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菅原道真が重用されるが……/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた

天神様菅原道真が学問の神となる伏線が張られた日【その日、歴史が動いた】

更新日:

学問の神様といえば天神様こと菅原道真。
これからの季節、受験生に大人気の神様ですね。
現在も太宰府天満宮で「特別受験合格祈願大祭」が行われていますので、参加した・これから参加するというBushoo!Japanの読者も多いかもしれませんね。
いや、そもそも受験生はネットやってる場合じゃないですかねw

 

受験生は勉強なんてせずにネットで天神様調べるべし

でも、10月って受験シーズンにはまだ早いですよね。 なぜこの時期に特別祈願をしているのかというと、10月には天神様=菅原道真にとって特別な日があるからです。 平安時代の元慶元年(877年)の10月18日、菅原道真が文章博士に登用されました。

読みは「ぶんしょうはくし」ではなく「もんじょうはかせ」です。
文章博士とは、大学の教授と文筆家・天皇家の先生を兼任するという「なぜ一緒にした?」とツッコみたくなるほどハードワークなお仕事。

もっとも、これには日本人の気質が大きく関係しているので、ただ単に全部押し付けられたとかそういうわけではありません。 日本の学校制度は当初中国の歴代王朝を基本にしていたのですが、中国人と日本人では好む学問の分野が違ったためこうなったのです。
中国では儒学が好まれ、日本では文学や史学に関心を持つ人が多かったので、担当する文章博士の権威も大きくなりました。
そこで天皇家の先生をやったり、貴族からの依頼で漢詩や文章を書くようになっていったのです。 現代でも紙の本や電子書籍問わず「日本人は読書好きだ」って言われることがありますから、民族性なんですかね。

やがて文章博士は身分も引き上げられます。 従五位下という貴族と同等の位を与えられるようになりました。 同格には少納言や少輔など、貴族や戦国武将の官位でよく耳にするものが並んでいます。 そのくらい重要視されるようになったということです。

 

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「菅原」と「藤原」、名前は似ていてももコネがない

時は藤原氏が隆盛を極めんとしていた頃。
下級貴族たちにとって、藤原氏のコネ以外で出世するには、文章博士になるのがもっとも手っ取り早く確実な手段といっても過言ではありませんでした。

そこで下級貴族たちは、息子をこぞって大学寮(国立の官僚候補学校)に通わせるようになります。 道真も同様に、大学寮に入りました

実は道真の生誕地はわかっていません。
そのくらい元の身分が低かったということになります。
とはいえ、小さい頃から詩歌の才があったといわれていますので、少なくとも読み書きなどの教育が受けられるギリギリの家だったという可能性が高いです。
ちょっと意外ですね。

 

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無名の新星、8年で大出世

大学寮は中国の科挙と同じように、試験にさえ受かれば身分の低い者でも入学できました。
ごくごく僅かですが、名字を持たない身分の人が入学した記録もあります。
道真もこのシステムのおかげで頭角を現し、18歳で入学して23歳の時には文章得業生(もんじょうとくごうしょう・文章博士の候補者)に選ばれています。
さらに26歳のときには、文章博士の行う「方略試」(ほうりゃくし)という試験にも合格しました。 本当はここで位階が3つ上がるのですが、それでは文章博士を超えてしまうというので1つに留められたほどです。

無名の青年が頭脳を武器に、わずか8年で大出世……うーん、なかなかドラマチックな展開です。

そして元慶元年に文章博士になった後も讃岐守となって領地をもらったり、宇多天皇と藤原氏とのゴタゴタを片付けるなど活躍しました。

宇多天皇からも厚く信頼され、その息子醍醐天皇の代には右大臣にまで上り詰めました。
隆盛振りは凄まじく、自分の娘を宇多天皇の息子・斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせています。 が、これがやっかみを買う元にもなってしまいました。
ただでさえ余所者が権力を持つことが気に入らない藤原氏です。
直接邪魔をされた上、皇室の外戚となった道真に報復しないわけがありません。

この雰囲気を感じ取った後輩で同年代の三善清行(みよしのきよゆき)が道真に「お前、ちょっとやり過ぎてるからここらで引退したほうが後々いいんじゃないの?」と忠告してくれたのですが、元々この二人は仲が悪かったため、道真は聞き入れませんでした。

仲悪いのに忠告してくれたなんて清行さんマジ善人。

 

大宰府が左遷とかウソでしょ。博多の天神は極楽!

案の定、その後道真は「婿の親王殿下を皇位につけようとしている!」なんてでっちあげられて、都から比べれば未開の地にも等しかった大宰府へ左遷されてしまうのでした。
太宰府天満宮, 福岡県 (Dazaifu Tenman-gu, Fukuoka-ken) - 無料写真検索fotoq

photo by CTG/SF

大宰府で過ごしたのは亡くなるまでの二年ほどでしたが、息子達も流罪になってしまったため、もう家を再興する見込みも絶たれてしまっています。

左遷の首謀者は藤原氏なのか、天皇家内のいざこざによるものなのかわかっていませんが、どちらにしろ道真のミスではありません。
せっかく頑張って一代で官位ナンバー3まで上り詰めたのに、ンな目に遭わされたら祟りたくもなろうというもんです。 でも、もし道真が忠告に従って隠居を選んでいたら、死後祟ることもなく天神様は存在しなかったかもしれないんですよね。
後世の受験生にとっては良かったのかも……なんて言うと祟られそうですが。くわばらくわばら。

長月七紀・記

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参考:太宰府天満宮

 

 




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