伊達家に二人の勇者あり。
武の伊達成実と、智の片倉小十郎景綱――。
なんて調子で戦国ゲームでもお馴染みの二人。
眼光鋭いキャラで描かれがちな片倉景綱については、伊達政宗の兄貴分として、あるいは軍師的存在として印象深いでしょう。
大河ドラマ『独眼竜政宗』世代の方には西郷輝彦さんが演じていた懐かしさもあるかもしれません(伊達成実は三浦友和さん)。
各種コンテンツでも、今なお人気を博する片倉景綱。
史実では一体どんな武将だったのか?
実際に政宗の兄貴分的存在だったのか?

片倉景綱/wikipediaより引用
元和元年(1615年)10月14日が命日となる景綱の生涯を振り返ってみましょう。
片倉景綱 神社に生まれ姉・喜多にしごかれる
片倉景綱は、現在の山形県置賜郡にあった米沢八幡宮の息子として生まれました。
父は片倉式部景重で、母は元沢刑部真直の娘。
元の身分が低い上、次男だったので幼い頃は結構苦労しています。
両親を相次いで亡くし、親戚の家に養子に行ったらその家に実子が生まれて戻されるなど、並みの子供であればグレていてもおかしくない不運ぶりでした。
それが後に伊達政宗の片腕にまで登りつめたのは、歳の離れた姉・喜多(きた)の教育の賜物であるといわれています。
20歳ほど離れていたと言い、喜多は文字通り母親代わりとなって景綱をビシバシ鍛えました。
戦国の女性によくあることで、彼女も兵書や武道にも通じていた女丈夫で、後に政宗の乳母を任されているほどの人です。
実の弟ともなればそりゃもう厳しかったと思われます。
後々まで手紙のやり取りなどもしていたらしいですし、坂本竜馬と姉の坂本乙女さんの関係によく似てますね。
そして景綱10歳のとき、喜多が政宗の乳母に任じられた後「弟(景綱)のほうも出来がいいってよ」ということで、政宗のトーチャン・伊達輝宗の近侍として仕えるようになりました。

伊達輝宗/wikipediaより引用
大河ドラマ・独眼竜政宗では、輝宗が景綱の笛の音を気に入って召抱えるという風流な流れになっていましたね。
いつ頃そんな芸を身につけたのかははっきりしていないのですが、彼は笛の名手としても有名だったので、そこをうまく取り入れた名シーンでした。
お父ちゃん輝宗の眼力が素晴らしい
輝宗は、息子・政宗の陰に隠れてしまって全く目立ちませんが、景綱のように身分の低い中から人材を見つけ出すことがとても得意な人でした。
他にも修験者だった遠藤基信(もとのぶ)など、幅広い層から家臣を召抱えています。
この基信がさらに「あの子を若様の側役にしたら、きっと良い働きをしてくれますよ」と推してくれたので、景綱は政宗の側近として働くことになりました。
景綱19歳、政宗9歳のときのことです。
二人が米沢盆地のどこにいたのかは長らく不明でした。
しかし近年、地元の山形県立うきたむ風土記の丘考古学資料館らによる調査で、同県高畠町(米沢市の北)に幼い政宗の館があることが判明しました。
両親の住む米沢城から離れたところで、まさに「親子」そして「兄弟」として深い関係を結んだのでした。
これ以降、景綱は主な戦での活躍、政治上の駆け引きなど多方面で活躍し、政宗の右腕となっていくわけです。
が、彼のスゴイところはそれだけではありません。

