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不名誉な廃位に追い込まれたナポレオン3世 わずか4ヶ月で普仏戦争に負け皇帝制を終わらせる

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始まりあれば終わりあり――。
とかく世の中は勢いや成り行きで物事が始まるケースが多いですが、一方で終わりのときには出来るだけ有終の美も飾っておきたいところでありますよね。もちろん、なかなか上手くいかないもんですが……本日はそんな感じの、とある君主のお話です。

1870年(明治三年)9月4日は、ナポレオン3世が廃位させられた日です。

「廃位」とは、何やら穏やかならぬ雰囲気ですが、いったいどのような経緯でそうなったのでしょうか。

ナポレオン3世が帝位につくまでの話は以前こちらの記事(過去記事:皇帝になるまで苦節44年のナポレオン3世 「誰、オマエ?」の声が今も昔も聞かれる中で頑張ったその人生とは)で取り上げていますので、本日はその後からみていきましょう。

ナポレオン3世/Wikipediaより引用

ナポレオン3世/Wikipediaより引用

 

自由帝政に切り替え民衆の支持を得る

ナポレオン3世の治世は、大きく2つの時期に分かれます。

まずは、帝位についてからすぐの「権威帝政」と呼ばれる時期です。
(漢字で)書いて字のごとくお上の権威が強かった頃で、「お上のことを悪く言うな! 庶民どもは皇帝の言うことを聞け!」みたいな雰囲気でした。
流石にこの時期ですので(男子)普通選挙は残したものの、裏であれやこれやが行われて恣意的な結果になっており、出版や言論は規制されていたといいます。どこのファシズム国家だ。

しかし、そういったものへの不満が高まりきる前に、ナポレオン3世は大胆な手を打ちました。
専制政治とは真逆の自由主義的な政策を多く取り入れ、「自由帝政」と呼ばれる方向に切り替えたのです。

選挙が(少し)公正になり、反政府派の人も当選できるようになったり、労働者が団結してストライキを行うこともできるようになりました。
あまりにも方向性が変わったので、他の国には「ナ、ナンダッテー!」とばかりに驚かれたとか。

といっても、これらの政策は「民衆に優しくしてあげよう」という意図で行われたものではありません。
「ナポレオン」を名乗る以上、ナポレオン3世は伯父と同じように、戦争で勝ち続けることによって人気を維持しなければなりませんでした。
そのため、ヨーロッパ周辺の戦争にちょくちょく手を出していたのです。

 

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「うまくやらなければ、帝位から引きずり降ろされてしまう……」

クリミア戦争(メインは帝政ロシアvsオスマン帝国)でイギリスとともにオスマン帝国側につき、続くイタリア統一戦争(イタリア諸侯vsオーストリア)ではイタリア側について、ついでに美味しいところを頂戴しようとして、最終的に両方とも勝者側になりました。
特にオーストリア=ハプスブルク家に勝つということは、ヨーロッパの王者になるも同然。

戦争とはちょっと(?)違いますが、北アフリカやアジアへの植民地政策もその一環といえなくもないですね。植民地が増えれば、自国の力とトップの有能さを誇示することができるわけですから。

ただし、戦争となれば勝っても負けても死傷者が出るものです。メキシコでは大失敗もしていますしね。
伯父のナポレオン1世でさえ、これだけ「英雄」のイメージが強い一方で、ロシア遠征の失敗などにより自軍に多くの犠牲者を出したことで「食人鬼」と呼ばれたほどですから、ナポレオン3世は「うまくやらなければ、帝位から引きずり降ろされてしまう」と考えていたことでしょう。

そこで民衆のガス抜きのためにやったのが、自由主義政策のアレコレというわけです。ゲスい……けど政治的にはうまい。
しかし、その次におっぱじめた普仏戦争では、そうそうウマくはいきませんでした。

 

