坂本城といえば明智光秀!
明智光秀といえば坂本城!
ということで今回は、城郭どころか城跡すらほとんど残っていない坂本城に注目です。
吉田兼見の『兼見卿記』によれば、元亀3年(1572年)正月頃に築城の始まったこのお城。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも光秀が散々頭を悩ませていましたが、一体何がどのように重要だったのか?
周辺の状況(宇佐山城や琵琶湖)なども共に考察を進めていきましょう!
当時の姿を偲ばせ……てくれない坂本城!
築城当時の坂本城は、大天守と小天守を併せ持つ、石垣造りの最新鋭城郭でした。
この頃はまだ天守を備えた城郭は珍しく、そのうえ琵琶湖の湖面に浮かぶように建つ勇姿はかつてないほど壮観で見る者を圧倒したと伝えられています。
そんな坂本城を期待して現地を訪れると……ない! 面影は何もない!
天守、いや、本丸さえもどこだか分かりません。
この辺り……だという場所では、すき家が牛丼を売っている。
そうだ! 坂本城址公園があるじゃ……って、違うんです。
【城址公園は坂本城内ではない】と当の城址公園自体が認めているほどです。
悲しいかな、明智光秀の坂本城は現代の地図上からすっかり消されてしまい、光秀の前半生と同じぐらいの謎になっていました。
しかし!
そういう場所でこそ真価を発揮してこそ城マニア。
今回はその過程を追いながら、史実の考察や妄想も含めて坂本城を再現してみましょう。
築城当時の証言から妄想してみよう
坂本城は、まったく記録がないワケでもありません。
当時、明智光秀に招かれたり、所用があって城を訪れた人たちの記録が残っています。
しかし……。
京都の吉田兼見
「坂本城の小座敷に招かれました~!(インスタ風に)」
堺の津田宗久
「なんと天守2つに茶室までありましたわ(値踏みするように)」
薩摩の島津家久
「坂本城に招かれたでごわす。城内の備蓄は完璧でごわす。座敷船で琵琶湖に出たでごわす(二日酔い)」
ルイス・フロイス
「坂本城は日本にかつてない規模デスネ。モチロン、安土城の次に、ネ!(信長に忖度しながら)」
という程度で、城自体の詳細な大きさや外観は書き残してくれてません。
よし、こうなったら私自ら行って見てきてやろう!ということで坂本城に行ってきたんですが……。
現地に行って妄想してみよう
……なんとも……予想以上に市街地です。
しかし、現地の住所名や、やや不自然な道路のカーブ、そして琵琶湖に近い立地や、何となく湖面に接したエリアからは「水城」だった雰囲気が。
実は坂本に点在する寺には【坂本城から移設された】と伝えられる門がいくつか残されてて、以下の「西教寺の総門」や「聖衆来迎寺の表門」が該当します。
フフッ。だんだん、見えてきましたよ。
何もない!と、思われるかもしれませんが、やはり現地に行って、その土地の空気に触れることは重要です。
坂本城の本丸付近と言われている場所ですき家の牛丼を食べ、マクドナルドでコーヒーをすするだけで、もう明智十兵衛の馳走を受け、茶会に招待された気分になってきましたよ!(涙目)
と、強がりはここまでにして。
坂本城の全貌を知るにはあまりに市街地化してしまっていて、どういう構造をしていたのかはさっぱり分かりません。
しかし、城郭には、そこに築城された理由が必ずあります。
ということで、次は、坂本城がなぜこの地に築城されたのか、その謎に迫ってみましょう。
坂本の町は知られざる大商業都市
坂本は、比叡山の門前町として有名です。
同時に、あまり知られていないのが、そこが当時の日本を代表するような【大商業都市】でもあったことです。
