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イラスト・富永商太

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週刊武春 伊達家

伊達政宗は史実も最高に面白い!ノリノリの生涯70年を最新研究に基づきマトメました

更新日:

伊達政宗――。
およそ彼ほど戦国好きの頬を緩ませ、ゲームファンの胸を躍らせる存在はいないでしょう。

知名度的にも「戦国三傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)」に次ぐものがあり、ときに人気では彼らを上回るほど。

では、その支持に釣り合うだけの事績がキッチリ認識されているのか?
と考えますと、必ずしもそうとは言えないコトもまた彼の特徴であり、魅力の一つかもしれません。

筆者は以前、仙台で彼の名前のついたビールを買いました。
ラベルのデザインセンスがよく、味も素晴らしかったですが、缶に書かれている政宗の生涯年表は間違いだらけでした。

このビール缶だけにとどまりません。
仙台は政宗のお膝元であるのに、いや、だからこそ「誇張されて関係ないものにまでこじつけられてしまう」そんな事例をいくつか見て参りました。

しかもこの問題は、仙台だけにとどまりません。
人気が高く、小説、ドラマ、漫画、ゲームの主役として脚光を浴びるからこそ、実際の伊達政宗像は見えにくくなっている部分があるのです。

今回は最新の東北戦国史研究を元に、よく誤認されている話を僭越ながら訂正しつつ、政宗70年の生涯に触れたいと思います。

イラスト・富永商太

 

鎌倉時代から続く奥州探題・伊達家

政宗本人の事績から語る前に、まず基本的なおさらいをしたいと思います。

令制国における東北地方は、太平洋側の
陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)

出羽(山形県、北東部を除く秋田県)
に別れていて、あわせて「奥羽」と呼びます。

奥羽地図

ナゼこんな基礎的なことを断るかと申しますと、たまに「奥州=奥羽」と誤解している方がおられるからです。
「奥州=陸奥」であり、「羽州=出羽」。こちらを頭の片隅に置いていただければ幸いです。

その上で、まずは政宗誕生以前の伊達家について説明しておきましょう。

フィクションでは政宗が小さな家である伊達家を拡大したかに語られることもありますが、そんなことはありません。
伊達氏は文治5年(1189年)、奥州合戦の戦功として与えられた伊達郡を本貫とし、所領を拡大。政宗の曾祖父にあたる稙宗は、陸奥国守護職に任じられておりました。

稙宗は積極的に外征を繰り返し、さらに多くの周辺大名と子女の縁組を行い、もめ事があれば調停に尽力し、影響力を拡大します。
上方の大名は後に「どうして政宗は親戚と争っているの?」と疑問を感じたそうですが、伊達家が婚姻や養子縁組を通じて勢力拡大したという背景があったのです。

その功労者である稙宗は、紛争解決の指針ともなる分国法『塵芥集』を制定(日本史の試験にも出ますね)。陸奥国守護として、奥羽に秩序をもたらしました。そして稙宗の子・晴宗も左京太夫、奥州探題に補任されています。

伊達稙宗/wikipediaより引用

政宗の父である輝宗は、その目を奥羽の外にも向けました。

彼は関東の北条氏政、そして急速に台頭しつつある織田信長、徳川家康とも通交します。信長が武田勝頼を滅ぼした後は、来たるべく信長の関東侵攻を見据え、蘆名・最上等の奥羽の家との連携も進めていました。
輝宗の右腕である遠藤基信は外交のエキスパートであり、伊達家の行く末を見据えた統治の原動力となりました。

政宗の功績をふりかえるとき、父・輝宗はじめ周辺の人物が過小評価されがちですので、注意が必要です。政宗以前の伊達家当主も優秀な人物が揃っており、輝宗もそうした名君の一人です。

先祖の偉業と政策、奥州探題、そして現在の宮城県中部、福島県北部、山形県置賜郡という広大な領土を受け継いだ伊達政宗。
彼は奥羽最大である大名家の嫡男として生を受けたのでした。

 

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「独眼竜」の呼称は中国の英雄・李克用にあやかる!?

伊達政宗は、永禄10年(1567年)8月3日、出羽国米沢にて生まれました。

父は、伊達輝宗。
母は、最上義守の娘にして、最上義光の妹である義姫(お東の方、保春院とも呼ばれ、本稿では義姫で統一)。

フィクションで描かれるように伊達家と最上家は対立していたわけではなく、関係は良好でした。
要は、父が奥州探題家の出で、母が羽州探題家の出ですから、その両親の子として誕生した彼は、まさに奥羽一の貴公子だったワケです。

幼名は梵天丸。
同年代の人物には立花宗茂や真田信繁(生年諸説あり)らがおります。

政宗の幼年期というと、母・義姫が彼を醜いから憎んだというエピソードが出てきますが、本稿では取り上げません。
政宗の逸話は「話を盛っている」と思われるフシがありまして。特に「弟や母親との関係性」については、「後世の人間が織田信長の挿話をなぞったのではないだろうか」と考えてしまうわけです。

もうひとつ、傅役の片倉景綱が政宗の隻眼(右眼)を摘出した逸話ですが、これは政宗の頭蓋骨に「眼球摘出のあとがない」ことから、事実ではありません。
いかにも面白いエピソードなので広まっていったのでしょう。これも含めて政宗らしいと言えばそうなのかもしれませんが。

天正3年(1575年)、政宗6歳のとき、父の輝宗は、師として僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)を招聘し迎えました。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉でも知られる快川紹喜とも交流があり、若い頃から才知を認められてきた虎哉は、このとき46歳。慶長16年(1611年)に82歳で世を去るまで、政宗にとって師であり続けます。

虎哉は、僧侶といえども豪快な人物でした。
幼い梵天丸はどこかシャイなところがあったと伝わります。虎哉が接したのは、隻眼となった翌年。シャイな少年梵天丸を豪快な青年政宗に成長させたのは、師の教えも大きいことでしょう。
中国の歴史書である『十八史略』を教材にして「隻眼の英雄・李克用(りこくよう・856-908年)を見習いなさい」と、梵天丸に教えたとされています。

一般的にあまり語られるコトのない「李克用」ですが、その名は、政宗を振り返るに当たって避けて通れません。
というのも李克用もまた「独眼竜」と称され、彼が指揮する黒ずくめの軍団は「鴉軍」と呼ばれ恐れられていたのです。

李克用の本拠地は中国中心部の中原からみると北に位置します。
そこで虎哉は、まさに梵天丸こそ日本の「独眼竜」になるはずだと教え諭したのでした。これもまた後世の作家の創作であるという説もありますが、両者の行動をみるに当時から虎哉と政宗が意識していたと見るのは、むしろ自然なことでしょう。

幼少期のシャイな性格を克服した政宗は、黒い甲冑を身につけ、「独眼竜」として陸奥で飛躍することになるのでした。

 

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輝宗・政宗二頭体制に訪れた、突然の終焉

天正5年(1577年)、梵天丸は元服し、政宗と名乗りました。

政宗とは、伊達家中興の祖・九代目政宗と同じ名です。伊達家当主はそれまで足利将軍家から一字拝領していましたが、足利将軍家の没落とともにその慣習を終えたのです。
外交に長けた輝宗だからこそ、時代の変化を理解していたのでしょう。

