アンリ=クレマン・サンソン

ギロチン処刑の様子/wikipediaより引用

フランス

処刑人失格―あのサンソンの孫アンリ=クレマン・サンソン罷免される

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前代未聞! 処刑場から逃走する

1819年、父アンリが病気で寝込んでしまいます。

ついに20才のアンリ=クレマンに、処刑人として初仕事に挑む日が来たのでした。

死刑囚は、彼と同じ歳の青年でした。

女性二人を殺し、金品を奪った男。とはいえ、まだ若く生命力に満ちあふれた者の首を切り落とすということは、大変なことです。胸がしめつけられるようでした。

まともに動けないアンリ=クレマンにかわって、助手が独断でギロチンの刃を落とします。

処刑後は後片付けをして埋葬まで見届けねばならないのですが、アンリ=クレマンはただただ呆然自失。ついにはその場から逃げ出してしまいました。

サンソン一族の者とはいえ、人の子です。

代々の処刑人たちも、初めての処刑では動転してミスを犯すことはありました。

しかし、職務放棄して逃げ出したのは、前代未聞です。

アンリ=クレマンはふらふらと歩き回り、自分が犯した罪の重さに打ちのめされていたのでした。

命令されて従ったまでとはいえ、自分の手は血に汚れてしまった、もう後戻りできないと思い詰めていたのでした。

 


国家は死刑を恥だと感じている

現在、死刑が存続している国は徐々に少なくなっています。

死刑廃止論の目覚めは、人権の概念と同じ時期に生まれました。

フランス革命期には、ロベスピールが死刑廃止論を主張。

しかし、反対多数で否決されます。

皮肉なことに、こののちロベスピエールが恐怖政治を行い、政敵を次から次へとギロチン送りを敢行。

彼は四代目サンソンの仕事を増やし、そして彼自身もまたギロチンで処刑されるのですから、どうしようもありません。

この死刑廃止論が再燃したのが、1830年の七月革命でした。

廃止には至りませんでしたが、前進はあります。

死刑判決は以前より少なくなり、処刑場もパリの中心部にあるグレーヴ広場から町外れに移されたのです。

執行の時間帯も、街が賑わう昼間から早朝に変更されました。

実は死刑は、娯楽でもありました。

人々は処刑場に集まり、時には喝采を送っていたのです。それが、人の目に触れないようになる――よい兆候でした。

処刑人の数も減り、サンソン家でも人手を減らしました。

四代目の時は16人もの助手がいましたが、五代目では二人にまで減り、サンソン家はそれまでより手狭な家に引っ越すことにしたのです。

それでもなお死刑の完全廃絶までには、ほど遠いのですが……。

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