有力な寺の門前町が経済的に繁栄するのは想像に難くないでしょう。
坂本の町、特に比叡山の麓「上坂本」と呼ばれるエリアには、隠居した僧侶の住居(里坊)や関連する寺院、日吉大社もあり、数多くの僧侶たちの広大な荘園と住居、そして寺社仏閣がありました。
そうなると臭いますよねw
もうゼニの臭いがプンプン。
坂本の町というのは、越前から京都に至る北国街道(北陸道・西近江路)が通り、宿場や馬借もある、交通の要衝でもあったのです。
とはいえ、ここまでの話なら他の商業都市でもよく見られる条件であります。
実は坂本の町には、さらにもう一つ重要な機能がありました。
それが
湊(みなと・港)
です。
下坂本エリアは琵琶湖に面しており、多くの湊を整備。大量の物資輸送を支える一大拠点となっていました。
特に、一大消費地である京都に向けた北国各地からの物資は、一度、日本海の敦賀に集められると、陸路を通って琵琶湖北端の「塩津」の湊に送られます。
塩津で再び船に載せられた大量物資が琵琶湖を南下し、南部の湊「坂本」へ送られ、そこからまた陸路で峠を越えて京都に運ばれたんですね。
そうです。
坂本の湊は、都の物流も支える経済の大動脈でした。
このような物資の集積地には必ず問屋業が発展します。
「問丸(といまる)」です。
人や物が集まり、商業都市となると金融業も発展します。
「土倉(どそう)」です。
こうして坂本の町は陸運(馬借)、水運、問丸、土倉などを備えた大商業都市として発展していったのです。
では誰がこの土地を支配していたのか?
それが坂本を門前町としていた比叡山でした。
坂本の元締めである比叡山には、関所や湊からの関税や運上税という莫大な利益が納められていました。
「そんな美味しい既得権を、ゼニに敏感な信長様が見過ごすはずがない!」
ということで、坂本の湊の機能をもう少し詳しく解剖していきましょう。

織田信長/wikipediaより引用
湊町・坂本の実力
坂本には「三津浜」と呼ばれる湊があったと言われています。
・戸津
・今津
・志津
という3つの湊の総称ですね。
ここで陸揚げされた物資は京都へ向かう街道【今道(路)越】につながっていました。
今道越は、山中越え、もしくは志賀越道とも呼ばれ、宇佐山城下から峠を越えて、京都の東山や銀閣寺の北側辺りにつながる陸路の要衝です。
最近では、三津浜と呼ばれる「地域」に6つの町が存在したという説もあります。
そのうち下坂本の南部で「戸津、坂井、今津」が1つのグループを形成し京都方面へ。
そして下坂本の北部に「富ケ崎、比叡辻、三津河」のグループが存在し、こちらが比叡山や日吉大社方面に繋がり、上坂本の門前町をお得意様としていたと目されています。
当時の比叡山は、山頂から麓までに何千人もの僧侶や老若男女が住んでいた巨大な宗教都市です。
もうこれだけで十分商売できる規模。
また比叡辻には馬借があり、物資輸送も整っていました。
このように坂本の町は単なる門前町ではなく、
・比叡山
・京都
という、超巨大な二つのマーケットを支えていたことが分かります。
朝廷に脅しをかけたり、信長相手にメンチ切ったり――比叡山がやたらと強気でアンタッチャブルな存在でいられのも、こうした経済的バックボーンに支えられていたからなんですね。
「もう一度言おう。こんなにオイシイ町を、ゼニに敏感な信長様がますます見過ごすはずがない!」
ということで、坂本の町が単なる琵琶湖のレイクタウンでないことがご理解いただけたと思います。
次は軍事面から坂本の町を見ていきましょう。
坂本の軍事的価値
坂本城の築城は、元亀2年(1571年)に始まりました。