そして天正12年(1584年)10月、伊達家の家督は輝宗から政宗へと渡されました。
このとき輝宗41歳、政宗18歳。
壮年期の当主が20歳にならない子に家督を譲るというのは特異なことであるとされ、フィクションでは「政宗の器量をみこんで早めに譲った」という解釈がされてきました。

しかし最近の研究では、このような年齢での家督交替は特異なことではないという見方がされています。佐竹義重から義宣、北条氏政から氏直も、この年代で家督を交替しています。

ただし、このような場合、前当主である父と現当主である息子による二頭体制による統治となります。輝宗と政宗も二人で外交はじめ政治を行っており、家督相続の翌年に輝宗が不慮の死を遂げなければ、そのまま二頭政治が続いた可能性が高いと思われます。

伊達輝宗/wikipediaより引用

家督相続をした政宗は、外交政策を大きく転換します。
それまで二十年の長きにわたって友好関係にあった蘆名氏との同盟を解消し、天正13年(1585年)2月には会津の桧原(ひのはら)へ侵攻。これ以前から蘆名氏は、伊達氏ではなく佐竹氏に接近していた中での出来事でした。

政宗が蘆名を攻めたのは、大内定綱の行動がキッカケでした。当初、伊達氏に従っていた定綱が、政宗に背く動きを見せたのです。

伊達軍は、定綱と同時に、定綱を支援した畠山義継も攻撃。義継は和睦交渉を申し入れますが、突如、交渉に関与していた輝宗を拉致するという行動に出ます。政宗の手勢は反撃に出て、この報復の過程で輝宗ごと義継を射殺し、政宗はそのまま畑山攻めを続行します。
この過激な行動が、蘆名・佐竹ら反政宗勢力を集結させてしまうのです。

そして11月17日には安達郡で伊達と佐竹が激突。戦国ファンに名高い「人取橋の戦い」です。
政宗は数で劣る戦いで追い詰められるものの戦線を維持し、夜半に敵が理由不明の撤退をしたことで辛勝をおさめます。と、すぐさま二本松攻めを再開し、天正14年(1585年)4月、相馬義胤のとりなしにより和睦が成立。畠山氏は二本松城を出て、二本松領は伊達氏のものとなりました。

なんて、サラリと書いてしまいましたが、政宗はなかなかトンデモナイことをしでかしているんですね。
いくら戦国時代とはいえ、父親ごと敵を射殺というのはかなり異常な行動。恩師の虎哉も「お前が畠山をむやみに追い詰めたからこうなったんだろうが!」と激怒したとか。
さらには「伊達家当主は二人もいらないから、片方始末したの?」と皮肉る落首が書かれる始末です。

輝宗の側近であり外交手腕に長けた遠藤基信は殉死してしまい、周囲の大名も政宗に対して厳しい目線を向けます。父子対立が絶えない戦国の世とはいえ、政宗の行為は度を超したものとして周囲に認識されていたのです。

フィクションでは覚悟を決めた輝宗が「わしを撃て!」と叫んだりしますが、これは流石に美化され過ぎではないでしょうか。前述の通り、輝宗は二頭体制で政治を切り盛りする路線だったと思われるわけでして。そこから発展して、この一件は輝宗と外交政策でそりのあわない政宗による計画的謀殺説すらあるほどです。

今となっては真相は闇の中ながら、いずれにせよ伊達家の二頭体制は、突然終焉を迎えたのでした。

 

奥州探題VS羽州探題 東北戦国時代を仕切るのは俺だ!

父の死後、しばらくの間、政宗は積極的な行動を起こしませんでした。

そして天正15年(1586年)冬、政宗は大崎家の内紛に武力介入します。内紛への武力介入は伊達家の得意とするところであり、奥州探題としての意識的な行動です。

ところがこの大崎合戦がなかなか厄介な経過をたどります。
伊達家の武力介入は反撃に遭い失敗。さらには政宗にとって母方の伯父にあたり、羽州探題である最上義光が、大崎家の支援に介入してきたのです。大崎家当主の義隆は義光正室の兄であり、彼にとっては義兄でした。

前述の通り、両者は最初から険悪な仲だったわけではなく、輝宗の代では、上方の軍勢が奥羽に侵攻した場合、最上氏と伊達は連携する手はずになっていました。

政宗の軍事行動の際には、最上家から援軍が加わることもあり、後年の長谷堂合戦では伊達家から最上家に援軍が出されています。
伊達政宗と最上義光はライバルとみなされることもありますが、武田信玄と上杉謙信のような、本気で火花を散らした関係とは異なるのです。
かといって常に仲が良かったわけではないという、つかずはなれずの関係と申しましょうか。

マンガやドラマでは、義光と義姫が政宗廃嫡を企み、小次郎擁立による伊達家支配を狙っていたとする設定もたびたび登場しますが、実はこれも創作です。

二人の行動パターンを見ていると、実のところよく似ておりまして。「奥羽の秩序を仕切るのは、探題の役目である」と共に考えていたことが、対立の根本にあるのです。
というのも、例えば書状などにおいては両者とも「国中の儀」や「侍道の筋目」、「骨肉」という言葉を使いました。
さらに探題職として助力を頼まれれば援軍を送り、逃げ込んで来た者がいれば匿い、紛争を仲裁するのも自分たちの責務であると意識していたのです。喧嘩をしている者がいれば割り込んで「まあまあ、このへんでやめておけ」と仲裁するのが役目であって、喧嘩相手を殴り倒すこととは違うわけです。

最上義光の記事でも触れましたが、人口が少なく、寒冷な地域であった東北には「相手を完膚無きまで倒すことはしない」という東北のやり方があり、彼らも土地の特性にあわせて最良の方法を探っていたわけです。
ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型とも言えます。

アートとしてもイケてる最上義光像

 

伊達家を支えた片倉喜多と片倉景綱 2人は最上寄りの人間だった

かくして最上も絡んだ「大崎合戦」で足踏みをしている政宗の苦境が伝わると、周辺の勢力が動き出します。

相馬、蘆名、佐竹ら連合軍が軍事行動を起こし、天正16年(1587)6月、郡山城を包囲(郡山合戦)。政宗自ら出陣し粘り強く戦い抜き、翌月にはなんとか和議に持ち込みます。

更に、この同時期、伊達・最上領の国境に最上勢が進軍します。
いよいよ一触即発!となったその瞬間、両軍の間に現れたのが政宗の母であり最上義光の妹であった義姫です。
彼女の登場によって両者は和議を成立させたのでした。

この義姫の行動は「肝っ玉母ちゃんの勝手な行動」とネタにされたり、「平和を愛する女神のような義姫の献身」と美化されたりしがちですが、決して突発的な行動ではありません。

80日間の長期滞在ですから、輿で乗り込んで座りこむだけではなく、大名夫人が寝起きできるようちゃんと即席の小屋が作られています。
周囲には片倉景綱の姉である片倉喜多はじめ侍女がついていて、景綱の許可も得ていました。

