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その日、歴史が動いた 欧州

日本に滞在してたら国が亡くなってた!? オランダ人ドゥーフの悲劇

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ある程度の年数生きていると、自分一人の力ではどうにもならないという状況を経験しますよね。人の気持ちだったり、仕事上の何かしらだったり、血縁者とのトラブルだったり。
そこにさらに命の危険が加わったとしたら、心が折れてしまう人のほうが多いでしょう。
本日は、遠い異国の地でそういう状況に陥りながらも、矜持を貫いたとある外国人のお話です。

1777年(日本では江戸時代・安永五年)12月2日は、後に長崎のオランダ商館長となるヘンドリック・ドゥーフが誕生した日です。

司馬江漢作のドゥーフ。なんだかホッコリする絵ですね/wikipediaより引用

 

オランダがナポレオンに負け屈辱の衛星国に

ドゥーフの前半生については、身分があまり高くなかったようで、あまりよくわかっていません。
詳しくわかるのは、1799年(寛政十一年)に来日してからのこと。というのも、彼が日本に来た後のオランダで大事件が起きていたためです。
当時、オランダはナポレオンに負けて、フランスの衛星国にされてしまっていました。
ときのオランダ国王はイギリスに逃げて援助を求め、イギリスはフランスに対抗するために力を貸すことにします。

この関係は本国以外でも同じでした。
当時オランダ東インド会社が拠点にしていたインドネシアも、フランスの支配下に置かれてしまっており、イギリスがこの辺もどうにかすべく動き始めたのです。当時アジア周辺の海はイギリスの縄張りだったので、こっちのほうがやりやすかったかもしれません。

しかし、その程度で引き下がるナポレオンやフランスではありませんでした。フランスもオランダ東インド会社も、中立国だったアメリカの船を借りて、アジアでの貿易を続けようとします。

こちらの絵ですと、それらしい雰囲気で/wikipediaより引用

 

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オランダ船は引き上げる 黙って言うこと聞けや、ゴルァ

そんな中、長崎に一隻の船がやってきました。掲げられた国旗はオランダのものです。いつも通りオランダの船がやってきた、と思った出島のオランダ商館員と幕府の役人は、小舟で出迎えました。

が、船に乗り移ると、そこにいたのはオランダ人ではなくてイギリス人。同時に国旗もイギリスのものに差し替えられます。イギリス船がオランダ船と偽って入港していたのです。
ついでに、出迎えにいった人々は人質にされてしまいました。

イギリス人たちが言うには、「これこれこういう経緯だから、この辺のオランダ船は全部引き揚げさせる。黙って言うことをききやがれ」(超訳)とのこと。どう見ても人に物を頼む態度じゃありません、本当にありがとうございました。

それでも長崎の役人たちは「そっちの用事はわかったから、商館員たちを返してくれ」と穏便に頼んだのですが、イギリス船からの返事は「いいから水と食料をよこせ」というもの。どう見てもヤクザです、本当に(ry

 

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フェートン号事件に発展

困ったドゥーフと長崎の役人は、とにかく無事に人質を返してもらおう、と考えを巡らせます。
長崎奉行・松平康英は九州の雄藩に助けを求めますが、応援が来る前にイギリス船から新たな要求が届きました。
「人質を一人返すから、薪・水・食料をよこせ。でないと長崎にある日本の船を焼き払うぞ」というものです。どんだけ横暴なんでしょうか。

康英は要求された物資を一部分だけ用意し、「残りも今用意しているから、一日だけ待ってほしい」と伝え、応援が来るまでの時間稼ぎを試みます。
物資を届けた際にもう一人の人質も開放されていたため、ある程度余裕を持てたのでしょう。

翌日、助けを求められた藩のうち、一番近かった大村藩(現・長崎県大村市)からの増援が到着しました。大村藩主・大村純昌は康英と相談してイギリス船焼き討ちを計画しましたが、その時点で既にイギリス船は出港してしまっていました。
この一件を、イギリス船の名をとって「フェートン号事件」と呼んでいます。

