ウクライナ侵攻が世界から非難轟々であり「日本も決して他人事ではない!」という声も上がっています。
これを「大袈裟な……」と冷笑する方は、今や少数派でしょうか。
事実、ロシアの南下政策に対しては、江戸時代(幕末)の日本でも真剣に検討され、現実に作られた施設もあります。
箱館の五稜郭です。
あのギザギザとしたトンガリスタイルの城郭、そもそもは対北方の敵を想定して築かれた要塞でした。
なぜならロシアは、アメリカよりずっと先に日本へ開国のアプローチ・プレッシャーをかけていたのですから。
ペリーばかりが注目され、実はそれよりずっと脅威だった、幕末の対ロシア政策。
本稿では、その様子をまとめてみました。
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黒船よりずっと早い! ロシアの脅威
嘉永6年(1853年)。
浦賀沖に姿を見せた黒船に、日本中は衝撃に包まれた――そんな場面は大河ドラマ等でおなじみです。
ただし、これが日本と異国船のファーストコンタクトではありません。
嘉永6年から10年以上前の1840年代。
南端の薩摩藩や、太平洋側に長く海岸線の続く水戸藩では、すでに異国船への対応が課題として認識されておりました。
遡れば文化5年(1808年)にはフェートン号事件も起こっております。
このとき幕府は口をつぐむオランダではなく、別の国からヨーロッパ事情を聞き出しております。
ロシアです。
日本が異国船の脅威、西洋の圧迫感を覚え始めた契機は、実は北方のロシアからのものが最初でした。
しかし、幕府も北方を軽視していたのか。
長崎を襲われたフェートン号事件、そして浦賀の黒船と比較してどうしても重視されません。
ロシアが迫る蝦夷地は松前藩が治めており、「無高(一万石高)」の大名でした。彼らはアイヌとの交易を中心として藩財政を成立させていたのです。
そんな松前藩が広大な蝦夷地を守り切るのは、どうしたって無理がある。
そこで幕府が頼りにしたのは、奥羽(東北)の諸藩でした。
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蝦夷地が幕府領だった時代がある
江戸時代を通した蝦夷地といえば、松前藩の領土です。
しかし例外があり、幕府領となった時期もありました。以下の通りです。
◆第一次幕領期(1799〜1821)※松前藩は梁川へ転封
◆第二次幕領期(1854〜1868)
こうして振り返ってみますと、いくつか惜しまれることがあります。
まず、第一次後にあった約30年もの空白期間(1821~1854年)です。
第二次は黒船来航の翌年からであり、実質的に幕末期。
もし、第一次からずっと警備をしていれば、歴史は異なっていたでしょう。
第一幕政期のあいだ松前藩は転封とされてて、注目は第二次幕領期です。
戊辰戦争に奥羽諸藩が巻き込まれ、実質的に蝦夷地がガラ空きになってしまったのです。
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奥羽諸藩は、後の中央政府に絡まないため、どうしても軽視されがち。
幕末モノの作品にしても、薩摩藩や長州藩の引き立て役となりがちで、国際感覚が欠如していたという描写も見られます。
しかし、です。
実は彼らは、黒船来航よりもはるかに以前から、ロシア脅威に対して論考を重ね、蝦夷地警備にも駆り出されていました。
それは決して楽な仕事ではありませんでした。
江戸時代の諸藩は、時間を経るごとに、政治的や構造の矛盾によって問題が山積みとなり、特に奥羽の諸藩は飢饉の影響を受けやすく、どの藩も財政難に苦しんでいました。
それでも彼らは、蝦夷地を守ろうとしていたのです。
例えば第一次の幕領期には、以下のような分担が課されておりました。
【第一次幕領期】
弘前藩:西蝦夷地、国後、択捉警備担当
盛岡藩:東蝦夷地、国後、択捉警備担当
仙台藩・秋田藩・鶴岡藩・会津藩:非常時出兵担当
この奥羽六藩は、時に交替しながら警備を担当。
極寒の地においては、栄養不足による疫病の発生により死者が多発することもありました。
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