ここで片倉喜多&景綱の姉弟について補足説明しておきましょう。

喜多は、政宗の乳母とされていますが、生涯独身で子がなかったので、乳を与える役目は担っていません。
喜多には義姫や政宗正室・愛姫の侍女をしていた時期もあります。

養育係というだけにはとどまらず、秘書的な役目を果たすキャリアウーマンといったところでしょうか。彼女の才知をほめたたえた豊臣秀吉が、彼女を清少納言に由来する少納言との名を与えたという逸話もありますが、彼女は秀吉に出会う前から少納言と呼ばれていますので、創作でしょう。

一方、景綱は、小十郎の名がよく知られています。この名の由来は母方の叔父・飯田小十郎が武勇に優れていたことにあやかっています。
この飯田小十郎は最上家家臣です。つまり彼の母親は最上家臣の娘、ということになります。また、景綱のおばが最上家の氏家氏に嫁いだとする家系図もあります。義光の父・最上義守が重病の際、伊達家から景綱らを枕頭に呼び寄せて「私の死後も伊達と最上は協力していくように」と言付けたという話も残っています。

つまり景綱は、かなり最上家寄りの人物であるわけです。

片倉景綱/wikipediaより引用

景綱は政宗の右腕、軍師としてフィクションで描かれることが多く、傅役とされることもあります。
が、当時の記録には残っていません。
9歳で政宗の御小姓となって以来、そばにいたことは確かです。ただ、天正14年(1585)には大森城主となり、政宗の側にピッタリという状態ではなくなっています。

そもそも景綱の業績を見ていくと、参謀というよりも外交担当的な役目が多いのです。政宗と小十郎のコンビは有名で人気もあり、常にセットであるかのようなイメージがありますが、あくまでフィクションとしての描写と思っていた方がよいかもしれません。

閑話休題。

話を戻しますと、この「義姫和睦作戦」は景綱の影がチラチラと見え隠れするんですね。

外交担当として最上家と関わってきた景綱からすれば、まさに義姫こそ最高のカードだったのでしょう。結果的に伊達と最上は一滴の血も流れずに解決したのですから、これこそ景綱の面目躍如というところではないでしょうか。

もちろん義姫本人の交渉力もあります。政宗も義光も当時は余裕がなくて、本音を言えば矛を収めたいのにきっかけがなくて困っていた、という事情もありますが。

 

若くして得た巨大な力を持て余し、当人も当惑していた?

なんとか窮地を脱した政宗は、正室・愛姫の実家である田村家に目を向けます。相馬氏と接触していた田村家重臣を追放し、伊達家の支配下に置く体制を強化したのです。

こう政宗の戦歴を見ていくと、結構スッキリしないと思いませんか?
ピンチのところで切り抜ける手段は、なんだかんだで「和睦」が多いんですね。

これまた前述のように、相手を滅ぼすところまで戦い抜かないのは東北大名の特徴です。
政宗は撫で切りや強硬な態度でぬるま湯につかった東北大名を蹂躙した、と言われていますがそうでもありません。他の伊達家当主と同じく、相手が伊達家に従属すればそれでよいのです。
この行動パターンは「探題としての行動・思考」であると理解するとわかりやすくなると思います。

東北にショック療法を施したとされている「小手森城の撫で切り(天正13年・1585年)」にしても、あやしい部分があります。
政宗が数百人を切り捨てたとするこの一件、そもそも小手森城にはそれだけの人数は収容できません。撫で斬りした人数報告でも政宗本人が三種類の数字を書き残していて、それぞれ二百、五百、八百と数字がバラバラ。当時は誰でもそんなものですが、特に政宗は話を盛る傾向があります。

政宗と義光が敵対した相手から煙たがられたのは、政宗が残酷で厳しいからとか、義光が狡猾で権謀術数に長けているからとか語られがちですが、実情は異なると思います。

双方ともに自らが「探題だ!」とばかりに介入し、しかもそれを足がかりに権力を抜け目なく拡大したゆえの警戒ではないでしょうか。

しかも二人には、野心だけでそういう振る舞いをしていた、と言い切れない部分もありまして。
「俺はこの奥羽を本気でよくしたい、そう思っている。そのためには、このグレートな俺が仕切るのが一番いいよな! だからみんな従ってくれ!」
と考えていたフシがあるのです。

むろん、それが善意からの行動だとしても、周囲にとっては押しつけでしかありません。
喩えて言うなら、飲み会の場で全員分の唐揚げにレモンをかけるようなもの。「皆に美味しく食べて欲しいから」と言われたって、押しつけがましい善意は、迷惑なものでしょう……って、唐揚げ喩えはちょっとわかりづらいですかね。

例えばこんなシーンを想像されるといかがでしょう?

最近のアメコミ映画では、超人的な力を持つスーパーヒーローたちが何かと悩んでいます。
『俺は市民を守りたかったはずなのに、どうしてこんなことに?』

あまりに強烈なパワーで高層ビルを倒壊させてしまったり、ヒーロー同士で意見が対立してしまったり。力というのはコントロールできないと、善意で運用したところで時に危険が伴うもの。
政宗にも、そういうところがあるんじゃないかな、と個人的には思うわけです。

晩年、政宗が自ら「俺も天下を狙っていた」なんて話を盛っていることもあり、色々と判断の難しい要素はあります。
ただ、彼の行動を全て計算高い野心に基づく「大暴れ」だとか、「天下への野心」としてしまうのも、何か違う気がするのです。

『こんなはずじゃないんだ……』と、若くしてパワーを手に入れたのに壁にブチ当たり、悩み悶える――そんな姿こそ等身大の魅力があるのではないでしょうか。
完璧超人ではなく、悩みながら歩んで行く政宗像。ちょっとロマンに溢れすぎでしょうか。

 

快勝、摺上原! しかしパーティ is over……

天正17年(1588)、粘り強く続けてきた切り崩し策が実り、大崎氏が伊達氏の配下(馬打ち)に入りました。これで後顧の憂いをたった政宗は南下できるようになります。

相馬氏の領土を落とした政宗は6月になると更に会津へ侵攻。7月には「摺上原の戦い」で大勝利をおさめ、蘆名氏を滅ぼします。
武力で蘆名氏を滅ぼさねばならなかったのは、外交的敗北の結果でした。世継ぎが途絶えた蘆名氏の後継者として、政宗は弟の小次郎を据える工作をしたもののこれが失敗。蘆名氏は佐竹氏から義広を迎え入れていたのです。つまり、対蘆名戦は外交努力失敗の結果としてあるわけです。

当時の会津は交通の要衝であり、蘆名氏は衰えたとはいえ大大名でした。これを伊達氏が飲み込んだとなると、もはや南陸奥に敵はありません。
7月白河、10月二階堂、11月石川。こうして、家を滅ぼす、あるいは従えて、政宗の領国は拡大していったのです。

