夏目広次(夏目吉信)

三方ヶ原の戦いを描いた『元亀三年十二月味方ヶ原戰争之圖』歌川芳虎作/wikipediaより引用

徳川家

夏目広次(吉信)三方ヶ原で惨敗した家康の身代わりとなった壮絶な死

元亀3年(1573年)12月22日は夏目広次(夏目吉信)の命日です。

大河ドラマ『どうする家康』では甲本雅裕さんが演じられ、劇中、主君の家康から何度も名前を間違えられる役どころ。

それが三方ヶ原の戦いでは、一気に存在感を発揮します。

窮地に陥った家康の身代わりとなって戦死したのです。

あれは本当の話だったのか?それともドラマの創作なのか?

夏目広次の生涯を振り返ってみましょう。

 


徳川に仕える譜代衆の夏目

徳川に仕える譜代衆の夏目家。

元々は信濃国夏目村の地頭が三河に来て松平氏に支えたとされ、現在この土地には「夏目漱石のルーツとしての案内」が建てられています。

そう、かの文豪・夏目漱石は、夏目広次の子孫だとされるのです。

思わず意識をそっちに持っていかれそうになりますが、広次の話を進めますと、彼は永正15年(1518年)、夏目吉久の子として生まれました。

松平元康より25歳も年上であり、親子ほどの年齢差。

広次が壮年期を迎えた永禄年間(1558年-1570年)ともなると、主君である元康もいよいよ力をつけていきました。

元康は以降、何度か改名しますが、本稿ではこれより徳川家康で統一します(以下は徳川家康の生涯をまとめた記事となります)。

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広次は永禄4年(1561年)、三河長沢城攻めに参戦。

永禄5年(1562年)には【三州八幡合戦】で今川氏の猛攻を受け、幾度も危機に陥りながら、殿(しんがり)をつとめた広次が6度も窮地を救ったとされます。

いかにも三河武士といった無骨な働き。

さぞかし家康も絶大な信頼を置いていたことでしょう……と思いきや、主従の関係に大きな亀裂が入ります。

永禄6年(1563年)、三河で一向一揆が勃発するのです。

いわゆる【三河一向一揆】という名称で知られるこの事件。

一向一揆なんて言うと、いかにも「宗教に絡んだ武力行為」として【島原の乱】のキリシタンや、現代カルト教団の暴力行為などを想像してしまうかもしれません。

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しかし、戦国時代にそんな言葉は無く、ただ単に「一揆」とだけ呼ばれていました。

当時、宗教勢力が武装蜂起して独自の権力を持つことは当たり前であり、江戸時代以降、そう呼ばれるようになったのです。

 


一度は主君を裏切った家臣も

神君こと徳川家康は生涯に三度、大きな危機があったとされます。

その一つである【三河一向一揆(三河一揆)】は、とりわけ重大な事件でした。

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当時の家康は、今川家から独立して間もない頃であり、三河の若き国衆が周囲から軽んじられるのは自然なこと。

周辺の敵対勢力との戦いに追われながら、家康はこのピンチをチャンスに変えたとも言えます。

そのキッカケが夏目広次でした。

家康は、深溝松平家の松平伊忠に命じて、一揆方の立て籠もる深溝城近郷の野羽城(六栗城とも)を攻めさせました。

そこは夏目広次のほか、大津半右衛門や乙部八兵衛らが固める一揆の拠点の一つ。

まず乙部八兵衛の内通させると、広次の捕縛に成功したのです。

家康は広次を助命し、帰参を許しました。

忠義と武勇を持ち合わせた広次を斬ることはできない――それは家康の優しさなり……というと、いかにもドラマ仕立てな美談になります。

しかし乱世において、事はそう単純でもないでしょう。

裏切った者をすぐに処分してしまえば、敵対している一揆勢たちが死にものぐるいとなって戦い、自軍の将兵も大きな損害を受けてしまう。

逆に広次を許せば、敵も急に命が惜しくなり、投降に応じる者も増える。

家康の慈悲で命を助けられたと感じた者たちは、その後、強烈な忠誠心を抱くメリットもある。

かくして助命された夏目広次は、三河武士の伝説にふさわしい人物になってゆくのですが、その伝説の最終章は、他ならぬ彼の死によって彩られます。

相手は武田信玄率いる武田軍。

三河一向一揆と並び、もう一つの家康の危機とされる【三方ヶ原の戦い】です。

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