今回は『信長公記』巻九ラストの節。
天正四年(1576年)年末のお話です。
この年の暮れ12月10日、信長は三河の吉良(愛知県西尾市)で鷹狩をするため、安土を出発しました。
ひょっとしたら今回はただの鷹狩ではなく、天皇へ獲物を献上するためだったかもしれません。
どういうことか? 早速、見ていきましょう。
吉良上野介でお馴染みの愛知県吉良へ
目的地の吉良は、吉良氏発祥の地とされる場所です。
元禄赤穂事件で有名な吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の吉良氏ですね。
義央自身は江戸で生まれ育っていますが、彼もこのエリアの領主でした。
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この日は佐和山へ宿泊し、11日から22日にかけて岐阜・清洲を経て、吉良へ到着。
結構な距離を移動しておりますので、地図で確認しておきますと……。
左(すべて黄色)から安土城・佐和山城・岐阜城・清州城と来まして、紫色のところが現在愛知県の吉良になります。
吉良のどこで鷹狩を行ったか――細かい場所は不明でしたので、吉良上野介義央の菩提寺・華蔵寺(けぞうじ)をマーキングしておきました。
このエリアで3日間かけて鷹狩を行っています。
冬期の鷹狩は寒さに強いオオタカ
どんな種類の鷹・鷲を用いたのか、どんな獲物を捕ったのかは書かれていません。
いくつか推測できる点としては、用いた鷹の種類などがあります。
秋から春、つまり冬期の鷹狩では、体が大きく寒さに耐えられるオオタカが用いられることが多かったようです。
オオタカよりも体が小さいハイタカなどは、冬期の鷹狩で命を落としてしまうこともありました。ですのでおそらく、このときの信長もオオタカを使っていたと思われます。

オオタカ/photo by Norbert Kenntner wikipediaより引用
オオタカの獲物となるのは、ナベヅル・カモ・ハクチョウ・ガンなど。おそらくこれらの鳥が獲物だったのでしょう。
特にツルは縁起物であり、武家では吸い物にして食べることが多かったため、この鷹狩でも積極的に狙ったのではないでしょうか。
年末=正月料理に向けて準備する頃合いでもありますし、三日間かけているのもツルを求めてのことだったのかもしれませんね。
お祝い事を控えていたから?
なぜツルだったのか?
というのを少し深く考えてみますと、
「この冬に正親町天皇が安土へ行幸(天皇の外出)する予定があった」
「正親町天皇が誠仁親王に譲位する予定だった」
という説がありまして。
行幸や譲位・即位といった日本最大の祝い事に際して献上するとなると、やはりツルは欠かせなかったでしょう。
江戸時代になってからも、天皇に献上するツルは将軍が自ら鷹狩をして捕っていた、なんて記録もあります。
内心はともかく、表向きは持ちつ持たれつの関係だった正親町天皇へ、信長がツルを献上しようとしたとしても、おかしなことではありません。
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実際には正親町天皇の行幸は行われていませんので、これもまた推測でしかないのですが……。
まだ安土城も完成していませんから、行幸があったところでどこでお迎えするのか?という問題もあります(※安土城天主閣の完成は天正七年(1579年)5月)。
26日には清洲に立ち寄ったと書かれているため、おそらく25日中、あるいは26日の早い時間に吉良を出立したと思われます。
30日には岐阜に到着し、ここで年越しをしました。
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【参考】
日本鷹匠協会
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)