織田信長が比叡山を焼き討ちし、延暦寺を屈服した後、すなわち坂本の支配権を奪った後のことです。
ここで大活躍した光秀は、近江国「志賀郡」を信長から与えられ、織田家で最初の城持ち大名となりました。
というか光秀が「比叡山攻め」で先陣を務めたのも、坂本から程近い「宇佐山城」の城将だったからです。
宇佐山城といえば【宇佐山城の戦い】で壮絶な死を遂げた「槍の三左」こと森可成(もりよしなり)が城将として有名ですね。
宇佐山城は、信長が命じて作らせた山城です。
近江から京都へ向かう峠道をわざわざ移動させ、その城下を通るようにしていました。
理由はほかでもありません。
「近江→京都ルート」の1つである「今道越」を宇佐山城で監視することで、軍の侵入だけでなく平時の人と物流も管理できるようにしたのです。
上洛に成功したとはいえ、実は坂本の町も含めた志賀郡は織田家の支配地域ではありませんでした。
宇佐山城を築くことで、生命線でもある【岐阜~京都間】の交通路を確保しようとしたのですね。
ちょっと前までの宇佐山城は、城郭というより陣城――つまり臨時的に築城された前線基地という位置付けでしたが、近年になって複雑な縄張りや石垣造りであったことがわかり、織田政権にとって凄まじく重要な拠点だったと認識されつつあります。
かくも重要な場所ですから、当然ながら敵にも狙われます。
浅井朝倉連合軍です。
志賀の陣から宇佐山城の戦いへ
少し時を戻しまして、元亀元年(1570年)9月。
信長が織田軍の総力を挙げて摂津の大坂へ遠征すると、その最中に朝倉義景と浅井長政が連合軍で宇佐山城へと進軍してきました。
このとき同城には、わずかな兵で留守を任されていた森可成、そして信長の弟・織田信治、青地茂綱(蒲生賢秀の弟・蒲生氏郷の叔父)らがおりました。

森可成/wikipediaより引用
彼らは城を飛び出し、坂本で敵軍を迎え撃ち、少兵で奮戦。
しかし、衆寡敵せず敗死してしまうという事件が起こります。
この宇佐山城の戦いでは「槍の三左」という異名と共に小兵力で戦った森可成の勇敢さに注目が集まりがちですが、本稿では
【彼らがなぜ城を出て戦ったのか?】
という理由を掘り下げてみたいと思います。
そのことにより森可成の真価、そして後に築城される坂本城の実力も見えてくるものがあるのです。
宇佐山城の森可成が取るべき対応策は?
先程、宇佐山城は京都と岐阜を繋ぐ重要拠点だと申しました。
なぜならこの時期の信長にとって【政治・外交・軍事】の正当性は、すべて足利将軍家(義昭)を補佐しながら京都を支配することにあったからです。

足利義昭/wikipediaより引用
もしも京都を失えば?
畿内の支配だけでなく、近隣諸国と戦う正当性や優位性まで崩れてしまうため、絶対に手放すことはできません。
【岐阜~京都間の交通路】はまさしく生命線。
裏を返せば弱点でもあり、敵にしてみれば、そこを突けばいいだけです。
信長が織田軍の主力部隊を引き連れ、大坂に遠征すれば、いうまでもなく絶好のタイミングとなります。越前の朝倉、北近江の浅井は、およそ3万の連合軍で宇佐山城を目指してきました。
織田家にとっては、当然ながら警戒警報MAX!の事態。
そこで宇佐山城を守る森可成はどうすべきか?
「朝倉と浅井が動いた」という情報を受けてまず考えるのが、およそ1,000人といわれる兵力で京都侵入を阻止する方法です。
戦で勝つ、少なくとも戦に負けないために重要なことは、
・自軍に有利な場所を見極め
・敵軍より素早く移動し
・その場所を占拠すること
であり、総大将の能力が最も試される瞬間です。
では、自軍に有利な場所とは?
