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【足利義詮】
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地味に仕事をこなしてビッグネーム義満の登場
元々テンションの上下から体調を崩すこともあった尊氏は、このあたりから寄る年波も相まって、病気がちになっていきます。
そこに「嫡男がしっかり仕事をやれる」ということを見せてくれたのですから、さぞ嬉しかったでしょうね。
家臣の誰かがシッカリ教育してくれた成果だと思いますが、残念ながらそれが誰だったのかは不明。
こうして概ね問題なく権力が移り、尊氏が亡くなると、義詮は二代目として将軍の位に就きました。
南北朝の争いはまだ数年続きますが、その間も訴訟制度を整備するなど、武家政権として大事な仕事を地味にこなしています。
ちなみに、尊氏と義詮は和歌を得意とする文人でもありました。
ちょっと意外ですかね。
義詮は後光厳天皇へ『勅撰和歌集』の編纂を執奏(提案)しており、天皇がそれを受けて『新拾遺和歌集』の編纂を命じています。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代は、ごく一部の武士しか嗜んでいなかった和歌ですが、この頃になると格段にレベルが向上していることがうかがえますね。
ただ、残念ながらテンションの上下が激しすぎる幕府創設者の父・尊氏と、ダイナミックすぎる発想の息子・足利義満の間では、義詮が後世にインパクトを与えることはできません。
舵取りが最も難しい「二代目」をこの動乱の中で見事やってのけたのですから、それだけでOKじゃないでしょうか。
もうちょっと世間的に知られても良いんじゃないかと思います。
死の直前、大量に鼻血を噴き出していた
地味な印象が強い理由は、享年38という短命も原因かもしれません。
詳しいことはわかっていませんが、三条公忠の日記『後愚昧記』(建武の新政をボロクソに書いている日記)では、
「義詮は亡くなる二日前、大量に鼻血を噴き出していた」
と書かれています。
急激に病状が悪化したのでしょう。
元々体が弱かったわけでもありませんから、鼻血が大量に出る病気というと、急性白血病あたりですかね?
また、義詮は子供が少なかったため、わずか9歳の義満へ跡を継がせざるを得ませんでした。
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それが日本史でも有数の人物になるのですから、歴史の妙というか「事実は小説より奇なり」というか。
義詮のお墓は三ヶ所あります。
そのうち宝筐院(ほうきょういん・京都市右京区嵯峨野)のお墓は、かつての敵・楠木正行(正成の長男)の隣にあります。
尊氏が楠木正成を認めていたように、義詮も敵とはいえ、武士の信念を貫いた正行のことを尊敬していたので、そのように言い残したのでした。
もしかすると、他にもよく似たところのある親子だったのかもしれませんね。
それでもやっぱり地味だけど。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「足利義詮」
足利義詮/Wikipedia