しかし、この時期の政宗にこう言いたい人物がいたはずです。
「まだ合戦で消耗しているの? 時代は外交だよ」

その人物とはあの最上義光。
外交力を発揮した義光は大崎合戦のあたりから、もはや武力でどうこうする時代ではないとピンときていました。
これからは惣無事を宣言した豊臣政権下で、外交力を発揮する時代。義光はいちはやく豊臣政権に接近し、羽州探題としてだけではなく、豊臣政権の政策代行者としての権力行使を目指し始めます。

この両者の違いを、センスだけで判断するのもどうかと思います。

義光は十五里ヶ原の戦いで惨敗、大崎合戦の介入も結果的に失敗に終わり、行き詰まりを感じていました。
一方、政宗は、領土拡大でノリに乗っています。パーティが楽しめない人は早く帰ろうとし、ノリにのっている人はまだまだ楽しもうとするものです。

「まだあわてるような時間じゃない。北条も健在だ、奥羽のために、俺たちには出来ることがあるはずだ!」
政宗だって何もただ調子に乗っていたわけではなく、彼なりのベストを模索していたのだと思います。

イラスト・富永商太

 

いっけなーい、遅刻遅刻! 急がないと小田原に遅れちゃう!

天正18年(1589年)正月。新たに手にした会津黒川城(会津若松城)で新年を迎えつつ、政宗はこう詠みました。

七種を一葉によせてつむ根芹

前年の夏から一気に勢力を拡大した高揚感が伝わってきますね。
先の段で政宗はパーティしたいのに終わらせなければいけない、と書いてはいますが、彼だってただノリノリでいたわけではありません。

こんな歌を詠みつつ、南では北条氏政・氏直と豊臣秀吉の対立が深刻化していることを認識。他の奥羽の大名も一刻も早く上洛しようと行動を起こし、秀吉に鷹や馬を贈っています。

「はぁ、秀吉? 知らねーし!」
なんて無視していたわけではありません。
贈答品ばかりでなく、何度も使者を上洛させています。天正17年(1588)夏には蘆名氏との戦闘についても弁明し、さらにのちには「探題職として陸奥の統治は任せて欲しい」とも秀吉に伝えておりました。

しかし返答は、
「いいからお前が上洛して、自分でちゃんと弁明しろよ」
というもの。

政宗は会津を手にした高揚感と、上洛へのタイムアップが迫る状況に置かれていたのでした。
しかも山形では最上義光が「政宗がちゃんと従うか、俺が見張っていますんで」と、実にうっとうしい監視行動を取っています。

このころ南では、豊臣政権と北条氏の対立がこじれにこじれ、もはや対決は不可避となりつつありました。そこで豊臣政権は、奥羽の大名に小田原参陣を促します。
政宗らに締め切りが設定されたようなものです。

そして同年(1589年)4月6日、政宗の出馬が決定。
このとき「抗戦か、参陣か」で二分された家中を片倉景綱が「秀吉の軍勢は蠅のようなもので追い払ってもわいてくる」と譬えたと伝わります。が、景綱は外交担当者かつ最上からの情報がキャッチできる立場として、実際にはもっと中身のある話をしたのではないでしょうか。

ところがこの前日、義姫が政宗を毒殺しようとして、結果的に小次郎が斬られるという事件が発生します。

この事件は、昨今のフィクション作品でも山場かつ見所のあるシーンですが、現代では後世の創作ということでほぼ固まっています。
確かなのは家中が二分され、結果的に小次郎が処断されたという点でしょう(小次郎生存説もありますが)。

かくして色々ありながら伊達政宗は参陣し、所領を安堵されました。
豊臣政権としても、厳しい態度で挑むより、自分たちの意向を土地の者たちに伝える役目を果たす大名がいたほうが好都合だったのです。

政宗は陸奥代表、義光は出羽代表。
両者とも豊臣政権下での有力大名として本領を安堵されました。ただし、会津は没収され、織田信長にも覚えの良かった織豊政権のエリート・蒲生氏郷が入ることになります。

このとき非常に有名なエピソードがあります。政宗が「白装束=死に装束」をまとい、髪の毛を水引で結び、諸大名が見守る中、秀吉に対面するというものです。そこで実際、秀吉は、手にした杖で政宗の首をつつき「もう少し遅れたら危なかったな」と言いました。

イラスト/富永商太

漫画以上にマンガチックでドラマティックなこの展開に対し、
「死ぬかと思った……首に熱湯がかかったみたいでマジ怖かった……」
と後に回想する政宗さん。これぞ戦国ファンを痺れさせるエピソードの代表的存在かもしれません。

同時にこの一件は「さすが、我らの政宗さん! 俺たちにできないことを平然とやってのける! シビれる! あこがれるゥ!」という感じで受け入れられがちですが、一方でこういう風に考えることも可能です。
「政宗、遅刻したら大変なことになるぞ。遅れるにしても、きちんと連絡すべきだって言ったよね。ちゃんと忠告を聞かないから、死に装束パフォーマンスすることになったんだぞ、危ないな」
と、常識的なツッコミを入れたい方もおられると思うのです。

例えば、政宗よりも小田原入りが遅れたけれども、事前のアポあり、おもしろ芸ナシで参陣している最上義光さんとか。

ちなみに政宗は小田原だけではなく、このあとの宇都宮攻めでも遅刻していて、「ホントすみません、人馬が疲れてこんな遅れちゃうなんて予想してなくて! 寝ないで向かうんで!」と書いた自筆書状が残っています。

白装束の話もカッコイイというより、要するにこういう杜撰なスケジュール管理の結果、遅刻してしまい、それを坊主頭にして謝罪みたいな話にも思えてしまうのです。個人的に、カッコイイとは思えないのです。というか、部下だったら胃に穴空くわ!という感じです。
もちろん、部外者から見ればトビキリ面白くて、最高にロックなんすけどね。って私も一ファンに過ぎませんが。

いずれにせよ命は無事でめでたしめでたし、と言いたいところですが、ちょっと補足。
このとき伊達氏に従属していた(=馬打ち)大名の大崎氏や、正室・愛姫の実家である田村氏(政宗死後に再興)らは小田原参陣がかないませんでした。伊達側から不要とのお達しがあったので、勝手に行動できなかったのです。

結果、彼らは改易となりました。
政宗の派手なパフォーマンスの陰で、ひっそりと歴史を終えた陸奥の大名たちも存在したのです。

 

再び窮地に陥って、花押に穴は開いて……ない!?