絵・富永商太
政宗以上に容赦ない!?
幼少期から主君を見知っているせいか。
片倉景綱は、政宗以上に容赦がないエピソードが残されています。
政宗も小手森城の撫で斬りなど残虐とも取れるエピソードがいくつかありますが、景綱の場合は流血沙汰とは違った意味でエグさが際立ちます。
政宗の右目をえぐった話とかありますが、その辺は既にご存知の方も多そうなので、ここではその他のエピソードを見て参りましょう。
政宗は脇腹に腫瘍ができて苦しんでいました。
この頃は外科的な手術といえば、焼いた鉄の棒で患部を焼いてしまうこと。痛いどころじゃありませんね。
さすがの政宗も自分で押し当てることができませんので、景綱に頼みました。
すると、なにを思ったのか景綱は自分のなんでもないももに棒を押し当てました。
ジューーー!
「うん、痛いけど、死にはしないね」
そう判断した景綱は政宗の患部を焼くのです。
このヤケドで政宗は30日の重症となりましたが、景綱のほうがむしろ重く、全治2か月でした。
殿より先に授かるわけにはいかない 殺せ
ある時は、景綱に息子が生まれました。
後の2代目・片倉小十郎重長(片倉重長)です。
しかしどういうわけか、せっかく生まれた長男をあの世に送り返せと言う景綱。
そのことを漏れ聞いた政宗は筆まめなので慌てて手紙を送ります。
「私の心に免じて助けてやってくれ。
おまえの言い分もあるだろうが、ただただ私に任せてくれないか。
これほど言っても助けなかったらおまえのことを許さないぞ。
どうか、どうか助けてやってくれ」(※手紙は現存)
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「二日酔いです・遅刻しそう・読んだら燃やして」政宗の手紙が気の毒なほど面白い件
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怒っているんだか、なだめているんだかわからない手紙ですよね。政宗の焦りっぷりが伝わってきます。
政宗には、なぜ小十郎がそんなことをしようとしたのか分かっていたのです。
政宗にまだ子どもがいなかったからです。
主君より先に子宝に恵まれては申し訳ないと思ったそうです。

伊達政宗/wikipediaより引用
東北の関ヶ原で上杉と激突
二人がいい大人になった【関ヶ原の戦い】においても、政宗に遠慮のない景綱の暴走は止まりません。
伊達家をはじめとした東北諸将は直で関ヶ原には行っていません。
しかし東北でそれに近い戦いが行われました。
【慶長出羽合戦】です。「北の関ヶ原」なんて言われたりしますね。

『長谷堂合戦図屏風』退却する直江兼続を追撃する最上義光/wikipediaより引用
関ヶ原+東北といえば、上杉家との戦い。
家柄的にも勢力的にも同等だった伊達家が対峙させられるのはごく自然な流れでした。
政宗は、徳川家康から「上杉の今の領地(会津・米沢その他)は故郷と旧領だろ? うまくやったら丸ごとあげる」(超訳)という口約束を取り付けていたので、非常に魅力的な提案です。
しかし、そうは甘くはありません。
いくら家康から「切り取り次第(好きなだけ領地にしてエエよ)」と言われても、相手は謙信以来の精兵が揃った上杉家です。
敗北だって十分に考えられるところで、時系列的には次のような運びになりました。
家康、上杉征伐に出てくる
↓
三成挙兵に驚いて戻る
↓
上杉家、家康を追わずに山形の最上家を攻める
↓
伊達家が最上家の助太刀という形で上杉家と戦う
ここでポイントになるのが最上家。
政宗の母・義姫(よしひめ)の実家です。彼女は、最上義光の妹としても知られますね。
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いろいろあって義姫は随分前から実家に戻っていたので、最上家を助けることは政宗にとって母親を助けるも同然でした。
別にこれは内々の話でもなんでもなく、伊達家の人間であれば誰でも知っていたであろうことです。
ここで景綱が、とんでもない献策をしています。
小十郎「最上家が潰れたら?」
景綱の献策とは以下の通り。
「最上家も武士ですから、上杉家と死に物狂いで戦いますよ。この際、共倒れになったところをウチがまるっと全部いただきましょう。そうすれば手間が省けて一石二鳥ですよね^^」(超訳)
つまり、主君に向かって
「アナタの母親を犠牲にして領地をぶん捕りましょう」
と言ったわけですね。
人質を見捨てるというのは珍しい話ではありませんが、この場合、見殺し以外の何物でもありません。
並みの主であれば手討ちになっていたでしょう。
もちろん景綱案は却下されていますが、これだけでも彼の実利主義ぶりというか容赦のなさというか、空恐ろしさがうかがえます。
このとき戦った直江兼続と共に「天下の陪臣」として称賛されているので、その能力の高さもご理解いただけるでしょう。

