江戸時代の初期~中期は、武士にとって大きな変化がありました。
戦国時代を武家として乗り切れず、他の大名家に仕えて生き残った人もいれば、そもそも武士ですらなくなった人もいます。
江戸時代の文化人として有名な近松門左衛門(1653-1725年)も、実は後者の流れを汲む、元武家の人でした。
悲恋モノの傑作『曽根崎心中』の作者でもある彼は、いったいどのような人生を送り、歴史に名を残したのか。
享保9年(1725年)11月22日が命日でもある、近松門左衛門の生涯を追ってみましょう。
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福井藩に仕えた父 母は侍医の娘
近松門左衛門の本名は、杉森信盛といいます。
戦国時代の杉森家は浅井家などに仕え、父・信義の代には福井藩に出仕するようになっており、門左衛門も福井で生まれたと考えられています。
母は福井藩主の侍医の娘で、弟も医者でした。
武士の家ではありますが、肉体派というよりは頭脳派なイメージが湧いてきますね。
門左衛門が10代の頃、父の信義は福井藩を辞して京都に移り住みました。
もちろん、まだ独り立ちしていなかった門左衛門も一緒です。
京都では様々な公家に仕え、主を通じて文学に触れるようになった……と考えられています。
このあたりまでのことは詳しい記録が残っていないため、アヤフヤな表現になるのはご勘弁ください。
公家の間に人形浄瑠璃の愛好家が増えていたので、そこから門左衛門が著作側に入った可能性が高い、とされています。
また、当時の京都には評判のいい浄瑠璃語り・宇治加賀掾がおり、彼のために浄瑠璃を書くようになったとか。
転機は天和三年(1683年)『世継曾我』
実は当時、浄瑠璃や歌舞伎などの台本の書き手は、実名を書かないのがセオリーでした。
門左衛門の初期の作品も、ほとんどはそうだと考えられています。
転機は、天和三年(1683年)の『世継曾我』です。
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これが好評となり、浄瑠璃演者の間で、門左衛門の名が密かに知られるようになっていきます。
特に、大坂道頓堀で竹本座を旗揚げしたばかりの竹本義太夫がこの作品を名演したことで、作家としての仕事が軌道に乗り始めました。
門左衛門は、並行して歌舞伎・狂言の台本も書いており、次第に浄瑠璃に力を入れていくようになります。
そして、義太夫のために書いた最初の世話物浄瑠璃が、自身の代表作にもなる『曾根崎心中』でした。
「この世の名残、世も名残……」
「世話物」とは別に誰かのお世話をするお話のことではなく、日常生活――特に庶民の生活を描いた作風のことです。
現代ではあまり使われない意味ですが、辞書には載っていますので、覚えておくと役に立つかもしれません。
曽根崎心中は、元禄十六年(1703年)の春に起きた、同地での心中事件が元ネタ。
既に歌舞伎でも、題材を同じにした演目が行われていました。
現代であればネタかぶりはご法度……というか内容によっては著作権問題も懸念されるところですが、江戸時代は、歌舞伎や浄瑠璃、あるいは小説などで同じネタを使うのはよくある話です。
他に有名な例だと
『義経千本桜』
『忠臣蔵』
などが似たような感じですね。
曽根崎心中といえば近松門左衛門の書いた浄瑠璃――。
そんなイメージがついたのは、なんといっても最後の章である”道行”の
「この世の名残、世も名残。死にに行く身を例ふれば、あだしが原の道の霜……」
で始まる美しい文章ですね。
これにより、事の悲劇性を観客に強く印象づけました。
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