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【近松門左衛門と曽根崎心中】
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心中カップルが増えてしまった!?
『曽根崎心中』があまりにも見事な描写だったせいか。
この作品のせいで一時期、心中カップルが増えてしまったと言います。近松門左衛門に責任はないにしろ、罪悪感は感じたかもしれません。
現代でも、不倫モノの小説がブームになったり、芸能人が不倫に肯定的ともとれる発言をして、実行してしまう人もいますしね。
興行した義太夫にとっても、この成功は大きな転機となりました。
大きな借金を抱えていた義太夫は、曽根崎心中の好評によって一気に返済できたのです。
これを機に、義太夫は竹本座の座本(責任者)から撤退。
門左衛門は代替わりした座本とコンビを組んで、引き続き浄瑠璃を書き続けています。
大アタリを生んだことで収入も安定し、余裕ができた門左衛門は、新しい作劇法を始めることにしました。
心情描写により力を入れて、人によっては冷たく見えてしまう人形浄瑠璃に、より活き活きとした力を与えようとしたのです。
世話浄瑠璃と時代浄瑠璃
宝永二年(1705年)に書かれた『用明天皇職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』は、その代表格でしょう。
聖徳太子の父・用明天皇が、仏教の受け入れについて他の皇族と対立し、最後には勝って仏教を本格的に受け入れ、広める……という話です。
こういった歴史的な題材を用いたものは「時代浄瑠璃」と呼ばれます。
他に『平家女護島』『信州川中島合戦』などがあり、なんとなくタイトルで歴史モノという感じがしますね。
『平家女護島』『信州川中島合戦』は、義太夫の子・政太夫(二代目竹本義太夫)に書いたもの。
政太夫は情を細かく語ることが得意な演者で、近松もそれに合わせた作品を書いたといわれています。台本に役者を合わせるのではなく、役者の持ち味を活かすような脚本を書くという方法ですね。
こうして、見事にヒット作家となった門左衛門でしたが、心中は多少の苦悩もあったようで…。
当時、台本の書き手は役者よりも下に見られており、貞享年間から作者名を表に出していた近松のほうが珍しいくらいでした。
実際、そこを中傷されたこともあります。
それでも名前を出すことにこだわったのは、覚悟と自信・自負の現れだったのでしょう。
彼にはザッと次のような浄瑠璃作品がございます。
◆世話浄瑠璃
『堀川波鼓』
『五十年忌歌念仏』
『丹波与作待夜の小室節』
『冥途の飛脚』
『夕霧阿波鳴渡』
『長町女腹切』
『大経師昔暦』
『鑓の権三重帷子』
『山崎与次兵衛寿の門松(ねびきのかどまつ)』
『心中天の網島』
『女殺油地獄』
『心中宵庚申』
◆時代浄瑠璃
『用明天皇職人鑑』
『雪女五枚羽子板』
『傾城反魂香』
『百合若大臣野守鏡』
『碁盤太平記』
『大職冠』
『嫗山姥』
『国性爺合戦』
『平家女護島』
『津国女夫池』
『信州川中島合戦』
「特に賢いわけでもない、世の中のはみ出し者だ」
門左衛門は、最晩年にこんなことを書き残しています。
「私は代々武士の家に生まれたが武門を離れ、公家に仕えても取り立てられず、商才があるでもなく、特に賢いわけでもない、世の中のはみ出し者だ」
我々からすると「そこまで卑下しなくても……」と思ってしまいますよね。
世間からは好評でも、本人は満足していなかったのかもしれません。
あるいは、逆に「既存の生き方よりも楽しかったから、私は誰に何といわれても満足だ」と言いたかったのでしょうか。
……どっちもありえそうですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「近松門左衛門」
近松門左衛門/wikipedia