恋川春町金々先生栄花夢

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』恋川春町の最期は自害? 生真面目な武士作家が追い込まれた理由

なぜこんな生真面目な人が作家などやっているのだろう?

大河ドラマ『べらぼう』の恋川春町を見ていて、そんな違和感を抱きませんでしたか。

春町の相棒である“まぁさん”こと朋誠堂喜三二なんて「吉原で遊ばせてくれるなら書く♪」とウキウキする程なのに、恋川春町と来たら、終始ムスッとした顔で蔦屋重三郎を睨みつけるばかり。

最も大切なのは義理だ!とばかりに鱗形屋孫兵衛に対しても筋を通し、耕書堂のもとで新たな本を発行しました。

しかし、彼が生真面目な性格であるのは、史実面を鑑みるとその通りなのかもしれません。

恋川春町は「黄表紙」の祖として一世を風靡し、その後『鸚鵡返文武二道』で記録的な売上をあげると松平定信に叱責され、その後、自害するのです。

ドラマでもそんな哀しい展開を予感させる――史実における恋川春町の生涯を振り返ってみましょう。

恋川春町『金々先生栄花夢』/国立国会図書館蔵

 


文武が融合してゆく日本の武士

時は明治のこと――元幕臣であった福沢諭吉は【廃刀令】を歓迎。

皮肉をこめて「武士なんて、そもそも刀の使い方を忘れていた」と論じました。

これは何も福沢の誇張でもなく、幕末ともなるとむしろ武士のほうこそ戦えない集団であり、例えば京都の治安を担った新選組幹部は多摩の豪農層出身です。

いったい武士とは、いつ頃からそんな存在となってしまったのか?

今回の主役・恋川春町こそ、そうした変わり目に生きた侍の典型例と言えるでしょう。

武士はもともと、貴族に代わって武力行使する者たちのことを指しました。

貴族も弓を装備しながら、宿直(とのい)の警護に当たりはしますが、実質的には文官と言える。

それに対し、武官であるのが武士であり、鎌倉幕府ではその創始にあたり、京都から大江広元らの【文士】を呼び寄せています。

結果、武士は、武官でありながら文官としての役目も果たす、日本独自の発展を遂げてゆきました。

それだけに、ひとたび戦が無くなれば、武人としての側面より、文人としての教養が重視されるのも自然の流れなのでしょう。

江戸時代、後期ともなれば、まさにそのときを迎えていました。

当時の社会的進歩はめざましく、印刷はじめ、商業も流通も十分に発展。

だからこそエンタメでも金を稼げる――そんな煮詰まった近世社会が出来上がってゆきます。

武士とは主君に仕えて俸禄を得るもの……だけではなく、お上に仕えずとも、己の才覚で食い扶持を稼ぐという道が開けたのです。

平賀源内がその一例ですね。

ドラマでもそう描かれましたように、マルチな才能で食べていく彼こそ、時代を象徴する人物といえました。

平賀源内/wikipediaより引用

では、恋川春町はどうだったのか?

 


百石取りの武士・倉橋格

後に「恋川春町」と名乗る人物は、延享元年(1744年)、紀州徳川家附家老・安藤次由家臣であった桑島勝義の次男として生まれました。

このころは徳川吉宗が将軍職を退く直前のこと。

徳川吉宗/wikipediaより引用

時代が進むにつれ、武家の存続もなかなか難しくなって養子が増え、春町もまた、父方の伯父・倉橋勝正のもとへ出されました。倉橋姓となったのです。

そして明和8年(1771年)に藩主の松平昌信が没し、松平信義が新たな藩主となると、彼は順調に出世を重ねてゆきます。

安永5年(1776年)、養父が隠居すると家督を相続し、百石取りへ。

藩政にも携わるほど順調に出世を遂げるのです。

武士として教育の機会に恵まれ、地位も高くなった彼には、新たな趣味ができました。このころから「酒上不埒」という筆名で狂歌を詠み、一派を立てるほど夢中になったのです。

天明7年(1787年)には年寄本役、120石にまで加増されました。

ところが、この翌天明8年(1788年)、思わぬ事態が起こります。

彼は黄表紙『鸚鵡返文武二道』という作品を執筆していました。

その中身では、ときの老中・松平定信の政策批判が含まれていて、寛政元年(1789年)に幕府から呼び出された彼は、病と称し出頭を拒み、4月には隠居しました。

そして寛政元年7月7日(1789年8月27日)、突如、亡くなるのです。

状況から自殺とされることもあり、死後は成覚寺に葬られたのでした。

 


文人・恋川春町

武士としての倉橋格は、江戸時代によくいた典型的な像ともいえます。

一介の武士としてならば、歴史に名を残さなかったことでしょう。

しかし、文人としてみれば卓越した才知がありました。

東アジアにおける文人の特徴として、書道や絵画、詩など、活躍のジャンルを跨ぐことが挙げられますが、恋川春町もまた、絵も文も手がける才人でした。

絵も文も、習えば習うほどぐいぐい伸びてゆく。

そして彼の一生とは【黄表紙】によって運命付けられたといえます。

武士としての倉橋格(いたる)は【黄表紙】ゆえに命を縮め、作家としての恋川春町は【黄表紙】ゆえに名を残した、そんな宿命でした。

ではいったい【黄表紙】とは何なのか?

安永4年(1775年)、恋川春町が発表した『金々先生栄花夢』がその祖とされ、一体どんな作品なのか?

その内容を見てみましょう。

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