せっかく訪れた楽しい戦国時代の項目も、途中、シンドくなるときがある。
それが【分国法】だったりしませんか?
しかし、毛嫌いするのは勿体ない。
当たり前ですが戦国大名が自ら関わっていることもあり、落ち着いて取り組むと意外とオモシロな内容だったりします。
今川家や武田家、伊達家など。
親しみやすい大名の具体例に注目しながら、ピックアップしてみましょう。
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「戦国家法」と呼ばれることも
分国法とは一体なんなのか?
一言でいえば【戦国大名が作った法律】です。
ただし法の適用範囲は自国の領地内に限られていて、長期的に使われたもののことを指します。
「戦国家法」と呼ばれることもありますね。
他に、時々に応じて出されたお触れ書きのような法律もありましたが、さすがにマニアック過ぎますのでここでは割愛させていただきます。
現代でいえば、分国法は各都道府県の条例のようなものともいえます。
条例も、それぞれの地域性を反映した条文がありますよね。
寒い地域では、スキー場建設やスキーに関する安全に関する条約があり、観光地では建物の高さや色などが制限されたり、とか。
分国法の場合、地域性はもちろんのこと、そこを治めている大名家の家訓が影響しているものが多くなっています。
また、大名の家臣を対象にしたものと、領民を対象にしたものが混在していました。
これまた現代に置き換えるとすれば、民法と税法と地方公務員法が一緒になっている……みたいな感じですかね。
支配者層として武士の目覚ましい進歩
注目すべき点は、
「武士(大名)自らの手で成文法を自発的に作った」
ということです。
教科書ですと、ここをスッ飛ばして、すぐに暗記用の表が出てきちゃうのがもったいない。
というのも鎌倉幕府が御成敗式目を作った頃と比べると、武士階級が支配者層としてかなり進歩したことがわかるのです。
「何か揉め事が起きてから、その場その場で調べていたら手間も時間もかかる。
ときには戦の原因になる。
それなら始めから決まりごとを作っておいて、それに沿って暮らし、違反した者に罰を与えるほうがやりやすい!」
そういう「統治の基本」を、武士が重視したんですな。
「戦国時代」というと、【大名同士の合戦】というイメージが強いですが、他にも
【大名vs国人】
【一般市民同士】
【各種の一揆】
など、様々な立場の紛争もたくさん起きています。武士だけじゃないのです。
そんなとき事前に法律があれば、紛争を減らしたり、あるいは紛争が起きたときにも問題を片付けやすくなります。
だからこそ、あっちこっちの大名が分国法を作ったんですね。
支配を明確にする――というよりも、
「おまえら、めんどくせーから揉めんなよ!
事前に法律決めといたから、もし何か起きたらそれに沿って決めるからな!」
という感じですかね。
そっちのほうが何かとコスパも良いでしょう。
御成敗式目をベースに工夫した
では分国法は何をベースに作られたか?
やはり武士の法として広く浸透していた御成敗式目です。
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そこに各大名の家風に合わせた決まりや、地域性、室町幕府の法律などが加わり、それぞれの分国法となりました。
「法律」と聞くといかにも小難しく感じますけど、ところどころに当時の世相や、各大名がどんな問題に頭を抱えていたかが見え隠れします。それがオモシロイ。
最初期の分国法としては「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」や「早雲寺殿廿一箇条」などが知られていますが、題名になっている大名の代で成立したとは考えにくく、現時点では疑問が呈されています。
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おそらくは、彼らが日頃から家臣に言い聞かせていたことを書き留めたものを、後の当主たちが法として整備したのではないでしょうか。
この時代の武士はまだまだ「自分で記録をつける」という意識が薄い(もしくは一度作った記録が残っていない)ため、何ともいい難いのですが……。
では、分国法の代表例をいくつかご紹介して参りましょう。
有名な大名が制定したものが多いので、彼らの価値観や当時の世相などを知る一端になるかもしれません。
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