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【アンリ=クレマン・サンソン】
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前代未聞! 処刑場から逃走する
1819年、父アンリが病気で寝込んでしまいます。
ついに20才のアンリ=クレマンに、処刑人として初仕事に挑む日が来たのでした。
死刑囚は、彼と同じ歳の青年でした。
女性二人を殺し、金品を奪った男。とはいえ、まだ若く生命力に満ちあふれた者の首を切り落とすということは、大変なことです。胸がしめつけられるようでした。
まともに動けないアンリ=クレマンにかわって、助手が独断でギロチンの刃を落とします。
処刑後は後片付けをして埋葬まで見届けねばならないのですが、アンリ=クレマンはただただ呆然自失。ついにはその場から逃げ出してしまいました。
サンソン一族の者とはいえ、人の子です。
代々の処刑人たちも、初めての処刑では動転してミスを犯すことはありました。
しかし、職務放棄して逃げ出したのは、前代未聞です。
アンリ=クレマンはふらふらと歩き回り、自分が犯した罪の重さに打ちのめされていたのでした。
命令されて従ったまでとはいえ、自分の手は血に汚れてしまった、もう後戻りできないと思い詰めていたのでした。
国家は死刑を恥だと感じている
現在、死刑が存続している国は徐々に少なくなっています。
死刑廃止論の目覚めは、人権の概念と同じ時期に生まれました。
フランス革命期には、ロベスピールが死刑廃止論を主張。
しかし、反対多数で否決されます。
皮肉なことに、こののちロベスピエールが恐怖政治を行い、政敵を次から次へとギロチン送りを敢行。
彼は四代目サンソンの仕事を増やし、そして彼自身もまたギロチンで処刑されるのですから、どうしようもありません。
この死刑廃止論が再燃したのが、1830年の七月革命でした。
廃止には至りませんでしたが、前進はあります。
死刑判決は以前より少なくなり、処刑場もパリの中心部にあるグレーヴ広場から町外れに移されたのです。
執行の時間帯も、街が賑わう昼間から早朝に変更されました。
実は死刑は、娯楽でもありました。
人々は処刑場に集まり、時には喝采を送っていたのです。それが、人の目に触れないようになる――よい兆候でした。
処刑人の数も減り、サンソン家でも人手を減らしました。
四代目の時は16人もの助手がいましたが、五代目では二人にまで減り、サンソン家はそれまでより手狭な家に引っ越すことにしたのです。
それでもなお死刑の完全廃絶までには、ほど遠いのですが……。
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