条件は3つ考えられます。
【自軍に有利な場所】
・敵軍にとって不可避な場所
・敵軍のメリットを活かせない場所
・自軍の優位性を活用できる場所
これを対浅井朝倉軍に当てはめて考えてみると、大軍が絶対に避けて通れない場所で、なおかつ圧倒的な兵力差というメリットを活かせず、逆に森可成の小兵力を最も働かせられる場所が、自軍に有利な場所の条件に当たります。
もちろん理想の場所なんてそうそうありませんので、近い条件を探すのですが、その方法は……。
まず最初に敵軍のターゲットを捉え、進軍ルートを予想(あるいは進軍ルートからターゲットを測定)します。
今回の場合は、既に敵対している朝倉と浅井が相手ですので、ターゲットは明らか。
◆遠征中の信長に最もダメージを与えられる場所
前述の通り、この頃の織田軍の政治外交軍事を支えていたのは
・京都
・岐阜
・京都~岐阜間
といった拠点です。
それが織田軍総出で大坂へ向かっているのですから、重要拠点のほとんどが空っぽ。
浅井朝倉にとっては、絶好のボーナスステージです。
このとき朝倉家は越前から北国街道を南下してきました。

朝倉義景/wikipediaより引用
もしもターゲットが岐阜城であれば、琵琶湖を東回りで南下し、東山道に入ります。
一方、ターゲットが京都であれば西回りで南下して、坂本を経由して京都を目指します。
北近江の浅井家も小谷城から軍を動かしました。
浅井長政の居城・小谷城は、織田勢の横山城によって監視(付け城)されていますが、そのエリアは小谷城南面のみで、越前方面に通じる北側と、支城伝いに琵琶湖方面へ出られる西側までは封鎖できていません。
むしろ織田勢に小谷城の裏手に回り込まれないように、浅井勢が、小谷城から琵琶湖にかけて支城網で北国街道を封鎖しています。
その浅井が、わざわざ軍を動かしたとなると、朝倉勢の目的は小谷城の救援でも、岐阜侵攻でもありません。
【京都方面への侵攻】は決定的でした。
戦線をどこに構えるか?
次に森可成は「戦線をどこに構えるか?」を考えます。
戦は主導権の奪い合いと言われます。
基本的により多くの兵力を戦場に投入した方が主導権を握ることができる。
小兵力でその主導権を奪い、握り続けるためには、敵軍にとって不都合な地を素早く占拠することが重要です。
実は、そのような場所にこそ城郭が築かれます。
ゆえに宇佐山城に籠城することも選択肢の一つとして考えられました。
宇佐山城自体が、岐阜~京都間の交通路にありますし、城郭は小兵力でも守れるように工夫がされているので、城に籠るという選択肢も当時十分に検討されたことでしょう。
しかし、同時にリスクが大き過ぎる戦略でもありました。
というのも、仮に宇佐山城を抜かれたら一直線で京都に侵入が可能となってしまうからです。
たしかに京都東山の手前には「中尾城」や「将軍山城」という、かつての足利将軍家が築いた城郭がありましたが、これらの城は近江方面から京都を攻めるためだったり、京都の洛中を襲撃されたときに逃げ込むための城でした。
近江方面から侵入する敵を阻むために築城されてはいません。
要は、森可成にとっては使い勝手が非常に悪い。これらの城に兵を置くと、宇佐山城の兵力がさらに減ってしまうというデメリットもあります。
※この辺は上田城の真田昌幸が、対徳川で戦った上田合戦などを参考にするとわかりやすいかもしれません
それに浅井朝倉は大軍です。

浅井長政/wikipediaより引用
一定数の兵力で宇佐山城を包囲したまま、別の部隊で白鳥越えの比叡山ルートや逢坂越えの山科ルートから京都へ侵入できてしまいます。そうなっては意味がなくなってしまいます。
もしも敵軍の最終目的地が宇佐山城であれば、籠城するメリットもあったでしょう。
しかし、敵軍の目的はあくまで【京都】そのものや【岐阜~京都間の遮断】であり、宇佐山城攻略はその手段でしかありません。
森可成が必死に守備だけしていても、本来の役割は果たせないのです。
おそらく並の武将だったら「宇佐山城の城将=宇佐山城の死守」で戦略を立案してしまうところ、名将である森可成は「宇佐山城の城将=京都防衛の責任者」を十分に理解した上で戦略を練るのでした。
高度な森可成の京都防衛戦略