プロイセンからはビスマルク 戦う相手が悪かった

なんせ相手は、新興国家プロイセンとはいえ、ナンバー2は世界史上屈指の外交家・ビスマルクです。

この時期に彼の仕掛けた戦争が、全てドイツ統一のための道筋であったということは以前もお話しましたが(過去記事:なぜ「鉄血」と呼ばれたか? ドイツ・ビスマルクの宰相伝説スタート)、過去記事を読むのが面倒な方向けに、まずは普仏戦争部分の記述だけ抜き出してみましょう。

ビスマルクは、フランスという【ドイツ全体にとって積年の敵】を倒すことが、国内をまとめ上げる最終ステージだと考えていました。共通の敵がいればまとまるのは古今東西お約束ですものね。
そのために、「スペイン王位が空いてるんで、ウチの王様の親戚に行ってもらいますねw」なんて見え透いた挑発をしたのです。

もしこれをそのまま通してしまったら、フランスはドイツとスペインから挟み撃ちに遭ってしまいますよね。そのときになってから対策をしようとしても遅すぎます。
それに、ヨーロッパの戦争は「じゃあウチは得しそうなほうにつくね!」みたいな感じでどんどん違う国が乗っかってきますから、挟み撃ちになったが最後。「大陸中からフルボッコ」になるのは目に見えていました。

ナポレオン3世からすれば、伯父さんがそういう目に遭っているわけですから、なんとしても避けたいわけです。伯父にできなかったことが自分にできるわけがない……とも思っていたことでしょう。

ですから、どんなにあからさまでバレバレだったとしても、フランスは「プロイセン王家の親戚がスペイン王になること」を防がなくてはなりませんでした。
こうして起きたのが普仏戦争です。

 

わずか4ヶ月で降伏 首都も占領されてしまう

しかし、植民地のアルジェリアまで動員しても35万しかいないフランス軍に対し、プロイセン軍は再編成されて50万。
しかもプロイセン軍は、度重なる近所での対外戦争に勝って士気は最高潮です。
上記の通り、フランス軍も一応勝ち馬に乗ってはいましたが、自国のための戦争ではありませんでしたから、そういった点でも差がついたのです。

これが如実に現れているのが、この戦争の行われた期間です。
だいたいの戦争って、数年間かけて行われますよね。しかし、普仏戦争は開戦からたった4ヶ月で皇帝が降伏して敵国の捕虜になり、その後首都が占領され、一年強で終わってしまっているのです。

当然、ナポレオンが9月2日に降伏し、翌日そのニュースが届いたとき、フランスの民衆は怒るわ、嘆くわ、呆れるわの大混乱。民衆をなだめるためにアレコレやっていた自由主義的な政策(で抱かせた好感度)も、「皇帝が捕虜になったぞー!!」の一報で木っ端微塵に吹き飛びました。
さらに「たった4ヶ月で負ける皇帝なんかいらない!」とまでエスカレートし、降伏のニュースが入った次の日、9月4日にナポレオン3世は廃位されてしまったのです。

一応フォローを入れておきますと、ナポレオン3世は戦況が不利になったとき「私に兵を殺す権利はない」として、自ら降伏を選んでいます。それなら戦争する権利もない気がしますが。

ちなみに、パリで内政を任されていた皇后ウジェニーは「アンタが先頭に立って突撃すれば勝てるわよ! 何チンタラしてんの!? そうすれば名誉の戦死()ってことになって、息子が跡を継げるじゃない!」(超訳)という意見でした。カーチャンこわい;;
こういった終わり方だったこともあり、フランスではその後「もう君主なんていらない! 自分たちで政治をやっていくんだ!」という考えが主流になり、パリ・コミューンという大騒動(※マイルドな表現)を経て、第三共和政~(中略)~第五共和制(現在)に至るわけです。

今回はアレなところばかりお話してしまいましたが、ナポレオン3世にはもうちょっといい仕事をしたところもあるので、またいずれ。

長月 七紀・記



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参考:ナポレオン3世/Wikipedia

 

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