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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

足利義詮の登場!って…えーと…誰…? 偉大なる父を持つ二代目のスペック考

更新日:

 

9割8分の人が「誰?」と思う方でしょう

いつの時代も、目立つ人がいれば目立たない人もいます。
最近の幼稚園や小学校では「全員平等に」がエスカレートしすぎて「全員主役」なお芝居をやっているところがあるそうですが、現実にはそうもいきませんよね。ただしそれは第三者や後世の人など他人から見て「コイツが中心人物っぽい」という話であって、自分の人生の主役が自分であるということは間違いないですが。

歴史で言えば、だいたい目立つほうは何かを初めてやった人だとか、後世にデカイ影響を与えた人です。そしてなぜかそれを受け継いだ人については軽視されていることが多いですよね。
あるいは、実はAさんの後継者にあたるのがBさんなのに、二人とも有名すぎて関係性が目立たなくなってしまっているとか。これは世界史の芸術方面に多い気がします。

ではうちの国ではどんな感じかといえば、日本史上欠かせないあのシステムでよくそんなことが起きていました。

正平二十二年=貞治六年(1367年)の12月8日は、足利義詮(よしあきら)が亡くなった日です。
多分今、9割8分の方が「誰?」と思ったんじゃないでしょうか。残り1分が名字で予測のついた方、最後の1分がこの人をご存知の方といった割合ではないかと思います。

『古画類聚』に収められた足利義詮像/Wikipediaより引用

『古画類聚』に収められた足利義詮像/Wikipediaより引用

 

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母親と一緒に人質として鎌倉へ

先に正解を言ってしまうと、室町幕府の二代目の将軍です。つまり尊氏の息子かつ義満のトーチャンです。
なのに教科書にも資料集にもほとんど出てこないので、こんなにも影が薄くなってしまっています。カワイソス(´;ω;`)

でも、やっていることを見ると「実はコレすごくね?」ということが多い人だったりします。同時に影が薄い理由もわかりますので、前置きが長くなりましたがそろそろ彼の人生を追いかけてみましょう。

義詮は長男ではありませんでしたが、正室の子供だったため最初から嫡男(跡継ぎ)として扱われました。
が、当時は鎌倉幕府を倒すかどうかの瀬戸際で、トーチャンは息子と一家団欒を楽しんでいる場合ではありません。しかも尊氏は当初幕府軍にいたので、後になって倒幕軍についた際に義詮とカーチャンは人質になって鎌倉に押し込められてしまいます。
実に幸先の悪いスタートですね。

しかし足利家は源氏きっての名門ですから、忠実な家臣には事欠きません。少なくともこの時代は。そうした人々によって義詮は救出され、当コーナーの推しメンこと新田義貞と合流し、しばらくの間行動を共にします。

 

幼いながらに父を補佐して名門の跡継ぎをこなしている

義詮は(1330年)生まれで鎌倉幕府滅亡が(1333年)ですから、倒幕までの戦で前線に立つことはありませんでした。が、幼いながらに父の代理で軍中状(武士が功績を報告してくる手紙)にサインしていたりと、跡継ぎの自覚を持った行動をしています。
実際には家臣の誰かが義詮(当時は幼名・千寿王)の名で発行したのでしょうけどね。まだ花押とか書けなかったでしょうし。

彼が成長する頃には既に鎌倉幕府は滅びていましたが、皆さんご存知の通り待っていたのは南北朝の混乱です。

義詮はしばらくの間鎌倉周辺の統治をしていたものの、室町幕府ができた直後に重臣と叔父の間で揉め事が起き、いきなり地盤がガタガタになってしまったためトーチャンから呼び出されて京都で仕事をするようになりました。
このあたりの時期には既に20歳前後ですし、実績もできていたので尊氏からの信頼も上々だったようです。状況が状況ですから、ほのぼのとか親子水入らずというわけには行かなかったと思いますが、比較的良好な関係だったのではないでしょうか。
応仁の乱のアホさ加減を知っている後世の人間からすると微笑ましいものです。(当社比)みたいな感じですけど。

 

地味に仕事をこなしお次はビッグネーム義満の登場

元々テンションの上下から体調を崩すこともあった尊氏は、このあたりから寄る年波も相まって病気がちになっていきます。そこに嫡男がしっかり仕事をやれるということを見せてくれたのですから、さぞ嬉しかったでしょうね。

多分家臣の誰かがよほどしっかり教育してくれてたんだと思うんですけども、残念ながらそれが誰だったのかよくわかりません。でしゃばらない人だったんでしょうか。

こうして概ね問題なく権力が移り、尊氏が亡くなると義詮は二代めとして将軍の位に就きました。南北朝の争いはまだ数年続くのですが、その間も訴訟制度の整備など地味に大切な仕事をしています。
が、残念ながらテンションの上下が激しすぎもとい、幕府創設者の父・尊氏と、ダイナミックすぎる発想の息子・義満の間ではその程度でインパクトを与えることはできなかったようです。いやそれでいい。
一番舵取りが難しい「二代め」をこの動乱の中で見事やってのけたのですから、もうちょっと世間的に知られても良いんじゃないかと思うんですけどねえ。

ちなみに義詮のお墓は、かつての敵である楠木正行の隣にあります。
尊氏が楠木正成を認めていたように、義詮も敵とはいえ武士の信念を貫いた正行のことを尊敬していたので、そのように言い残したのでした。
もしかすると、他にもよく似たところのある親子だったのかもしれませんね。それでもやっぱり地味だけど。

 

長月 七紀・記



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参考:足利義詮/Wikipedia

 

 

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