イギリス軍艦フェートン号。強制的に入港して一騒動に発展/wikipediaより引用

 

母国がない状態で追い出されたら野垂れ死んでしまう

結果として長崎の町も船も無事に済んだわけですが、あわや交戦というときに兵が足りなかったことで、出島に関連する責任者の中には切腹した人もいました。
ドゥーフも何らかの責任をとってしかるべきですが、幸い(?)にも本国がない状態だったのでそうはなりませんでした。
代わりに(?)ドゥーフと長崎奉行は相談の末、入港時に正規の貿易船かどうかを確認するための信号旗を考えるなどしています。勘合貿易の勘合符みたいなものですね。

ちなみに、多少なりともタダで補給できたということに味をしめた&その他の理由で、イギリス船はその後も度々長崎周辺にやってきています。後々制定された異国船打払令は、これへの対処でもありました。
現代で置き換えるとすれば、「コンビニのまわりに前科アリの不良がたむろするので、警備を強化しました」って感じですかね。

この一件と前後して、ドゥーフたちオランダ人は肩身の狭い思いをしていたようです。
出島にいたオランダ人たちからすれば、「遠い異国で仕事をしていたら、いつの間にか母国が滅びていた。な、何を言っているのか(ry」という感じだったわけですしね。
幕府としても、「滅びた国のヤツをウチに置いといてもねえ……」(※イメージです)という雰囲気が漂っていたとかなんとか。

しかし、母国がない状態で出島を追い出されたら、そのまま海の藻屑か野垂れ死には目に見えています。

 

「春風や アマコマ走る 帆かけ船」……アヤコマって???

ドゥーフは何とか居場所を確保すべく、幕府や長崎奉行所に「日本人から食料や物資を分けてもらいたい。私の持っている本や西洋のものをお売りしますから」と頼みました。
幕府も長崎奉行所も事の経緯を哀れんだようで、相場以上で本を買い取ったりしています。
また、蘭日辞書(オランダ語→日本語の辞書)の編纂も始めました。

このやりとりのうちに俳句に興味を持ったのか、ドゥーフ作と思しき句が伝わっています。

「春風や アマコマ走る 帆かけ船」

アマコマとは一体……ググる先生にお尋ねしても出てこないので、ドゥーフが何かと書き間違えたんでしょうかね。
前後からすると「あくせく」とか「あちこち」なら意味が通じそうな気がしますが、はてさて。

こう書くと忙しそう&生活ジリ貧な気がしますが、その一方で遊女との間に子供をもうけたりもしています。まあ、道行く人に襲いかかるよりはいいですよね。生理現象だし仕方ない。

男の子にはドゥーフの名をもじって「道富」という名字を作り、「丈吉」と名づけて仕事の世話もしていたそうです。ひょっとしたら下の名前も「ジョージ」とかのもじりですかね。オランダ語だと”J”は黙字ですが、オランダ人だからってオランダ語の名前しかつけないってこともないでしょうし。

 

後にオランダから最も名誉の高い勲章が送られた

別の女性との間にも女の子もいたそうですが、二人とも若いうちに亡くなっています。
ドゥーフはその後もイギリスへ出島のオランダ商館を渡すことを拒み、オランダが再び独立国家になるまで守り続けました。
その功績を賞され、オランダから最も名誉ある勲章をもらっています。
「母国がなくなってもオランダ人として生きる」という姿には、幕府や長崎奉行所、出島周辺の日本人にも眩しく映っていたとか。

しかし、帰国途中の船が暴風に巻き込まれ、妻や日本から持ち帰ったものを失うなど、ドゥーフの受難はその後も続きました。本人が助かってるところがスゴイ。
晩年には日本に関する回想録を書いているので、生涯日本には良い印象を持っていたようです。帰国から十年以上後のことですし。

これだけ苦労をしていれば、日本という単語だけでトラウマが蘇りそうなものですが……メンタルも相当強い人だったんでしょうね。

長月 七紀・記

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参考:ヘンドリック・ドゥーフ/wikipedia フェートン号事件/wikipedia

 




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