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週刊武春 飛鳥・奈良・平安時代

日本人の1%しか知らない「古代史22の秘密」 邪馬台国から壬申の乱まで

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知っているようで知らない、難しそうでいて、じつは簡単。歴史教科書では味わえない最新の考古学や歴史学の研究成果を盛り込んだ日本古代史の魅力をぎゅっとまとめました。
戦国時代も幕末もいいですけど、冬休みには、「古くて新しい」魅力的な古代史の旅をしてみませんか?(脳内で)

第一部 弥生時代から邪馬台国へ

秘密その1 ある日、町内会長から教祖へと変わった弥生時代の王たち

出雲では弥生時代中期の終わりに突然、それまで信仰の対象だった青銅器の剣や矛などが地中に埋められます。代わって墓の規模が大きくなります。これは信仰の対象がモノから神格された王に移ったことを意味します。ある意味で弥生末の邪馬台国以上に日本史上の画期でした。

青銅器の代表銅鐸(どうたく)(Wikipediaより)

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秘密その2 卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかった?!

卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王とは限りません。どんな辞書にも卑弥呼は邪馬台国の女王と書かれていますが、実は原典である『魏志倭人伝』には、そんなことは一言も書いていません。倭国、邪馬台国、卑弥呼の関係は、現代のアメリカ合衆国に置き換えるとすっきり分かります。

アメリカ合衆国は倭国、テキサス州やカリフォルニア州がそれぞれ立法機能を持つように、倭国も各地のクニグニの集合体でした。邪馬台国もそうした一地域であるクニの一つでした。

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秘密その3 邪馬台国は九州から大和へ遷都した倭国の新都だった

九州説と畿内説に分かれる邪馬台国論争に終わりはないように見えます。しかし、ある見方で『魏志倭人伝』を読むと、両方の説を矛盾なく説明できるのです。キーワードは、「遷都」。あなたも一緒に邪馬台国の謎を解いてみませんか?

魏志倭人伝は卑弥呼の2代あとの王(イヨ女王)の時期に中国で編集されたものです。つまりこのころの日本には2人の女王がいたのです。

倭人伝で、邪馬台国は「女王の都する場所」とされていますが、この「女王」は卑弥呼とはかかれていません。実は卑弥呼が邪馬台国の女王と書かれている記述は一切なく、あくまで卑弥呼は「女王国の王」としか認識されていないです。

つまり、前代の王である卑弥呼は九州に、その2代あとの女王は大和=邪馬台国とすることで矛盾が解消できるのです。

秘密その4 本当はグリム童話よりも怖い日本の伝説

「とおりゃんせ、とおりゃんせ」の童謡をご存じでしょうか?この童謡の原型となった伝説が『播磨国風土記』にあります。そこには、10人の旅人がくれば5人を殺し、20人が通れば10人を殺すおそろしい神が描かれています。この伝説はただの古い古い言い伝えではありません。今も残る神社が、史実を反映したその秘密を物語りはじめます。

第二部 古墳時代

秘密その5 新生ヤマト王権はハイブリッドカー?

ヤマト王権とは、難しく言うと、奈良時代にできた日本書紀によって正統性を与えられた政治組織のことを言います。そしてそれは前方後円墳の時代とかなり重なります。ヤマトの象徴である前方後円墳は、実は日本各地の文化を持ち寄ったものだったのです。弥生時代末の各地の有力勢力のアイデンティティが合体した「最強のロボ」といえるのです。ところが、北九州だけがなにも持ち寄っていません。それでは九州が持ってきたモノとはなんだったのでしょうか?形としては残らないもの、それは名前だったのではないでしょうか。

秘密その6 前方後円墳をデザインしたのは卑弥呼の親戚、壱与?

前方後円墳という味気ない名称は、もちろん古代人がそう呼んだのではありません。江戸時代になって命名されたものです。この日本独自の形は、なにがもとになっているのでしょうか。色々な説がありますが、不老不死の世界である神仙世界を具現化したものという説が有力です。前方後円墳は神仙世界にそびえる「壺」の形をした蓬莱(ほうらい)山というわけです。

この世界に例のない世界観を作りだした天才は誰なのか? 著者は卑弥呼の2代あとの女王、壱与(いよ)を候補にあげますが、神話の神々の中に隠れているかもしれません。みなさん、候補者(神?)に気付いたらぜひ教えてください。

秘密その7 世界遺産候補の「仁徳天皇陵」は「仁徳天皇陵」ではない!?

世界一大きな墓として世界遺産の候補となっている「仁徳天皇陵」。実は埋葬されているのは仁徳天皇ではない可能性が高いのです。

「大山(だいせん)古墳」と呼ばれているこの古墳にはだれが眠っているのでしょうか。

こたえは反正天皇。知名度の低い天皇ですから、ぴんと来ない方もいるかもしれません。

もっとも、仁徳天皇や反正天皇の実在が証明されているわけではありませんが、少なくとも宮内庁の指定には矛盾があることは事実です。

かりにめでたく世界遺産となったとしても、しっかりとした史実を認識しなくてはなりません。

秘密その8 皇族6人連続暗殺事件の闇と真相

短期間に天皇を含む皇族が6人も次々に暗殺された事件がありました。これほどの事件は日本史上ありません。それは5世紀の後半に実在した雄略天皇の即位を巡るものです。雄略天皇は、同じ『日本書紀』の中で「大悪の天皇」とも「有徳の天皇」とまったく逆の評価をされています。あまりに壮絶な殺戮を前に、歴史の真実が封印され、両極端な記述のみが残ったと考えられます。

「日本書紀が敗者の歴史を隠している」と声高に主張する本は多いですが、なぜかこの時代のことを避けて通りがちです。なぜなのか?その謎は単純です!人間関係が複雑すぎるだからです!(笑)

秘密その9 越からやってきた継体の大和入りを阻止したのは誰か?

継体(系譜上は第26代)は、なぞに包まれている天皇といわれています。

前代の武烈天皇は後継者を残さないまま死亡してしまいました。越から担ぎ出されたのが継体。すでに57歳。当時としては圧倒的な高齢です。

かれの出身地についてもなぞがあります。越前説、近江説がありますが、いずれにしてもそれまでの通例を破ってヤマト近辺ではなく地方出身者から選ばれた天皇でした。もちろん、長い天皇家の歴史の中で後にも先にも例はありません。

継体は「応神天皇の5世孫」であるという大義名分をかかげて、継体は越から大和入りして天皇(大王)となりました。

しかし、大和に入ることができたのは即位してから20年を経過していました。そのため、大和入りを邪魔した抵抗勢力がいたという学説があります。

それでは、はたして継体のまえに立ちふさがったのは誰だったのでしょうか。継体はいかにして大和入りを成功させたのでしょうか。数多くの継体が抱える謎は、日本古代史、つまり日本のはじまりの秘密の根幹といえます。

移動する継体の宮。恵美「継体」より

移動する継体の宮。恵美「継体」より

秘密その10 墓室の変更から死生観のうねりを読み取る

越からやってきた継体は、今城塚古墳に埋葬されたといわれています。

最近の考古学の成果によって、今城塚古墳の全貌が明らかとなってきました。

それまでの大王墓は、まるい後円部の頂上から穴を掘る「竪穴」だったのに対して、継体の墓はすそから横に入り口のある「横穴」を採用しました。

一見たんなる形式の変化にしか思えないかもしれませんが、この変化は当時の死生観が大きく変わったことをあらわしています。

いったい、古代人の死生観はどのように変化したのでしょうか。

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第三部 「東アジアの中の古代日本」は次のページ

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