森可成がとった戦略は、織田家の第一防衛線を宇佐山城から北国街道まで押し上げることでした。
もうお察しでしょうか。
その場所に最適な地が坂本です。
坂本は商業物流の大動脈と申し上げましたが、多くの兵と物資の必要な軍事行動においても超重要。大きな湊は、軍事用の兵站においても一大拠点となりえます。
まず坂本の湊を押さえれば、水際で敵軍の兵站活動を遅らせることができる――。
それだけでなく京都へ向かう峠越えの進軍ルートは、坂本の先で何筋にも分かれますので、扇の要である坂本さえ押さえておけば一ヶ所で複数の要所を握ることもできてしまうのです。
しかも兵は少数。防衛拠点を集約できる地こそが、最も適した場所でありました。
問題は、その坂本の町でした。
町内は依然として比叡山勢力が強く、新参者の織田家には従わない姿勢。

絵・小久ヒロ
こうなると坂本への進軍途中で、浅井朝倉だけでなく地元勢まで敵に回してしまう恐れがありますが、森可成はここでまたしても名将ぶりを発揮をします。
ためらうことなく坂本の町にいち早く進軍し、布陣してしまったのです。
浅井朝倉にしてみれば
「あー、あいつ坂本まで出てきて、比叡山を完全に敵に回しよったなw これなら側面から挟み撃ちできますわ」
と思ったことでしょう。
敵から見た森可成の布陣は完全に死地です。
しかし、そんなことはハナから承知で「坂本への布陣」をした森可成のチョイスは、
・京都とは反対側の坂本に比叡山勢力を引きつけることにより
・大半の軍勢を大坂に送って京都がガラ空きだった織田軍
にとってこれ以上ない、実はグッジョブな選択だったのです。
要は、敵味方の兵を【京都から引き離す】ことで大切な都を守ったわけですね。
『じゃあ信長は、宇佐山城ではなく、最初から坂本に築城すればよかったじゃん!』
そう思うかもしれませんが、坂本の町は比叡山の支配地域です。
志賀郡そのものが信長の支配下には入っておらず、そのような状況で築城などできません。
「じゃあ比叡山攻めちゃいなよ!」とは誰しも一度は考えますが、比叡山の軍事力と仏罰を恐れて躊躇するのが普通。
後に「仏罰なんてあるワケないじゃんw」とばかりに実行を移す信長が破天荒だったのであり、それが後の【比叡山焼き討ち】となるわけです。
少し脱線しました。
森可成の戦闘に話を戻しましょう。
衆寡敵せず!森可成、無念の敗死
浅井朝倉の大軍を待ち構えていた森可成以下の将兵たち。
少数ながらも戦線を持ちこたえ、数多くの首級を上げて善戦しましたが、兵力差は如何ともし難いものです。
森可成は、織田信治や青地茂綱らと共に討死してしまいました。
その後、宇佐山城に殺到した浅井朝倉連合軍。
結局は同城を陥落させることができず、比叡山に後退しました。
「だったら宇佐山城に篭っておけばよかったじゃん! 死なずに済んだのに」
そう思うのは早計で、森可成らの奮戦があったからこそ坂本で大軍を数日間も足止めさせることができ、その間に摂津の織田軍が京都まで帰ってこれたのです。

織田信治を抱えながら奮戦する森可成/wikipediaより引用
何度も言いますように戦は主導権の奪い合いです。
少数でもいち早く戦略拠点を奪取することで織田家に有利な戦場を設定するという主導権を森可成が握っていたのです。
「勇敢」だけでは片付けられない、戦巧者の戦いだったことが分かりますね。
もっとも信長の戻りが相変わらず神速だったことや、「戦で消耗したくない」朝倉軍の省エネ志向も影響しております。
かくして浅井朝倉連合軍は比叡山に布陣したまま降りてこなくなりました。
これが【志賀の陣】。
最終的に朝廷が介入して和睦となると、双方で兵を引くことに合意して戦いは終わります。
しかし少し長い目で見た場合、信長には非常に有意義だったことでしょう。
京都防衛には宇佐山城だけでは不十分であること。
岐阜~京都間の交通網強化が急務であること。
こうしたポイントを再確認することができ、今後の三好三人衆や大坂本願寺らとの激戦に備えることができるようになるのです。
そして宇佐山城に代わる新たな城の位置は、すでに森可成が教えてくれています。
そうです。それが坂本城です。
信長、坂本に目をつける
坂本を支配下に置くには?
