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【片倉小十郎景綱】
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小十郎「最上家が潰れたら?」
景綱の献策とは以下の通り。
「最上家も武士ですから、上杉家と死に物狂いで戦いますよ。この際、共倒れになったところをウチがまるっと全部いただきましょう。そうすれば手間が省けて一石二鳥ですよね^^」(超訳)
つまり、主君に向かって
「アナタの母親を犠牲にして領地をぶん捕りましょう」
と言ったわけですね。
人質を見捨てるというのは珍しい話ではありませんが、この場合、見殺し以外の何物でもありません。
並みの主であれば手討ちになっていたでしょう。
もちろん景綱案は却下されていますが、これだけでも彼の実利主義ぶりというか容赦のなさというか、空恐ろしさがうかがえます。
このとき戦った直江兼続と共に「天下の陪臣」として称賛されているので、その能力の高さもご理解いただけるでしょう。
なお、少々時代を遡りますが、片倉景綱は、当然ながら伊達家の主な戦には参加しています。
ざっと記しておくと以下の通りです。
◆天正13年(1585年)人取橋の戦い
→二本松城主の畠山義継が、政宗の父ちゃん・伊達輝宗を拉致した事件から開戦
佐竹義重相手に政宗が絶体絶命に追い込まれ、鬼庭左月が戦死し、伊達成実の踏ん張りにより政宗は命からがら逃げおおせる
◆天正16年(1588年)郡山合戦
→人取橋の戦いでズタボロになった伊達家が蘆名義広・相馬義胤・佐竹義重相手に快勝する(ただし豊臣秀吉の【惣無事令】を無視していたため、このとき新たに得た領地は没収される)
◆天正17年(1589年)摺上原の戦い
→蘆名家を滅ぼして政宗が会津を制覇! 有頂天になるも、こちらも惣無事令によってボッシュート
◆天正18年(1590年)小田原征伐
→秀吉が小田原城を囲み、北条氏政・北条氏直親子を屈服させる。氏政は切腹、氏直は石高1万石に減らされたが、伊達家では片倉景綱の説得があって政宗が秀吉軍へ参陣。伊達家の存続を助けた
◆文禄2年(1593年)文禄・慶長の役
→豊臣政権による朝鮮出兵
伊達家2つ目の城を任される
江戸時代に入って【一国一城令】が布かれた後、景綱は、例外として認められた白石城(現・宮城県白石市)の主になりました。
徳川家康としては、こんなキレ者を、同じくキレキャラ政宗の側にいさせたらマズイ……と判断したのか。
単純に「仲を引き裂く」という目的もあったでしょうけど、家康のことだから複合的な理由を考慮したのでしょう。
ただし、その頃の景綱は既に病気になっていて、ろくに動ける状態ではありませんでした。
糖尿病らしき病でかなり太ってしまっていたそうで、政宗に「そんなんじゃ今までの甲を着れないだろ。新しいのやるから元気になってくれ」(意訳)と言われています。
どのくらいサイズアップしてたのか気になりますね。
景綱所用の甲冑(現存するのは息子のです)は現存していないので比較できないのが残念です。
それでも10年以上永らえながら、大坂冬の陣の時(1614年)には、もう白石から動けない状態になってしまっていました。
代わりに息子・片倉重綱(片倉重長)を参加させており、死の直前、夏の陣直後に息子を叱りつけたという話があるので、気力だけは最期の最期まで壮んだったようです。享年59。
これぞ武人ですね。
ちなみに片倉重綱は、大坂の陣で真田信繁(真田幸村)に見込まれ、幸村が家康へ突撃する前にその娘を引き取っています。
阿梅と言い、超美形だったとされるので、まさかそれで怒ったとか……。
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いろいろと圧巻の2つの墓
最後に。
片倉景綱のお墓は白石城付近に二ヶ所あります。
ワタクシ、両方とも行ったことがあるのですが、まあ何とも言えないいかめしさを感じたのをよく覚えています。
一つは傑山寺というお寺の奥で、大きな杉の木が目印です。
「敵に墓を暴かれないように」ということで墓標を置かなかったようで、既に江戸幕府ができているのにそこまで警戒するのがまたスゴイ。
もう一つは傑山寺から少し離れた愛宕山というところで、孫の景長(かげなが)が分骨したものです。
こちらには景綱以降の片倉家十代のお墓が並んでいて、九代目までは阿弥陀像を墓標にしており、こちらも圧巻です。というか怖いです。
余談ですけども、愛宕山のほうはあっちこっちにゴミが散乱していて複雑なな気持ちになったのもよく覚えております。
いくらか拾ったんですが、墓石の側に手を伸ばすのがすげえ怖かったです。
ゴミはゴミ箱に捨てましょうね。こんな方のお墓にゴミ放置とか度胸ありすぎんだろ。
最後に蛇足ながら……。
北の関ヶ原こと慶長出羽合戦は非常に展開が面白く、
・上杉景勝
・伊達政宗
・最上義光
といったスター選手たちの攻防、思考がつぶさに味わえるところです。よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
【参考】
岡本公樹『東北─不屈の歴史をひもとく』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
片倉景綱/wikipedia