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【アンリ・サンソン】
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ギロチン台がフランス革命時に考案された理由とは
3代目サンソンが担当していた1721年、処刑人の現物徴収権が廃止され、サンソン家の収入は大きく目減りします。
さらに1789年にフランス革命が勃発すると、処刑そのものの数が増えてコストが嵩み、家計は赤字に転落することになりました。
自由と平等が唱えられた革命では、処刑人一族もまた他の市民たちと平等であると認められるようになった……のですが、サンソンは素直に喜べません。
革命によって、彼が敬愛していた国王一家の権威が失墜していたからです。
崇高な理念から始まった革命は、やがて政治闘争と暴動へ発展。
血と死に慣れた処刑人すら目を背けたくなるような虐殺や暴力がフランス国内にはびこります。
革命当初は死刑制度に反対していたロベスピエールも、政治闘争の手段として暴力と殺人を必要悪として肯定するようになっておりました。
革命の理念である平等と人権の尊重は、処刑法をも変えました。
かつてフランスでは、貴族が剣による斬首、平民が絞首刑が基本。
罪の重さに応じて、拷問を繰り返したあと馬で手足を引き裂く「八つ裂き」のような残酷な手段がとられることもあり――これを「斬首のみ」に統一したのです。
更に人権を尊重する観点から、失敗して苦痛が長引く可能性がある剣による斬首をやめて、ギロチンが採用されました。
フランス革命から約3年半後の1793年1月21日、このギロチンについに国王ルイ16世が登ることになりました。
サンソンは一睡もできないまま、処刑の日を迎えます。
愚鈍ではない……勤勉で慈悲深さも備えたルイ16世
サンソンは国王と面識があり、その人柄に敬愛を感じていました。
フィクションの影響からか、無能で趣味にかまけた愚鈍な暗君とされることも多いルイ16世ですが、実際は勤勉かつ慈悲深さを備えた善良な王であり、革命前までは人気もありました。
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彼が革命を止められなかったのは、ルイ14世と15世の浪費で財政破綻していたことが大きいでしょう。
国王をギロチンに送り込む側の理屈はこうでした。
「確かにルイ・カペー(ルイ16世の退位後の名)は悪い男じゃない。だが本来主権とは庶民にあるもので、王とはその主権を簒奪しているのだ。王政そのものを裁かねばならない」
処刑賛成派と反対派の意見は拮抗。
しかし、僅差で賛成派が勝利し、国王処刑が決まったのです。
なにも国王を殺さなくてもよいのではないか……そう思う市民は数多くいましたし、王党派と呼ばれる活動家たちは断固として処刑に反対でした。
処刑当日、血の気の失せた顔でサンソンは待ち続けました。
勇敢な王党派の活動家たちが、国王奪還に訪れることを。奇跡が起きて、国王が救われることを。
それは、叶わぬ願いでした。
サンソンは王の首の上にギロチンの刃を落とし、血の付いた首を群衆の前に掲げました。
このときサンソンは、誰にも見られないように、国王の血にハンカチを浸しました。
皮肉なことに、かつて試作品のギロチンを見た時、サンソンに対し「刃を斜めにした方がよく切れるだろう」と助言をしたのはルイ16世です。
彼は自身の意見により、改良された刃で斬首されてしまったのです。
そしてサンソンはこのあとも多くの人々を処刑することになります。
その中には、かの有名な彼女も……。
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心優しく、天使のように善良なルイ16世の妹・エリザベート王女。
大勢の貴族。
科学者。
革命の闘争に敗れ去った政治家。
「処刑されればあの世で夫に会える」と、おしゃれをして軽い足取りでギロチン台に上る政治家の未亡人。
不運なめぐりあわせで杜撰な裁判に巻き込まれ、死刑判決を受けた少女。
……と、その数、実に2700人ほどにのぼったのです。
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