紆余曲折の末、豊臣政権の大名となった政宗は、正室・愛姫とともに上洛します。

若く好奇心旺盛な政宗にとって、それは心躍る日々であったことでしょう。
上洛した奥羽の大名は、田舎者と馬鹿にされる日々にストレスをためて「もう外出もしたくない……」と弱音を吐く者すらいました。

しかし政宗は元気いっぱい、活動的に振る舞います。
日本の中心・京都で、今まで学んできた教養、洗練された文才やファッションセンスを発揮するとともに、最先端の文化や流行を吸収。実は政宗は若い頃から和歌、漢詩、能、茶道、香といった文学・文化にも関心を示し、そして実際にたしなんでおりました。

伊達家当主として恥ずかしくない振る舞い――と言えば聞こえがよろしいですかね。
こうした行動の根底には、同時に劣等感もありました。

そもそも奥羽の大名は、第一印象から第三印象まで「ド田舎から来た」と思われていたんじゃないかというぐらい、馬鹿にされていました。政宗はそうした偏見に怯むことなく、才知とセンスを見せ付け、「奥羽だからって馬鹿にするなよ!」と頑張っていたのだと思うのです。自分の努力とパフォーマンスが奥羽のイメージアップにもつながる、そんな「俺は奥羽代表」という意識があったわけです。

そして豊臣政権への参加により、国元では、国替えに奔走することになります。本拠は黒川城から岩出山城へ。ただの引っ越しではなく、家臣の知行替えも伴うものでした。しかし独立性を保っていた家臣たちがなかなか国替えに応じず、調整も骨が折れるものでした。

さらなる困難は、奥羽各地で発生した一揆です。
政宗も蒲生氏郷らとともに鎮圧に参加しています。この一揆の続発は豊臣政権にとっても予想外のものでした。そんな中、政宗の旧領で発生した葛西・大崎一揆は、政宗が裏で糸を引いているのではないかとささやかれ、政宗は弁明のために上洛します。
しかし、政宗に対して厳しい叱責はありませんでした。

このとき、政宗は自分のものとされる「花押に穴が開いていない」と弁明した逸話が有名です。残念ながら、話自体が江戸半ばに成立した軍記モノです。現在、発見された政宗の文書に、穴の開いている花押はありません。

「黄金でできた磔柱を担いだ」という話もありますが、話を盛っているのではないか、あったとしてもそれが政宗放免の決め手ではない、と思います。
この場面を大河ドラマ『独眼竜政宗』で見たとき、私はカッコイイなぁと感心はしたのですが、こうも考えました。『笑点』の大喜利じゃあるまいし、ノリと面白さで大名の処分を決めていいものか、と。つまり、ここで政宗を罰するのがよいか、それとも灸を据えてそのまま置く方がよいか、秀吉らも普通の政治的判断で吟味して、後者を選んだのではないでしょうか。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

 

「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」って好奇心が強烈過ぎる

天正20年(1592)、「唐入り(文禄・慶長の役)」が始まりました。前述の通り、このとき政宗は派手な装束で京都の人々を驚かせ、話題をさらいます。
特に、政宗の派手なファッションが話題となり、そのことが「伊達者」という言葉の語源であるという説もあります。が、正しくはありません。この言葉自体は政宗以前にもあるのです。

ただし、「田舎者とは思えないほどセンスいい物を持ってるじゃん」と他の大名に褒められたこともあります。朝鮮出兵前のパレードがかなり話題になり、京都の人々が大騒ぎして見物したのは事実です。現存する政宗の武具もセンスのよいものばかりです。

しかし、このときのド派手ファッションを秀吉に気に入られ、渡海せずに済んだ――というのは史実ではありません。

政宗は渡海しております。しかも「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」と浮かれている強烈な好奇心の持ち主です。
この政宗の態度は大名の中でも珍しいものでした。当時名護屋城に滞在していた最上義光が「渡海だけは絶対に嫌だ!」とびくびくしていたのとは好対照です。

文禄2年(1593年)4月、朝鮮で政宗は西国大名の築城術を吸収し、母親には土産物を探し回ったのでした。
前述の毒殺未遂事件により山形の実家へ戻ったとされている義姫ですが、事件後4年間は岩出山城にとどまっています。政宗は母に流行の衣類を土産として贈っていました。

義姫は朝鮮にわたった我が子を心配し、三両の現金と和歌を送りました。海を越えたお小遣いと手紙に感激した政宗は、珍しい土産を探し回り、お返しに贈ったのです。
仲がよいですよね。
残念ながら、このあと義姫は岩出山城での留守中に伊達家の家臣と揉めて、実家に戻ってしまいますが。

そしてこの二年後、政宗は衝撃的な事件に巻き込まれます。
文禄4年(1595年)、政宗と懇意でもあった関白・豊臣秀次が突如、切腹。政宗にとっては従妹にあたる秀次側室の駒姫(最上義光の二女)が、無残にも処刑されてしまうのです。

豊臣秀次/wikipediaより引用

さらに政宗と義光には謀叛を企んでいるとの嫌疑がかけられてしまいます。
疑いは晴れたものの理不尽な疑いをかけられ、豊臣政権に対して大いなる不快感と不信を抱いたことでしょう。

このとき政宗と義光の取りなしをしたのが徳川家康でした。

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなると天下は揺らぎ、徳川家康と石田三成の間で派閥抗争が起こります。
秀吉の遺言で大名同士での婚礼は禁じられていたにも関わらず、家康は公然と無視。慶長4年(1599年)には、政宗の娘・五郎八姫(文禄3年・1594年誕生)と家康六男・忠輝(天正20年・1592年誕生)との婚約が成立します。

政局は、決裂に向けて動き始めていくのでした。

 

北の関ヶ原 伊達&最上vs上杉が勃発!

慶長3年(1598年)、豊臣政権は上杉景勝を越後から会津へ移封しました。

会津は豊臣政権にとって伊達や最上に睨みをきかせる土地であり、蒲生氏郷が亡くなってからはまだ若い秀行が跡を継いでいました。しかし秀行は家康の娘と婚姻しており、会津に置くわけにはいかないと三成らは考えたわけです。

景勝は謙信の代に織田信長と断交して以来、信長の同盟者である徳川家康とは対立関係にありました。さらに本能寺の変以降は、石田三成経由で豊臣政権に取り入っており、三成と縁が深いわけです。
奥羽に睨みをきかせる120万石の存在、それが上杉家でした。

慶長5年(1600年)、家康は上杉家重臣・直江兼続の書状「直江状」をキッカケとして、会津攻めを決意。ところが石田三成の挙兵を知った家康は、反転し引き返してしまいます。景勝が反転する家康の背後を突くにせよ、その前に伊達・最上を攻略せねばできません。

ここで伊達&最上と上杉の激突構造ができあがるのです。

伊達家の石高は58万石。
最上家の石高は24万石。
対する上杉家は120万石。

かなり難しい戦力差です。
伊達と最上が力を合わせたところで上杉に勝利をおさめるには難しいところ。かといって、これだけ大きな大名同士の戦いとなれば、強国・上杉家とて一気に潰すことはできません。

彼らにとって当面の目標は最上家。
まず最上を従え、そのあとに伊達。この二家を吸収し、関東へと攻め込む――。
それが上杉家のプランでした。

関が原の結果を知っている後世の者からすると「そんな大規模なことをする時間的余裕があるのか?」と思うかもしれません。
しかし、当時の人はむしろ短時間で決着がつくとは考えていませんでした。
なんせ日本全国の大名が争うのです。数ヶ月、いや場合によっては数年間にも及ぶ乱世の再到来。豊臣政権による統一前まで時計が巻き戻せるのではないか、そうなって欲しい、そんな風に思う大名も大勢いました。