当然ながら比叡山勢力との激突は避けられません。
同時に、琵琶湖の水運を使って動き回る浅井家を封じるため、琵琶湖畔の各湊も制圧していく必要があります。
舟は、出港できる湊があっても、入港できる湊がなければ機能しません。
そして森可成亡き後、宇佐山城の城将には明智光秀が任命されました。

明智光秀/wikipediaより引用
宇佐山城の城将になるということは、京都の防衛だけでなく、信長の戦略を実行に移す責任者になることを意味します。
浅井朝倉とは停戦協定が効いておりしばらく手を出せない。
そこで次のターゲットになったのが比叡山勢力の排除でした。
比叡山攻めというと、根本中堂を始め延暦寺全体が戦場になったイメージですが、実際、最も被害甚大だったのは、上坂本の比叡山系列の寺院や里坊だったと言われています。
もう信長の狙いは明らかですね。
坂本の町を押さえれば山への物資供給は困難となり、信長に屈服せざるを得ません。
同時に、京都へ向かう北国街道と琵琶湖の湊も押さえることが可能ですので、浅井朝倉に対しても優位になります。
さらに坂本の町自体の商業利権と、京都への物流も押さえることができる――。
非常に理にかなった戦略だったのですね。
明智光秀は、その結果、志賀郡を信長から与えられて坂本に城を築くことになります。
宇佐山城、坂本城、そして志賀郡の支配権を与えられた明智光秀は、織田家初の城持ち大名と言われますが、実はそれほどめでたいことではありません。
前述の通り、この時期の志賀郡は、大半が織田家の支配下にありません。
つまり統治するには労力が必要。
特に坂本の町の北方には琵琶湖水運を牛耳る湖族「堅田衆」がいました。
彼らは本願寺勢力とも繋がっていますので、容易に支配することはできず、真正面から対峙するには新たに強力な水軍が必要となります。
要は、志賀郡の「切り取り次第(自分で取った分は好きにしていいよ)」を約束されただけで、これからが本当の戦いだったのです。
光秀、坂本に城を建てる
坂本城は琵琶湖のほとりに築城された水城でした。
本丸は琵琶湖寄りにあって、しかも湖側に石垣が突き出ていたことが分かります。
現在も残る石垣は湖中にあって、余程の渇水がない限り見ることはできません。
それだけでなく、この琵琶湖中の石垣を見学するには、坂本城の本丸と推定された私有地に入る許可が必要です。
私が当地を訪れたときは無理でしたが、現在は一般公開されていてチャンスでもありますね。
◆光秀が見た景色、一望して 琵琶湖畔の坂本城本丸跡地、初の一般公開(→link)
また、湖中には、琵琶湖へ直接出撃できる「湊機能の跡を偲ばせる石垣」も発見されています。
当時の平城で、湖上に突き出た総石垣の城郭は誰も見たことがありません。
これに天守が付属する(しかも大天主と小天守の二つ!)となると、坂本城は全く新しいコンセプトで築かれた城郭であることが分かります。
では、この全く新しいコンセプトはどのようにして考えられたのか?
城にはそこに築城される理由が必ずあります。
城の役割と想定している敵を知れば、自ずと城の正面――すなわち最も注意が払われ、様々な守備の工夫が施される位置が決まり、何となく縄張り図が浮かび上がってきます。
では、坂本城の第一の役割は?
前述の通り、京都防衛です。
ここに城郭を構えることによって京都に向かう北国街道と複数の峠道、また琵琶湖の湊を管理します。
また、織田家がまだ支配をしていない志賀郡であることから、同エリアを制圧するための侵攻拠点が第二の役割となりましょう。
では坂本城が想定している敵は?
