明確に線が引かれているようで、実際は行ったり来たりしているフシギな職業。
今に始まったことではなく、歴史的必然なのかもしれません。
平安時代の貴族しかり。
戦国時代の僧侶(太原雪斎や安国寺恵瓊)しかり。
『机でのお勉強が、リアル社会でどんだけ使えるんだよ』
なんて鼻息荒くなる向きもありますが、やはり知識こそが政治や経済政策での武器にもなり得ましょう。
そんな学者の中でも、江戸時代、際立って名を馳せたのが新井白石です。
新井白石と言えば朱子学――小中学校の授業では、そんな風に習いますが、彼の生涯となると深く突っ込んだ経歴を見る機会は少なかったように思えます。
いったい彼はどんな人物だったのか?
明暦3年(1657年)2月10日生まれ、新井白石の生涯を追ってみましょう。
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祖父の主君は関が原に破れ
新井白石の家は、戦国末期からなかなかの苦労をしています。
白石の祖父・勘解由(かげゆ)は、常陸下妻城主・多賀谷宣家(岩城宣隆)に仕えていました。
しかし、関ヶ原で主君が改易されて自身も浪人になると、そのまま慶長十四年(1609年)に死亡。
白石の父・新井正済(まさなり)は、9歳の時に勘解由と死別し、豪農に養われてたと伝わっています。
暫くの間、正済本人はそのことを把握してなかったそうで、13歳のときにそれを知ると江戸に出奔しました。
当時、流行っていた傾奇者(江戸時代版ヤンキーみたいな人)になっていたのですが、31歳のときに縁あって上総久留里城主・土屋利直に仕え始めます。
もちろん生活態度も改め、主君から信任を得て、目付職を務めるまでに出世。
明暦3年(1657年)に生まれた白石も、幼い頃から利直に気に入られていたようです(同年に江戸で日本史上最大の大火事が発生・以下に関連記事)。
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しかし、利直の跡を継いだ長男・土屋直樹が心身に支障を来したことを理由に、正済は勝手に出仕をやめてしまいました。
そのため、親子揃って藩を追い出された上、
【他藩へ仕えることも禁じられる】
という憂き目を見ることになります。
いわゆる【奉公構(ほうこうかまいorほうこうかまえ)】ですね。
戦国時代の水野勝成が、父親にこの奉公構に処され、豊臣秀吉や加藤清正、黒田長政など名だたる大名のもとを転々とした話が割と有名かもしれません。
※あるいは黒田長政に奉公構を出された後藤又兵衛なども
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商売より学問 そして大老・堀田正俊に仕える
奉公構で出されても、優秀な新井白石の名は社交界で密かに知られていたようです。
土屋家を追い出されると、複数の豪商から「商家の婿養子にならない?」という話を持ちかけられます。
生活のことを考えれば、この話を受けたほうが良かったでしょう。
しかし、白石はあくまで『学問に生きていきたい』と考えたようで、この手の誘いを全て断っています。
一方、そのころ土屋家では、久留里藩の領主という立場から引きずり降ろされ、一旗本に没落してしまいました。これにより土屋家からの奉公構も解除され、白石は改めて武家に仕えることができるようになります。
天和二年(1682年)、白石は、当時の大老・堀田正俊に仕えました。
これでやっと順風満帆……といいたいところですが、残念ながらそうはいきません。白石の責任ではなく、正俊が、親戚で若年寄の稲葉正休に殺されてしまったからです。
原因は未だ不明ながら、当時の価値観だと、
「武士のくせに不覚を取るとは情けない」
とも見られ、被害者側もそれなりの処罰を受けてしまいます。
このケースでは、堀田家に対して将軍・徳川綱吉やその他幕閣からの冷たい目が向けられました。
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白石としても、せっかく腰を落ち着けられそうだと希望を抱いていたところに水をさされて、さぞ落胆したことでしょう。
しかし、彼の学問への情熱は消えませんでした。
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