ローマ

「アウクスブルクの和議」学生を世界史アレルギーにさせる超難事をスッキリ整理

異国文化は複雑怪奇なものです。

特に世界史の場合、何かしらのきっかけで興味を持てないと
「漢字が独特で、読み方ワカンネ(´・ω・`)」
とか
「カタカナばっかり&同じ名前ばっかりでワケワカメ(´・ω・`)」
といった状態に陥るため、いきなりアレルギー反応のようなことにもなりかねません。

今回もその類で大変わかりにくい話……。

1555年(日本では弘治元年)9月25日は、神聖ローマ帝国で【アウクスブルクの和議】が成立した日です。

個人的に世界史でも一二を争うくらいややこしい話だと思うのですが、例によってざっくり行きましょう。

【TOP画像】和議の記念に建てられたアフラ教会(手前)と聖ウルリッヒ教会/photo by Wbrix wikipediaより引用

 


8行でカトリックvsプロテスタントの戦い

まず、神聖ローマ帝国というの国については
「おおむね現在のドイツの位置にあった国」
ということだけ、なんとなーくわかってれば良いかと思います。

また、「アウクスブルクの和議」だけ説明しようとすると「カトリックとプロテスタントが一応和解しました。終わり」ということになってしまうので、もうちょっとkwskするため、先に年表を出しておきますね。

1517年 マルティン・ルターが「95か条の論題」を出す
→プロテスタント・ルター派の始まり

1524年 ドイツ農民戦争

1526年 神聖ローマ皇帝カール5世、プロテスタントに譲歩

1529年 カール5世、↑上記について「あれは嘘だ」的な態度を取ってプロテスタント諸侯にそっぽ向かれる

1531年 プロテスタント諸侯がシュマルカルデン同盟を結成

1546年 (神聖ローマ帝国皇帝vs)シュマルカルデン同盟(諸侯の)戦争

1555年 アウクスブルクの和議 ←今日ここ

1618年 三十年戦争開始

1648年 三十年戦争終結、神聖ローマ帝国消滅

だいたいこんな感じです。

さらに乱暴にはしょると、神聖ローマ皇帝から見て「プロテスタントを力尽くで潰そうとしたら、国際戦争の火種の一つになってたでござる。ついでに自分の国もなくなったでござる」という感じになります。

しかしこれだけだと、さすがにザックリすぎるので、順を追って事の経緯を見ていきましょう。

 


ルターの提言でプロテスタントが生まれ

まず、ルターによって「今のカトリック教会おかしくね?」という提言がなされ、プロテスタントが生まれました。

ルターの考えは各地で賛同を得て、その中にはドイツ南部の貧しい農民たちも含まれています。教会からの搾取や地方領主たちの圧政に苦しめられていたからです。

そして農民たちは、神の名の元に平等を求めて蜂起を起こしました。
日本の一向一揆みたいなものと考えればわかりやすいかもしれません。

もちろん蜂起を起こされた側としては、放置しておくわけにはいきません。

特にカトリックを信じる諸侯にとって、この反乱は見過ごせないもの。
かくして「農民vs諸侯」という構図でおきたのが【ドイツ農民戦争】です。

ある意味、プロテスタントvsカトリックの戦いと言うこともできるのですが、途中でルターが「やっぱり暴力は良くないよ。お偉いさんの言うことを聞こうか」(超訳)と言い出したため、そうともいいきれなくなります。

ルターは宗教改革の資金をもらうために、権力者の側についたのです。

「その時点で矛盾してね?」
とか考え出すとさらに話がややこしくなるのでやめておきましょう。

 


ドイツ農民戦争で犠牲者となった農民は10万人!?

ともかくこれによって勢いづいた諸侯は、意気揚々と農民たちをぶっとばしました。

圧政に苦しむ農民たちが満足な武器を持てるはずもないですし、諸侯側には大砲などの兵器がありましたから、一度、戦局が傾いてしまえばどうにもなりません。

一説には、ドイツ農民戦争で農民側の犠牲者は10万人とも言われています。
ただでさえ温暖とは言いがたいドイツ地方で、畑を耕す人をこんなにブッコロしてしまったらどうなるか?ということは考えていなかったようです。

ちなみに、ドイツ農民戦争の際、ときの神聖ローマ皇帝・カール5世はフランスと戦争をやっていてほとんどノータッチ。
弟に対応させてはいますが、これが次の火種になります。