坂本城の築城時点で織田家に敵対する勢力は、浅井朝倉のみならず、未だに残る比叡山勢力、そして志賀郡内の湖族・堅田衆や一向一揆がいました。
こうした諸勢力と対しながら、主要な道である北国街道をどう監視するか?というと……。
最も手っ取り早いのが
「街道を城下町に取り組んでしまうこと」
でした。
この時代、街道を取り込んだ城は数多くあります。街道を付け替えて城内を通すことで、監視と封鎖を容易にするのですね。
同時に城郭は、街道に向けて何重にも堀を構え、攻めにくい縄張りを施します。
そこで注目したいのが琵琶湖畔にあった他の城です。
・長浜城(湖東)
・大溝城(湖西)
水城と呼ばれる城郭は、場内に河川や海、湖の水を取り込んで水堀を形成しますが、特に大溝城は、光秀が築城に関わったとされ、後年の大溝城の絵図が残されています。
これを参考に考えてみましょう。
穴太衆
大溝城は、時代を経て光秀存命時とは違った縄張りに改変されている可能性もありますが、湖水を利用した水城というコンセプトは大きく変わらないでしょう。
となると坂本城も大溝城同様、堀に水を引き込み、水によるトラップによって、陸路の北国街道に向けて厳重な防護が施されていたことが想定されます。
また、琵琶湖方面からの敵は必ず舟でやってくるので、上陸地点になる湊を固める必要があります。
同時に、敵船に対して迎撃態勢を取る必要があるため、水軍を組織する必要が生じますが、大溝城には城から直接、出撃できる湊があったことが分かっています。
当時の坂本城の描写を読むと、城から直接琵琶湖に舟が出れたとありますので、対堅田衆、あるいは、琵琶湖の北側で支配権を握る対浅井用の湊が備わっていたことは間違いないでしょう。
そして坂本で忘れてならないのが
【穴太衆(あのうしゅう】
です。
石積みのプロ集団として有名な彼らの本拠地が近所にありました。
高度な石垣技術を誇るような……穴太衆による石垣は、現在でも坂本の町中や寺院で見ることができます。
特に明智家の菩提寺でもあり、光秀の墓がある「西教寺」の石積みは、城郭を思わせるような見事な石積みで、現在でも見ることが可能です。
湖水に残る石垣の存在から、坂本城は穴太衆による見事な石垣を施した城郭だったことでしょう。
坂本城の天守はなぜ作られた?
次に坂本城に天守が設けられた理由を考えてみます。
まず坂本城は、築城時点で「志賀郡支配のための最前線」だったことを見落としてはいけません。
最前線の城で必要な機能の一つは「警戒」です。
最前線の拠点は真っ先に攻められます。
普段から入念に準備をしておき、敵が侵攻してくる前に迎撃態勢を整えていくことが理想です。
そうした場合、できるだけ遠くまで見渡せる機能が必要です。
岐阜城における稲葉山や、安土城における安土山など。
城と山が一体化した城郭には、それ自体が物見の機能を有していますが、残念ながら坂本の地には町や港を同時に掌握できる適当な山はありません。
宇佐山城では坂本から遠く、既に不十分であることが分かりましたし、比叡山でも対湖族用の城郭にはなりません。
しかし坂本城には琵琶湖の物見機能は必須です。
ここからは妄想ですが、そこで考えられたのが高櫓や櫓の望楼機能だったのではないでしょうか。
櫓はできるだけ高い方が理想です。
おそらく坂本城の天守にはこのような機能があったのでしょう。
現代の我々は、城の天守というと姫路城や名古屋城、大阪城のように巨大な天守を思い浮かべますが、安土城の築城前は、3階櫓くらいの規模でも十分に巨大だったでしょう。
今となっては何層か不明ですし、「見るものを圧倒した」と同時代の日記に記されていても、後の時代を知っている者からすると、さほどの規模ではなかった可能性は十分にあります。
また、当時の記録には吉田兼見が坂本城の小天守で茶を飲んだ記録がありますので、小天守を備えた連結式の天守だったと考えられています。

吉田兼見/wikipediaより引用
軍事用と接待用で明確に分けていたのでしょうか。なぜ天守が二つあったのかは分かりません。
ちなみに吉田兼見は吉田神社の神主です。