上杉vs伊達&最上も、すぐに戦闘へと突入したわけではありません。当初、上杉側は、両家が支配下に入って関東に進軍することを条件として和睦交渉に取り掛かっております。
しかし、最上側が時間稼ぎをしながら戦闘準備を進めていると知った上杉は、2万を率いる直江兼続をすぐさま山形へ。

東北の関が原と称される「長谷堂合戦」の幕が切って落とされたのです。

愛はLOVEの愛じゃない、兼続です/絵・富永商太

北の関ヶ原のハイライトはこの長谷堂合戦です。フィクションでは政宗が参戦することもありますが、実際には留守政景を援軍として送ったに留まります。

このとき片倉景綱が「山形を見捨てるべきだ」なんて献策したとも言われています。
「最上と直江を戦わせ、双方が疲弊したところでまず直江を討ち、さらに最上を討つ。そうすれば一石二鳥です」
それに対して政宗は、
「母上が山形城にいるのにとんでもない!」
と断るという……『母から殺されかけても救出に向かう政宗って偉いね、チャンチャン♪』というエピソードがありますが、これも荒唐無稽な話です。

この時期、ほぼ戦力が一カ所に集中しているのは三者のうち最上だけで、伊達も上杉も多方面に展開しています。
互いに牽制して動きの取りにくい状況。そんな最中に一人だけ漁夫の利を得る策がうまく行くとは到底思えません。

更には「母親がいる山形城を見捨てるわけにはいかない」という点についても、疑問が残ります。
政宗は政景を援軍として派遣する際に、「あまり本気を出さなくていいぞ」と念押ししていました。
動きの鈍い政景に対して義光も何か察知するところはあるのでしょうが、あまりせっつくのも格好悪いと思ったのか、なかなか強くは言えません。

そこで立ち上がったのが義姫でした。義姫は何度も何度も書状を書き「義光は言いにくいようですが、敢えて言います。早く来てください!!」と何度も念押ししています。
色々と関係がこじれていた最上に伊達が援軍を出したのは確かですので、意地悪く突っ込むのはこのあたりにしておきましょう。なお政宗自身は「南部方面が気になるので自らは向かわない」と義光に連絡しています。

なお、このとき政宗も山形の動向に注目していました。義光にもアドバイスしています。この内容がなかなかでして……。
「最上勢が川を越えたって聞いたけど、マジ? 今回の戦い、言いにくいけど戦術がお粗末でもう見てらんない。これじゃ勝てるものも勝てないよ」
みたいな感じでして。
最上家としては伊達家の援軍はありがたいものではあるのですが、ちょっと引っかかるところもあったことでしょう。

政宗がこの時、最上に援軍を出す以外何もしていなかったかというと、もちろんそうではありません。
先ほど義光に対して「南部が気になる」としていたように、伊達は南部利直とも争っておりました。政宗は和賀忠親に対して南部領で一揆を起こす様に仕掛け、伊達家臣の白石宗直にも南部領攻撃を命じています。

ここで突っ込みたい人がいると思います。
「ちょっと待って! どっちも東軍じゃないの?」

そうです、その通りです。しかし、前述の通り、関ヶ原において政宗だけではなく多くの大名が、この決戦は長引いて争乱の世に逆戻りすると考えていたふしがあります。
そうなった時に備えて、政宗も南部利直も自領拡大に動いていたわけで、カオス状態で戦っていたのですね。後に和賀忠親は自殺、あるいは殺害され、政宗は本件の責任を問われることはありませんでした。

そうこうしているうちに9月30日、伊達・最上・直江兼続の元に、関ヶ原で東軍勝利との結果が飛び込んできました。
翌10月1日、兼続は撤退を開始。兼続が自領に撤退してしまったため、政宗は悔しがります。

「最上衆が弱いせいで敵を逃した。最上衆が弱いせいで討ち果たせなくて無念。おかげで利益を得られなかった」
二度も最上衆が弱いと愚痴をこぼす政宗。よほど悔しかったのでしょう。

 

百万石の切り取りOK! ただし自分の力でね♪

長谷堂合戦終結後、政宗は上杉領獲得に乗り出します。
10月6日には桑折で敵を圧倒するものの、松川で大敗し撤退。ただし松川合戦の経過は同時代史料では確認できず、6日には政宗自身が帰陣してしまいました。

政宗が家康に軍事行動について確認すると、家康は軽挙妄動を慎むようにと連絡してきます。なぜなら家康は、水面下で上杉景勝との和睦交渉に取り組んでいたのです。

しかし、堪えきれなかったのか、翌慶長6年(1601年)正月、政宗は福島周辺で軍事行動を起こします。と、これは上杉勢によって撃退されてしまいました。
それでも諦めきれなかったのでしょう。政宗は家康に会津出兵を依頼するものの、結局、家康と景勝の間で交渉が進み、6月には景勝が上洛して成立してしまいます。

政宗による北の関ヶ原領土拡大パーティは、いよいよお開きになりました。

ちなみに政宗に対して直江兼続がネチネチと嫌味を言う逸話は、この伊達VS上杉の合戦を元ネタにしたものが多くなっています。
ここであの話が気になる人も多いことでしょう。
「百万石のお墨付きはどうなったの?」

この件も誤解されています。お墨付きは「百万石にしてあげる」という意味ではなく「家康に味方して戦ったら、その戦いで切り取った領土をそのまま加増します」という内容です。
つまり百万石加増は参加賞ではない、ということ。
お墨付きが反故にされたのは「南部で一揆を煽動したから」との説明もありますが、前述の通り政宗はこの件では責任を問われていません。

家康「今度の戦いで私に味方したら、切り取り分加増するよ」
政宗「マジっすか!? なら例えば百万石切り取ったらそのぶん全部加増ですよね。多すぎるからナシ!とかは、やめてくださいよ」
家康「いいよ、いいよ。百万石切り取れたらね」

こういう内容の話がいつの間にか「参加しただけで百万石」になっていたわけです。
そしてこのオファーは、政宗一人ではなく他の大名にもされたものと思われます。こんなニンジンをぶら下げられたら、様々な手を使って争うのも納得できるというものです。南部領の一揆もこうした背景があったのでしょう。

そしてその結果が、義光の33万石加増に対して、政宗2万石ぽっちというのも。政宗が後年この話を蒸し返したとき「下手なことを言うと、かえってあなたが恥をかきますぞ」とたしなめられたそうですが、理由はわかる気がします。そもそも、関ヶ原前後は両陣営ともに大盤振る舞いを約束していたとはいえ、伊達家に対して参加賞として百万石は気前が良すぎます。

イラスト・富永商太

 

大坂の陣では味方を一斉射撃で全滅に追い込む

正直、このときばかりは政宗も運がありませんでした。

切り取り次第で二万石の加増。こう書くと関ヶ原での政宗が弱かったように思えますが、そう単純な話でもないのです。
上杉勢が主力を伊達勢のいる東方へと展開したため、結果的に伊達勢は上杉勢えり抜きの主力とぶつかりあうことになったわけです。

