慶長2年(1597年)5月24日は、織田信長や豊臣秀吉と親交を持った宣教師ルイス・フロイスの命日です。
フロイスは『信長公記』と並んで検証される史料『日本史』の著者として有名な人。
他にも『日本年報』や『日欧風習対照』など数多の記録を記しており、長崎イエズス会の修道院で亡くなった後、遺骨は長崎に葬られました。日本で没していたんですね。
今回はこの人の生涯とともに『日本史』の中身も見ていきましょう。
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インドのゴアでザビエルに出会う
フロイスは1532年、ポルトガルの首都・リスボンで生まれました。
9歳でポルトガルの宮廷に入っていたということですから、元々それなりの身分を持った人だったのでしょう。
となれば将来の出世も約束されたようなものです。
しかし彼はなぜか、16歳の若さでイエズス会に入ってしまいます。宮廷で何があったんでしょうかね。
後々「日本史」ほどの大作を書き上げる割に、自分自身の日記などはないのが不思議なところです。散逸してしまった可能性も十分に考えられます。
イエズス会に入ったフロイスは、すぐにインド・ゴアに向かいました。
現代でも飛行機で15時間もの距離。
いきなり僻地へ飛ばされた――というわけではなくて、当時のゴアはイエズス会の拠点になっていたのですね。
「アジアへ布教するなら、アジアで宣教師を養成すればいいよね」
という考えもあったのでしょう。
ここでフロイスはフランシスコ・ザビエルに出会います。
31歳でついに訪日許可をゲット!
ザビエルはおそらく「ワタシはこれからニッポンに行くところデース。アナタもニッポンの話を聞いてみマスカー?」(※イメージです)とでも誘いかけたのでしょう。
フロイスは、ザビエルのお供をしてくれることになっていた日本人・ヤジロウ(またはアンジロウ)とも知り合い、まだ見ぬ極東の島国に大いに興味を惹かれたようです。
ゴアに来てから、ザビエルが日本へ出発するまでおおよそ1年くらいあったようですので、いろいろな話を聞いたと思われます。
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とはいえ、当時のゴアで日本語や日本文化について知る機会は皆無です。
フロイスはまずお勤めに精を出しました。
そして13年後、29歳のときに司祭となり、また、その筆力と語学の才能を高く評価されて、布教先との連絡役を任されます。
これも真面目に勤めた結果、31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教しに行けることになりました。
この頃にはザビエルは亡くなっています。
他の宣教師による日本での布教が思うように進んでいないことに対して、イエズス会のお偉いさんも「なんとかせねば……」と思っていたのでしょう。
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日本に馴染みすぎて布教を忘れてそうな感じの宣教師もいますね。
もしかしたら、フロイスはイエズス会の秘蔵っ子みたいな感じだったのかもしれません。
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