この吉田神社は下鴨神社と同じく志賀越えで入る京都の東山にありました。
つまり吉田兼見にとって、自身の資産と安全のためには坂本城の明智光秀と昵懇の仲になるメリットが大きかった。
光秀と吉田兼見の関係からも、坂本城が京都(特に東山の住人)にとって非常に重要だったことが分かりますね。
一度、落城して再建されていて……
話を坂本城に戻します。
当時は城の一部が琵琶湖に浸かってるだけでも目を見張るものがあったでそう。
琵琶湖を行き交う舟から、高層の建築物が遠望できるだけでも、相当の驚きだったと思われます。
また織豊系城郭の特徴として、
・天守
・瓦葺き
・石垣
という3点セットがあります。
琵琶湖畔に築城された城郭には、安土城を除いて金箔瓦はありません。
坂本城と同じく琵琶湖畔の「大溝城・長浜城」は、織田信長が命じたためなのか。同じような湖城で城から直接出撃できる湊を有しているという共通の特徴があったと考えられます。
ですので前述の通り「大溝城」や「長浜城」から坂本城の姿を妄想するのがいいかもしれませんね。
いずれにせよ坂本城は、機能美と様式美を兼ね備えた城郭だったことが学者たちによって想定されていますが、肝心の発掘調査が市街地化によりほとんど進んでいません。
今に残るかすかな地形と地名、またこの地域に点在する、坂本城の城門だったという寺の門から予想するしかありません。
現在の地図からは、坂本城らしき痕跡が少し分かります。
本丸と推定される琵琶湖側の一角を囲むように川や水路が巡らされているのが分かります。
しかし、考慮に入れないといけないのは、明智光秀が秀吉に敗れた後、明智家滅亡後に坂本城は一度、落城して再建されていることです。
清洲会議以後、丹羽長秀や豊臣政権下で浅野長政が城主となり、修築して使用していましたので、この時期に改変された可能性もあります。
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浅野長政の生涯|秀吉の義弟で豊臣五奉行の筆頭 なぜ関ヶ原では東軍に?
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よって現在の地図に残る微かな町割りだけを持って明智光秀の坂本城とはっきり言うことはできません。
ちなみに浅野長政の次男で、後年、大坂の陣で活躍し、安芸広島藩主となった浅野長晟は坂本城で生まれています。
まとめ:琵琶湖の水ぜんぶ抜いて欲しい
最後にもう一つ。
坂本城は、明智光秀存命中に、大きな役割変換が起きます。
浅井朝倉を滅亡させ、琵琶湖の水運を完全に支配下に入れた信長は、琵琶湖畔に安土城を築城し、湖の東西南北に城郭を築きました。
・長浜城(北)
・安土城(東)
・大溝城(西)
・坂本城(南)
この時点で、本願寺と和睦し、畿内から敵対勢力は駆逐され、近江の支配権は織田家へ。
最前線の城として築城された坂本城の役割は【兵站】を担う支城の一つとなります。
織田信長は上洛時の移動に安土城から坂本城に船で渡っています。
しかし支城となってもその役割は重要で、今度は安土城防衛の要として、そして古代から変わらない坂本の町の役割、すなわち物流と、ゼニを生み出す拠点として十二分に能力を発揮します。
明智光秀は、志賀郡を平定した後、主戦場を丹波方面に移します。
それゆえ丹波にも複数の城郭を構えますが、一環して坂本城は明智家の本城でした。
その後も坂本の町が生み出す莫大な富は、織田家のみならず、明智光秀の軍事力と政治力を大いに支えたことでしょう。
ということで、様々な視点から坂本城を探ってみましたが、いかがだったでしょうか。
最終的には妄想するしかありませんが、坂本城が単なる水城だけではないことがお分かりいただければ幸い。
同城が幻となってしまったことが本当に残念でなりません。
そしていつの日か【琵琶湖の水を全部抜いて】でも、湖底に眠る坂本城をこの目で見てみたいものです!
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