延元元年/建武3年(1336年)5月25日、足利尊氏・高師直らと、新田義貞・楠木正成がぶつかりあった【湊川の戦い】がありました。
メンツ的にかなり豪勢ですよね。
そして1336年という点からお察しいただけると思いますが、1333年の鎌倉幕府滅亡後、何かとややこしい時代に入ってからの話です。
ややこしいとは他でもありません。
南北朝時代です。
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鎌倉時代に始まった対立が激化
南北朝時代は、後醍醐天皇から始まったという印象があります。
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しかし、そもそもの原因は鎌倉時代にあり、88代後嵯峨天皇(1242-1246年在位)にまで遡ります。
後嵯峨天皇の息子である、後深草天皇(兄・89代)と亀山天皇(弟・90代)が跡継ぎを巡って衝突し、以来、
【持明院統】
【大覚寺統】
という二派に分かれて、それぞれ天皇をほぼ順番に出すようになったのですね。
以下の表をご覧いただくと早いかもしれません。
この争いが激化したのが後醍醐天皇からです。
鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇が【建武の親政】でトンチンカンなことをやってしまい、キレた武士たちが全国各地で「オレは北朝につくわ!」「んじゃ、ワシは南朝!」という具合で真っ二つに分かれ、ガチバトルが始まります。
対立の構図をザックリまとめるとこんな感じです。
【大覚寺統→南朝】
後醍醐天皇
楠木正成
新田義貞
vs
【持明院統→北朝】
光明天皇
足利尊氏
高師直
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幕府創始者一度は死物狂いで逃げる法則
開戦当初は、必ずしもどちらかが有利でどちらかが防戦一報というような状態ではありませんでした。
最終的には北朝についた足利尊氏が室町幕府を作りますが、それまでの間には優勢劣勢が頻繁に入れ替わっていたのです。
尊氏も一度大負けに負けて、湊川の戦い前は、九州まで逃げておりました。
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源頼朝が関東に流されたときといい。
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「幕府創設者は一度死に物狂いで逃げなくてはいけない」みたいな法則でもあるんですかね。
しかし、尊氏はめげません。
いや、途中、かなり凹んでたっぽいんですが、そもそも尊氏はテンションの落差が激しい人物であり、周囲に「できる、できる、キミならできる!」(※イメージ)と励まされ、再び戦況を打開すべく兵を挙げました。
これに対し「また尊氏かーい!」ということで南朝方も準備を整えます。
そしてぶつかったのが【湊川の戦い】だったのです。
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