語で話したり、良い関係を築いていたといわれています。

しかし、マリー最大の長所は、おそらく我慢強さでしょう。

英雄のテンプレに違わず、ルイ14世はいろんな意味で女性が好きだったので、マリーだけでは物足りませんでした。
とういか、まさに「取っ替え引っ替え」という言葉通りに多くの女性と関係を持っており、その報告がマリーの元にもたらされるのは、いつも最後のことだったそうです。

それでも夫婦生活がなかったわけではなく、三男三女に恵まれているので、多少は愛があったのでしょう。
まぁ、ルイ14世の愛人たちも個性の強い人がいますので、たまにはマリーのような大人しい人と一緒にいたくなったのかもしれません。

 


子供はほとんど夭折してしまい、長男だけは生き残る

夫の愛人たちとも、いくらか付き合いはありました。

ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールという女性については、同じ名を持つこともあってか、「野に咲くスミレのような方」という綺麗な形容をしています。
ルイーズが宮廷から去り、修道院に入った後、マリー自ら訪問したこともありました。

しかし、モンテスパン侯爵夫人という鼻っ柱の強い人に対しては「いずれこの人のせいで国が滅ぼされるのでは」と危惧していたそうです。
その辺りの人物評をみると、表面的には大人しくても、観察眼はかなりのものといえそうですね。

最も関係が良かったと思われるのは、マントノン侯爵夫人という人です。
当コーナーでは、以前こちらの記事でご紹介したことがあります。

知られざるシンデレラ「マントノン夫人」太陽王ルイ14世に信愛された理由

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彼女は苦労してこの地位まで上り詰めた人で、優しさや思いやりもある優れた女性でした。
ルイ14世がマリーをないがしろにしていると知ると、「王妃様のこともきちんとお考えになって差し上げてください」と進言してくれています。

他にもマントノン侯爵夫人は何かとマリーに気を遣い、あれこれと手配をしてくれたらしく、マリーは「彼女が来てからは、今までよりずっと良くしてもらっている」と評しました。

この頃までにマリーの産んだ子供はほとんど夭折してしまい、長男しか生き残っていなかったため、寂しい思いをしていたでしょうね。
それだけに、マントノン侯爵夫人の優しさが身にしみたのかもしれません。

しかし、それも短い間のことでした。

マントノン侯爵夫人が宮廷に影響力を持つようになって三年後、マリーは病気で世を去ったのです。
「脇に大きな腫瘍ができていた」とのことなので、乳がんでしょうか……。

あまり良い夫ではなかったルイ14世ですけれども、マリーが亡くなったときは涙を流したとか。
「そのうち良い思いをさせてやるか」と思っていたんだとしたら、「”そのうち”なんて来ないんだよ(´・ω・`)」と言ってやりたいものです。

 

フランス王宮や貴族の間でチョコレート(当時は液体)が大流行

さて、決して幸せとはいいきれない生涯を送ったマリーですが、後世に残したものが二つあります。

一つは、フランス王の血筋です。
上記の「唯一生き残った長男」がルイ15世の祖父なのです。

ルイ14世は多くの愛人がいたので、子供もたくさんいましたが、庶子では王位は継げません。ルイ14世当人も「長男が生き残ったならそれでいい」ぐらいに思っていたかもしれませんね。それはそれで釈然としませんが。

もう一つは、マリーがスペインからフランスにチョコレートを伝えたことです。

マリーは大のチョコレート好きで、お嫁入りのときに専門の職人まで連れて来ていました。
現代でいうところのショコラティエですね。

当時のチョコレートはまだ固体ではなく液体=飲み物で、これによってフランスの王宮や貴族の間でチョコレートが大流行することになります。
それならそれで「王妃様、こんな美味しいものを伝えてくださって、ありがとうございます!!」と感謝され、人気が出ても良さそうなものですけどね。

ライムンド・マドラゾ作「ホットチョコレート」/wikipediaより引用

これに限らず、ヨーロッパの食べ物関連は「◯◯王の王妃が嫁入りするときに持って行った」という話がたびたびあります。

フランス料理のテーブルマナーも、元はイタリアのものをカトリーヌ・ド・メディシスが伝えたといわれていますし。
今日ではお上品の代名詞のようなフランス料理ですが、カトリーヌより前の時代は結構ワイルドというか、「^^;」な感じだったそうですよ。

政略結婚というとドロドロしたイメージが強いですけれども、当時は「ついで」に伝わったものが、後世に大きな影響を与えることもあるんですね。

近代の日本の皇室でも、各時代の皇后が重要な役割を果たしましたし、「内助の功」の最たるものなのかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
マリー・テレーズ・ドートリッシュ/Wikipedia
チョコレートの歴史/Wikipedia


 



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