一方で最上が進軍した西方の庄内方面は、やや手薄でした。最上勢は自領に残り降伏した上杉の将を侵攻の戦闘に立たせていました。彼らは降伏したばかりですので、武功を立てようと必死で働きます。
伊達側は悪条件、最上側には好条件が揃っていたのです。
しかも政宗の場合、家康本人から「景勝と和睦するから攻めるな」と停戦要請をされているわけです。そりゃ政宗からすれば、食べ放題ビュッフェのはずが、メニュー制限があったと判明、みたいな納得のいかない気持ちですよ。

「思う存分切り取っていいって言ったのに、止めましたよね? それって約束が違うじゃん!」
となっても仕方がないかもしれません。納得が行かないからこそ、後でお墨付きを持ち出した。政宗が北の関ヶ原において、大きな不満があったことは確かでしょう。
なんせ彼はまさに脂のノリきった時期。ここで俺の進撃が終わるなんてつまらないよなぁ、と思ったとしても不思議ではないハズです。

政宗最後の戦いは、他の多くの大名と同じく慶長19~20年(1614~15年)の「大坂の陣」でした。

伊達勢は真田信繁勢を相手にして大苦戦。味方の神保相茂隊を一斉射撃して全滅に追い込み、諸大名を呆れさせております。
このとき伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍したとも言われていますが、騎馬鉄砲隊についての記述が江戸後期からしかありませんので、後世の創作でしょう。

大坂の陣で、政宗は真田信繁の子女を保護したとも、乱取りしたとも伝わっています。信繁が政宗の器量を見込んで預けたとも言われていますが、真偽不明です。
政宗に保護された信繁の子は、仙台真田氏として存続することになります。

真田幸村の12歳の娘(超絶美少女)が伊達政宗の仙台藩にかくまわれていた!

 

人生楽しまないでどうしろっていうんだ!

泰平の世が訪れ、政宗の人生もまた落ち着きます。
乱世が終わって退屈するどころか、実のところ政宗は江戸初期という時代をエンジョイしているんですね。

政宗というのは天性のエンターティナーであり、目立つのが大好きなパーリーピーポーであり、セルフプロデュース力が備わっています。

晩年になると当時を知らない徳川家光相手に「いやあ、実は俺も、天下を狙ってたんですよね」なんて吹聴して「政宗さんマジパネェっす……」とあこがれの目で見られたりするわけですよ。
晩年ノリノリの態度を見ていると、この人は十年遅いどころか「最もよい時代に生まれたきたんでは?」と思わざるを得ません。
戦国を知らないひよっこ相手に武勇伝を語って得意顔できたのも、政宗があの時代に生まれたからこそだと思います。

政宗は、どんな時代に生まれてきたって、類まれな個性で輝くことができる、魅力にあふれた存在、スーパースターです。

そんな政宗が築き上げたのが仙台城です。
中世城郭・千代城をもとに築き上げられた仙台城。近代城郭としては最大級の面積を誇り、見事な石垣は織豊期の技術を用いて築かれています。
地元では青葉城という名で人々に親しまれ、政宗が整備した寺社仏閣も現在にまで仙台藩の威容と栄光を伝えています。

仙台城と……

仙台城から見下ろす緑の街並み

仙台市そのもの、宮城県そのものが、政宗の内政への尽力を物語る証拠です。

仙台は、もとは千代という名でした。
それが、唐代の詩人・韓コウ(広羽)の漢詩「同題仙遊観」の中の起句「仙台初見五城楼」から採られ、仙台へと変更。漢詩にも造詣が深い政宗らしい発想です。

さらに同藩は、江戸期を通じて東北の要として機能しました。
特に米の生産量は莫大で、江戸で消費される米の三分の一は仙台藩産であった時期もあったほどです。
ここまで発展できた基礎を築いたのは、言うまでもなく政宗です。

奥羽の中心地として整備されたこの街は、現在も東北地方唯一の百万人都市として発展しています。「杜の都」と称される街並みは美しく、政宗の洗練された美意識が伝わっています。

仙台駅はじめ、市内には政宗の甲冑、前立て、陣羽織をモチーフとした意匠が用いられ、四百年を経ているとは思えないほど斬新さ。飽きの来ないデザインモチーフは、街並みの洗練されたアクセントとなっているのです。そして仙台には政宗が由来とされる食品や風習がいくつも伝わり、彼への敬愛を忘れない人々の思いが感じられます。

寛永13年(1636年)5月24日、政宗は70年の生涯を終えました。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く
領国経営で手腕を発揮し、将軍や大名たちから敬愛され、泰平の世を楽しんだ政宗。晩年、生涯を振り返ってこう詠みました。

馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所赦 残躯天の赦す所
不楽是如何 楽しまずして是を如何にせん

