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【信玄と城】
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城は多すぎても維持できない そこで開発されたのが…
さて話は戻りまして。
信濃地方に影響力を及ぼしたい武田家(信玄のオヤジの代から狙っています)は、信濃地方に橋頭堡、すなわち城の獲得を目指します。
狙いは甲斐と南信濃の国境付近にある高遠城。
ここを奪えば信濃への最初の足がかり、つまり橋頭堡を築けます。
城を奪うために画策した諏訪氏や高遠氏とのめくるめく戦いについては割愛。
重要なことは、橋頭堡を築きつつ、さらに信濃の奥へと侵攻していったことです。
橋頭堡として国境の、すなわち「境目の城」ではありますが、単なる防御線ではなく、次の攻撃目標への前線基地でもありました。
そして次の攻撃目標を奪い新たな橋頭堡を得られれば、その城は後方の基地、すなわち躑躅ヶ崎館と新しい前線基地を結ぶ「支城」となるのです。
こうして見て行くと、武田信玄が本拠地の甲斐に城が極端に少なくて、信濃に多くの城を持っていた理由が明らかになってきますね。
信濃のように縦深のある国は、多くの支城が必要になってきますが、かといって多過ぎても維持できません。
さらに信濃は山間部が多い国です。
そこで考えたのが烽火台でした。
武田流築城術として代表的な「丸馬出し」
「本拠地は動かせない」
そんな当時の常識(「信長は基本非常識」ぐらいに覚えてた方が分かりやすくなると思います)に当てはめると、烽火台は武田オリジナルというよりは、本拠地と前線を繋ぐ信濃で必須のネットワークでした。
では、武田家の前線基地はどのような城だったのか?
まず前提として意識しておきたいのが、
「信濃地方に前線を拡大する戦略」
を構想していたことです。
拠点の要害でありながら、次の攻撃基地でもあり、しかも他国への橋頭堡でなくてはならない。
つまり武田の城は専守防衛ではなく、攻撃もしなければなりません。
この戦略思想が形としてはっきり現われたのが武田流築城術として代表的な「丸馬出し」です。
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