1918年(大正七年)2月6日は、画家のグスタフ・クリムトが亡くなった日です。
たぶん作者の名前より代表作を見ていただいたほうがわかりやすいでしょうね。
以下の『接吻』なんかはその一つ。
ウィーンのベルヴェデーレ宮殿に所蔵されております。
兄弟3人で芸術家紹介を始める
グスタフは、1862年にウィーン郊外のバウムガルテン(ペンツィング)という町に生まれました。
父・エルンストはボヘミア出身で金細工師を営んでおり、その血をグスタフも受け継いでいたようです。
弟のエルンスト、ゲオルクもまた芸術的素養に恵まれていたので、この三人は、7人いたきょうだいの中でも父親似だったのかもしれません。
生活は裕福ではなく、三人が一人前になるまでは、あまり余裕がなかったようです。
しかし、三人で芸術家商会を立ち上げ、グスタフが絵を描き、弟たちが額を作る、といった流れができていくと、少しずつ世間の注目を集めるになりました。
きょうだい三人が芸術学校を出た後は、劇場の装飾を手がけるようになっていきます。
劇場には多くの人が出入りしますから、そこでいい仕事をすれば、名声もうなぎのぼり。グスタフたちの装飾も高い評価を受けました。さらに、ウィーン市からの依頼で観劇する人々の様子を描いた「旧ブルク劇場の観客席」で、グスタフは第一回皇帝賞を受賞しています。
当時のハプスブルク家は斜陽の一途でしたが、国内での権威はまだまだ絶大です。美術界にも受け入れられ、一時はウィーン美術アカデミーの教授にまで推薦されました。
これは結局実現しませんでしたが、当時グスタフが29歳だったことを考えると、当時の彼がいかに熱狂的な支持と評価を受けていたかがわかるでしょう。
しかし、その一方で、1892年には父と弟(エルンストのほう)を喪うなど、哀しいこともありました。
また、仕事の上でも少々問題を起こしてしまいます。
ウィーン大学からの依頼「赤裸々過ぎ」て一悶着
1894年にウィーン大学から依頼を受け、その後1899年~1907年にかけて大講堂の天井に描いた「法学」「医学」「哲学」という三枚の絵が次のようにダメ出しされてしまったのです。
「大学のイメージしたものと違う」
「赤裸々過ぎる」
今日、「クリムト」と聞けば多くの人が思い浮かべるのは、“露出度が高めの女性”&”金箔の多用”といった作品ですが、この天井画は全く違うもの。
女性の露出度については共通する一方、「医学」は死神を思わせるドクロ、「哲学」には頭を抱える人や抱き合う恋人らしき人物たちなどが描かれており、およそ華やかとはいえない絵だったのです。
「法学」はタコのようなものに(精神的に?)絡まれているような人物が描かれていて、これはこれで不気味です。
この三枚は現存していないため、どのような色合いをしていたのかがわからないのですが……それでも、あまり気分の良い絵とはいえないものであることは伝わってきます。
個人的には結構好きですけども。何となく某大作RPG6作目のラストに出てくるアレを思い出します(わかる人だけわかってください)
グスタフとしては、この三枚はそれぞれ「理性の優越を否定する」という意味を込めて描いたものでした。
しかし、下絵を提出したとき、大学側からは「もうちょっと違う感じにして」と言われていたのに、改善が見られなかったため、大論争を巻き起こします。
それは学内だけで収まらず、国の議会にまで及びました。依頼主側である文部大臣が咎められることまであったといいます。
こうなるとグスタフも自説を強調し続けることもできず、前払いだった報酬を返す代わりに、契約の破棄を求めました。
その後、三枚の絵は美術館や個人に売却されました。
が、第二次世界大戦中にちょび髭党に没収されたあげく、保管場所が終戦間際に親衛隊によって放火されたため、この世から消え失せてしまいました。文化の破壊ダメゼッタイ。ちょび髭も一度は芸術を志したんですから、芸術の重要性を部下に言い含めておけと。
美術の商売化は若者たちの情熱とは相反し
その後グスタフは、若手芸術家のグループ(分離派)に受け入れられ、初代会長を務めています。
いつの時代も、年長者ほど保守的に、若者ほど革新的に流れやすいですよね。
しかし、グスタフは若者に担ぎ上げられて、ふんぞり返っているような人ではありませんでした。
父も芸術で身を立てており、グスタフも若い頃に経済的な苦労を(も)していたからか、「美術で稼ぐことは悪くない」と考えていたようです。
この頃、芸術家・デザイナーのヨーゼフ・ホフマンらが作った“ウィーン工房”に、グスタフは強く興味を惹かれていました。ここは今でいう住宅展示場+日用品・装飾品のデザイン事務所のようなところで、ビジネスを意識した場所だったようです。
が、こうした動きは、情熱に燃える若者たちから「美術の商業化」と非難的に捉えられました。このためグスタフは分離派と決別し、オーストリア芸術家連盟という別の団体を作っています。
その後はウィーン工房がらみの仕事をしたり、上流階級の婦人の肖像画を描いたり、比較的おとなしい仕事をしていたようです。
いつの頃からか、自宅には不特定多数の女性モデルが寝泊まりするようになっていたので、ある意味派手でしたが、生涯、結婚はしないながら関係を持ったモデルは少なくなく、非嫡出子もいます。
亡くなる直前に「エミーリエを呼んでくれ」
グスタフは、下半身がだらしないサイテー男というわけでもなく、とある女性モデルが「妊娠したから、しばらくモデルの仕事はできないわ」と言ってきた際、彼女に懇願して大きなお腹の姿を描いています。
その絵のタイトルは「希望」であり、妊娠をポジティブに考えていたこと、妊婦の美しさを感じ取っていたことがうかがえます。
海外セレブを起爆剤に、最近では日本でも妊娠中の写真を撮る方もおられますよね。そういう意味では、クリムトはかなり時代を先取りしていたことになります。
ちなみに「希望」にはIとIIがあり、Iは裸婦像に近く、妊婦がこちらを向いています。
IIでは見えているのは胸だけですが、体を覆う布のシルエットから妊婦であることがうかがえる構図です。また、IIの妊婦は自身の腹部を向いており、不安と慈愛の混じったような、複雑な表情をしています。
芸術とはいえ、彼の作品は露出度が高いものが多いので、画像を貼っていいものかどうか迷いますね(´・ω・`) 「愛」や「接吻」のように、ほとんど肌が露出していないものもあるのですが。風景画も描いていますし。
美術館では裸婦画・裸婦像が一番人気になりやすいらしいですけれども、アレコレ思わずに美しさを称えたいものです。
グスタフが最もお気に入りだった愛人はエミーリエ・フレーゲという人でした。グスタフがスペイン風邪(A型インフルエンザの一種)で亡くなる直前の言葉も「エミーリエを呼んでくれ」だったそうです。
彼女はクリムトの死後、送りあった手紙を全て処分し、独身を貫いたのだとか。
こうしてみると、クリムトは「結婚」や「一夫一妻」が気に沿わないだけで、一人ひとりをきちんと愛していたのかもしれませんね。そして、彼に愛された女性たちも、その考えを尊重していた……と思いたいところです。それなら、当事者同士では問題ないですしね。
長月 七紀・記
【参考】
グスタフ・クリムト/wikipedia