残された人生楽しまないでどうしろっていうんだ!
と詠む感性はまさに爽快で痛快。四百年の時を経ても、人生を楽しんだ政宗の豪放磊落さが伝わって来ます。

さて、長い本稿もそろそろ終わりです。
パーティお開きの前に、彼の行動をおさらいしつつ、フィクションによくある設定をファクトチェックしてみましょう。

政宗さんの、これ、ホント? 回答 解説
①義姫は政宗の醜さを憎み、小次郎を偏愛していた × 書状のやりとりを見ると、母子の仲が悪かったようには思えません
②片倉景綱が眼球を摘出した × 頭蓋骨に眼球摘出を由来とする陥没がない。景綱が政宗の腹部にできた腫瘍を治療したことは史実
③眼帯を着用 × 右目は白濁した状態で眼帯はしていませんでした。※欄外の瑞巌寺木像参照
④伊達政宗は長身のイケメン 身長はおよそ160センチ、当時の平均程度です。隻眼で疱瘡の跡もおそらく残っていたため、当時の基準では美男とは言えない容貌であったようです。ただし復元された顔は面長で気品があります。それに結局のところ人の美醜は、その人に備わる魅力やオーラに左右されます。政宗がイケメンだと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです
⑤独眼竜は後世の作家がつけたニックネーム 行動を見てみると、政宗本人も李克用を意識していたため、そうとも言い切れないのでは
⑥伊達輝宗は政宗の器量をみこんで家督を譲った × 当記事の本文をご参照ください
⑦伊達政宗は戦上手 そもそも伊達氏は奥羽一の大大名ですから、その時点で強いのは当然といえます。にも関わらず、大崎合戦は数で勝ちながら、手痛い敗北を喫しているわけです。ここまで見てきてなんとなくわかると思いますが、政宗がスカッと勝利をおさめたのは、まだ若い総大将相手の摺上原の戦いくらいかな、というところ。この蘆名氏との戦闘にせよ、実は激しい抵抗にあい落とせなかった小城が蘆名領には結構あります。政宗が長けていたのは、むしろ外交的交渉です。大内氏・大崎氏・石川氏は最終的に外交的に屈服させ、最上義光も外交力で抑え込んでいます。それに結局のところ戦というものは、時の運に左右されます。政宗が戦上手だと思うなら、そう信じればいいんです、それで幸せになれるならそれでいいんです
⑧片倉景綱は政宗の傅役であり、右腕として常に側にいた × ただし、政宗と景綱は親しく、若い頃政宗はよく景綱の家に遊びに訪れていたようです。景綱や伊達成実と比較するとフィクションでは登場しませんが、仙台藩の基礎作りには茂庭綱元が大きく関わっています
⑨片倉景綱は最上家を嫌っていた × ただし伊達成実は最上が嫌い
⑩義姫は小次郎を偏愛し政宗を疎んじ、最上義光は伊達家のっとりを企んでいた × そもそもこの話、伊達家と最上家の力の差を考慮していないと思います
⑪奥羽(現在の東北地方を統一した) × 当記事の本文をご参照ください
⑫陸奥(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)を統一した × 当記事の本文をご参照ください
⑬撫で斬り等厳しい態度をとり、奥羽のぬるい大名をふるえあがらせた × 当記事の本文をご参照ください
⑭一大名に過ぎない伊達家を奥羽一の大大名にした 政宗家督相続前から伊達家は奥羽一。ただし政宗の領土拡張が広大であったことは事実
⑮伊達政宗は奥州筆頭 奥州筆頭という役職はありませんが、奥州探題のこと、あるいは陸奥を代表する大名というニュアンスならあながち間違いとは言えない、かも
⑯伊達政宗は関東侵攻をたくらんでいた × 最上義光に「このまま関東も簡単に攻め落とせる」と書き送り、晩年「関東を越えてこれからというところで秀吉が来ちゃってさ」と回想している政宗。実際に行動を見ていると陸奥を越えて南進することはありません。また出羽へと西進することもありません。彼の行動はあくまで反伊達派への対応中心であって、状況からみると陸奥を出ることを考えていたようには思えないのです
⑰あと十年、二十年早く生まれていたら天下を取れていた × 前項の通り、言葉とは裏腹に陸奥の中にとどまっていた政宗。もっと早く生まれたとして、陸奥の外まで進んだかどうかは疑問が残ります。十年、二十年早い時代には蘆名氏全盛期であり、陸奥を超えたとしても関東以南には錚々たる大名が揃っています。そもそも政宗本拠地の陸奥は寒冷地であり、農業生産力でも劣っています。無理でしょう
⑱派手な服装を秀吉から気に入られたおかげで、朝鮮に渡らずに済んだ × 当記事の本文をご参照ください
⑲一揆煽動の嫌疑を、鶺鴒の花押に穴が空いていないと誤魔化した × 当記事の本文をご参照ください
⑳「伊達者」の語源は伊達政宗 × 当記事の本文をご参照ください
㉑関ヶ原で「百万石のお墨付き」を反故にされた × 当記事の本文をご参照ください
㉒大坂の陣では伊達家の騎馬鉄砲隊が活躍した × 江戸後期から『常山紀談』等に出てくる話ですが、政宗存命中にはこれに関しての記述は全くなく、後世の創作です。当時の軍団編成からみてもありえない形態です。ただし、他の地方と異なり、奥羽の武士は騎馬から降りずにそのまま武器を持って戦っていました。このことは政宗自身が語り残しています
支倉常長の遣欧使節団は、スペインと手を組んで天下を取るための策 × 当時のスペインの状況、現実性等考慮すると、荒唐無稽な話としか思えません
㉔ずんだを発明したのは政宗 × 枝豆を用いた餡は東北南部を中心に他の地域にもあり、名称も異なる場合があります。「ずんだは宮城名物、だって伊達政宗が発明したんだもんね!」と言うと山形や福島の人と揉める可能性があります。ご注意ください

伊達政宗木造/瑞巌寺HPより引用

【関連記事】伊達政宗の「ずんだ餅」はウソ!? 書籍『伊達政宗と時代劇メディア』からガチかっこいい独眼竜を学ぶ!

 

あとがき~伊達政宗を、楽しもう!

筆者を政宗アンチと思う人もいるかもしれません。ネチネチと重箱の隅をつつきやがって、ロマンを壊しやがって、そう言いたくなる気持ちはわかります。
「昔読んだ政宗の本と違うじゃないか!」
そう仰りたい気持ちもわかります。私も書いている間、「こんなことを書いていいのだろうか?」と何度も迷いました。

私も政宗に興味を持ったきっかけはフィクションでした。
そこから興味を持ち、調べていくうちにフィクションにおける誇張と創作がわかり、信じてきた設定が実は間違っていたと知った時は、騙されたような、自分の中にある政宗像を壊されたような気がして、ものすごく不愉快な気持ちになりました。政宗のことも嫌いになりかけました。

しかし、です。
さらに調べてゆくと、政宗は誇張せずとも十分魅力がある、むしろ『ありのままの政宗って最高だな』と思えるようになりました。

戦が強いことだけが政宗の魅力ではありません。
彼の書状、残した和歌や漢詩、斬新なデザインセンス、やんちゃで茶目っ気あふれる行動、人間味溢れる失敗の数々。
そう思えてくると、今度はフィクションでの設定が気になり出しました。

郷土の偉人や先祖を褒めたい気持ちは理解できるにしても、やり過ぎなのではないか? 画像加工が派手なプリクラのように、かえって変になっている部分がないだろうか?

この記事をまとめるにあたり、幸いにもそうした「盛り過ぎ政宗像」を修正する書物を参照することができました。
この記事は、最新の優れた東北戦国史研究の一端を参照させていただいておりますが、私の狭い知識のバイアスがどうしても入ってしまいますので、気になる方は是非、記事末の参考文献にあたっていただければと思います。

私は、歴史上の人物を崇拝し、見習おうとはあまり思いません。
時代があまりに違いすぎて、ともすれば努力がズレてしまいそうな感覚に陥ります。
しかし政宗だけは例外です。

セルフプロデュース力、コミュニケーション能力、遅刻や失敗をしてもうまくリカバリする機転、人生を楽しむ力。政宗のような図太さこそ、生きていく上で見習いたい点だと感じています。どんなに落ち込んでいても、政宗について考え、調べているだけで気持ちが明るくなり
「まあ何とかなるさ!」
と思えるんですね。

こんな魅力的な人物、そうそうおりません。

本稿はいわば、政宗という巨大で豪壮な宮殿の入り口に敷かれた玄関マット程度のものです。
これをきっかけに政宗を調べてゆけば、きっと楽しいパーティがあなたを待ち受けていることでしょう。

伊達政宗というスーパースターの宴を、どうか楽しんでください!

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イラスト・富永商太

【主な参考文献】
遠藤ゆり子編『東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館)
高橋充編『東北の中世史5 東北近世の胎動』(吉川弘文館)
時代考証学会『伊達政宗と時代劇メディア』(今野印刷株式会社)
遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会: 大崎・伊達・最上氏』(吉川弘文館)
佐藤憲一『伊達政宗の手紙 (新潮選書)』(洋泉社)
小林清治『伊達政宗の研究』(吉川弘文館)
小林清治『戦国大名伊達氏の研究』(高志書院)
小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館)

文:小檜山青

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2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


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