武田信玄と城――。
戦国ファンの中でも、よほどの武田氏LOVEな方でない限り、信玄と城の関係について深く考えることはあまりないと思います。
なんせ「人は城、人は石垣、人は……」なんて言葉が拡散しておりますように、「人材を活かしてこその信玄!」というイメージも強いでしょう。
ましてや本拠地を漢字で書ける方はかなり少ないはず。
「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」です。
まぁ、私も手書きで書けと言われたら厳しいですし、最初は読めなくても仕方ありません。
『信長の野望』で「よし! 信玄で暴れまくるぞ!」と威勢よく選んでも、いきなり本拠地が読めない上に「てか、館て、お城じゃないんかーい(´・ω・`)」となるぐらいですもんね。
しかし……。
信玄にとって城が重要じゃない――だなんて考えは、大いに間違っております。
むしろ信濃への侵攻は、きちんと城攻略をベースとして進めており、重要視していたことが史実からも読み取れます。
つーことで今回は【信玄と城】をテーマに進めて参りたいと思います。
なお、躑躅ヶ崎館は、現在、武田神社になっています。
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躑躅ヶ崎館の北に「要害山城」を備えておりました
甲斐国の武田居城――躑躅ヶ崎館。
鎌倉から室町時代にかけて建てられた武士の住まいの延長線上にあるような「館」であるため、信玄の城イメージが薄れてしまいがちです。
が、その館の少し北に「要害山城」という防御力ハンパない山城を備えています。ついでに温泉も備えています。
要害山城登城後の積翠寺温泉は最高ですよ。日帰り入浴可能です。
温泉はさておいて、この城は、敵に攻められた時に立てこもるための詰めの城と言われています。
いざ戦闘になれば「躑躅ヶ崎館」を捨て、戦闘用の山城(=要害山城)に移ればいいじゃん!という考えですね。
実際、武田信虎(信玄のオヤジ)の時代に、駿河、今川家の武将・福島正成(くしままさなり)に侵攻されたとき、信虎は家族を要害山城に避難させています。
その時に生まれたのが武田晴信。
そうです、後の武田信玄です。
永正18年(1521年)11月3日のこと。実は信玄、山城生まれだったんですねえ。
「躑躅ヶ崎館」と「要害山城」を2つも築いているなんて、まるでiPhoneとAndroidスマホの2台持ちですが、武田家に関わらず、戦国時代初期ではこれが一般的でした。
では信玄は、甲斐領国において躑躅ヶ崎館と要害山城しか持っていなかったのか。
これも少し誤解があります。
甲斐の国東部である武蔵国との国境付近には【岩殿山城】があり、甲斐南部の駿河との国境付近には【勝山城】など、国境にはしっかりと山城を築いています。
信玄のオヤジ・武田信虎の代には、勝山城を今川勢に奪われ、拠点にされたりしてもいますね。
こうした情勢に変化が訪れたのは【甲相駿三国同盟】が結ばれてから。
信玄の代になって南の今川義元、東の北条氏康と外交関係が結ばれ、甲斐国南部と東部に割いていた兵力を甲斐国北西部、つまり信濃地方への戦力に集中させられるようになりました。
さすが信玄。
戦力が充実している駿河(今川)と武蔵(北条)に比べ、信濃は小さな国人衆が群雄割拠としていました。
ゆえに付け入る隙は信濃にあり――そう考えるのもよく分かります。
※赤の拠点……高遠城(下)と砥石城(上)
※黄の拠点……(左から)躑躅ヶ崎館、要害山城、勝山城、岩殿山城
ということで、岩殿山城や勝山城の重要性は知名度と共に薄れていきます。
戦いは北西部の信濃地方へと移り、それと共に「武田信玄の城」も信濃地方へと移っていくのでした。
本拠地を次々に移した信長さんがおかしい
築城の基本は「要害を築いて侵されない」ことです。
戦国後期から江戸時代にかけ、城は権威の象徴としての「見栄え」が重要になっていきますが、信玄の時代は「要害」であることが最も重要。
軍事進攻の基本は「影響力を及ぼしたい地域に橋頭堡を築くこと」であり、これは古今東西を問わぬ軍事の根本です。
また、戦をするなら自分の領国内ではなく、領国外でするのも軍事の基本です。
例えば織田信長も、若い頃からこれを徹底しています。
それだけではありません。
信長は、領国の拡大とともに本拠地を
清須城
↓
小牧山城
↓
岐阜城
↓
安土城
と移していきました。
今となっては当たり前のように語られたりしますが、実は例外中の例外。
ほとんど織田信長だけが実行しており、9割9分の戦国武将たちは自分の本拠地を移転することはありません。
戦いの場が、信濃地方の奥深くに移ろうとも、躑躅ヶ崎館が古くさい館だろうとも、諏訪の姫がいくら美人だろうとも、上杉謙信がどんなに憎らしくても。
武田信玄の本城は躑躅ヶ崎館!であり、居城を動かすこと自体「は?ありえないんですけど」が常識でした。
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