直江兼続/wikipediaより引用
なお、少々時代を遡りますが、片倉景綱は、当然ながら伊達家の主な戦には参加しています。
ざっと記しておくと以下の通りです。
◆天正13年(1585年)人取橋の戦い
→二本松城主の畠山義継が、政宗の父ちゃん・伊達輝宗を拉致した事件から開戦
佐竹義重相手に政宗が絶体絶命に追い込まれ、鬼庭左月が戦死し、伊達成実の踏ん張りにより政宗は命からがら逃げおおせる
◆天正16年(1588年)郡山合戦
→人取橋の戦いでズタボロになった伊達家が蘆名義広・相馬義胤・佐竹義重相手に快勝する(ただし豊臣秀吉の【惣無事令】を無視していたため、このとき新たに得た領地は没収される)
◆天正17年(1589年)摺上原の戦い
→蘆名家を滅ぼして政宗が会津を制覇! 有頂天になるも、こちらも惣無事令によってボッシュート
◆天正18年(1590年)小田原征伐
→秀吉が小田原城を囲み、北条氏政・北条氏直親子を屈服させる。氏政は切腹、氏直は石高1万石に減らされたが、伊達家では片倉景綱の説得があって政宗が秀吉軍へ参陣。伊達家の存続を助けた
◆文禄2年(1593年)文禄・慶長の役
→豊臣政権による朝鮮出兵
伊達家2つ目の城を任される
江戸時代に入って【一国一城令】が布かれた後、景綱は、例外として認められた白石城(現・宮城県白石市)の主になりました。
徳川家康としては、こんなキレ者を、同じくキレキャラ政宗の側にいさせたらマズイ……と判断したのか。
単純に「仲を引き裂く」という目的もあったでしょうけど、家康のことだから複合的な理由を考慮したのでしょう。
ただし、その頃の景綱は既に病気になっていて、ろくに動ける状態ではありませんでした。
糖尿病らしき病でかなり太ってしまっていたそうで、政宗に「そんなんじゃ今までの甲を着れないだろ。新しいのやるから元気になってくれ」(意訳)と言われています。
どのくらいサイズアップしてたのか気になりますね。
景綱所用の甲冑(現存するのは息子のです)は現存していないので比較できないのが残念です。
それでも10年以上永らえながら、大坂冬の陣の時(1614年)には、もう白石から動けない状態になってしまっていました。

大坂夏の陣図/wikipediaより引用
代わりに息子・片倉重綱(片倉重長)を参加させており、死の直前、夏の陣直後に息子を叱りつけたという話があるので、気力だけは最期の最期まで壮んだったようです。享年59。
これぞ武人ですね。
ちなみに片倉重綱は、大坂の陣で真田信繁(真田幸村)に見込まれ、幸村が家康へ突撃する前にその娘を引き取っています。
阿梅と言い、超美形だったとされるので、まさかそれで怒ったとか……。
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いろいろと圧巻の2つの墓
最後に。
片倉景綱のお墓は白石城付近に二ヶ所あります。
ワタクシ、両方とも行ったことがあるのですが、まあ何とも言えないいかめしさを感じたのをよく覚えています。
一つは傑山寺というお寺の奥で、大きな杉の木が目印です。
「敵に墓を暴かれないように」ということで墓標を置かなかったようで、既に江戸幕府ができているのにそこまで警戒するのがまたスゴイ。
もう一つは傑山寺から少し離れた愛宕山というところで、孫の景長(かげなが)が分骨したものです。
こちらには景綱以降の片倉家十代のお墓が並んでいて、九代目までは阿弥陀像を墓標にしており、こちらも圧巻です。というか怖いです。
余談ですけども、愛宕山のほうはあっちこっちにゴミが散乱していて複雑な気持ちになったのもよく覚えております。
いくらか拾ったんですが、墓石の側に手を伸ばすのがすげえ怖かったです。
ゴミはゴミ箱に捨てましょうね。こんな方のお墓にゴミ放置とか度胸ありすぎんだろ。
最後に蛇足ながら……。
北の関ヶ原こと慶長出羽合戦は非常に展開が面白く、
・上杉景勝
・伊達政宗
・最上義光
といったスター選手たちの攻防、思考がつぶさに味わえるところです。よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
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【参考】
岡本公樹『東北─不屈の歴史をひもとく』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
片倉景綱/wikipedia