ドイツ農民戦争が落ち着いた後も、神聖ローマ帝国全体の危機が去ったわけではありません。

オスマン帝国(現在のトルコ+α)との戦いがたびたび起きており、皇帝が集中して内政に取り組むことができなかったのです。
その間に、諸侯の中にも「ルターの言ってることのほうが正しくね?」と考える人が増えていました。

こんな状態でいつまでも宗教戦争をやってるわけにはいかない――。
そう考えたカール5世は、「そこまで言うなら、プロテスタントも一応認めるよ。ただしそれぞれの領内だけな」と譲歩を見せました。

が、オスマン帝国がウィーンを包囲し、自分の膝元も危うくなると「やっぱプロテスタントはダメ!」と発言をひっくり返します。

こうなるとプロテスタント諸侯はキレるわけで、「あのアホ皇帝を何とかしてブチのめそう」と同盟を組みました。

【シュマルカルデン同盟】。
舌をかみそうなのは世界史あるあるですね。

となると、即座に戦争が起きそうなものですが、同時期に神聖ローマ帝国vsフランスで、イタリアを巡る戦争が起きていたため、帝国内での分裂は抑えられました。
何たる皮肉……。

 

落ち着いたかと見せかけてからの~~~三十年戦争!

その後も何回かカール5世とシュマルカルデン同盟メンバーの間で、きなくさくなったり和議を結んだりというどっちつかずの状態続きました。

平行してオスマン帝国との戦争もやってるので、器用というか何というか。
そっちでも勝ったり負けたり……そのバランス感覚を外交手腕で発揮できればよかったのに。

しかし、オスマン帝国との休戦が決まると、ついにシュマルカルデン同盟と皇帝の間で戦争が起きます。

この戦争で、カール5世は同盟側の中心人物・モーリッツを味方に引き込み、さらに他のお偉いさん二人を捕らえて勝利しました。
そのタイミングで「話はわかった! これからはカトリックもプロテスタントもおkにしよう! だから戦争をやめよう!(でないと他の国に攻め込まれるから!!)」(超訳)と言い。

かくして【アウクスブルクの和議】が成立したのです。

これによって各地の領主にカトリック・プロテスタントの選択権が与えられました。

その翌年、カール5世は「もうワシは疲れた。通風で体痛いし退位する。いろいろ至らない皇帝だったと思うが、悪気はなかったんだ。許してほしい」(意訳)という演説をして、自ら退位しています。
退位から二年後に亡くなっているので、ギリギリのタイミングというかなんというか。

そんな感じでカール5世の在世中に、宗教に関するゴタゴタは一旦落ち着いた……ように見えたのですが、この後、宗教だけでなく領地に関するゴタゴタや周辺国とのアレコレによって、ドイツ全域を主な戦場とした戦争が起きます。

これが【三十年戦争】です。

 


戦争の上にペストも流行し、生き残った人々すらも……

「神聖ローマ帝国vs他の国」でもない。
「プロテスタントvsカトリック」でもない。

この三十年戦争は、帝国全土=現在のドイツ全域に多大なるダメージを与えました。
働き手がいなくなる上、ペストが流行し、生き残った人々も互いの信仰を理由にブッコロしあうという有様だったのです。

三十年戦争時の虐殺を描いたジャック・カロによる版画『戦争の惨禍』/wikipediaより引用

おおまかにいうと、
「1517年にドイツ農民戦争が始まって、1648年に三十年戦争が終わるまで130年弱の間、ほぼ同じ範囲でしょっちゅう戦争が起きていた」
ことになります。

日本史でいえば、戦国時代のド真ん中から江戸幕府三代将軍・徳川家光の晩年にあたります。

なんだか世界でも日本でも、中世の荒廃した世界って、同じタイミングで起きているのが不思議な感覚ですよね。
アウクスブルクの和議が成立した年は、毛利元就が【厳島の戦い】で勝った年&だいたい同じ時期です。

なお、ドイツという国が最初に統一されたのは1850年になりますが、それまでに長期間ゴタゴタしていたんじゃ仕方ないですよね。

その後も世界大戦で二度負け、それでも今はEUの実質的な中心国なんですから、ドイツ人の根性と勤勉ぶりはパネエとしか……。

移民難民&金融問題も半ば押し付けられてますし、
「いつまでウチに貧乏くじ引かせるつもりなんだよ(#^ω^)ビキビキ」
って思っているかもしれません。

何か起こる前にEUはもうちょっと協調したほうがいい気がしますが、はてさてどうなるやら。

長月 七紀・記

【参考】
アウクスブルクの和議/wikipedia
三十年戦争/wikipedia


 



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